第六章 灰色の追想
「日差しを翳らすな」
マルトは立ち上がり、シャルカを睨んだ。
「妙な因縁をつけるね」
昨晩とは打って変わって、シャルカは白い歯を見せて笑っている。
「何をしに来た」
「私の方では別に用はないんだが、うちの主人がちょっと、な」
その時になってようやく、シャルカの後ろに、闇から湧いたような人影があるのに気がついた。
「クロクだな」
左腕が軋むほどに痛む。
「クロク……? ああ、昨日はそういう名だった」
「よく言うぜ。人を使用人呼ばわりしておいて」
シャルカはクロク――という偽名を使っていた人物――の後ろに回り、肩に顎を乗せた。
「本当の名を教えてやれよ。いつまでも煙に巻いて、こいつがかわいそうだろう」
人形のように整った容貌に似合わない、乱暴な言葉遣いでシャルカは話す。こちらが本当の姿なのだろうが。
「どうしたものかな」
「煮え切らないなあ。じゃあ私から先に言うよ。シャルカは嘘だ。私はオンディーヌ」
オンディーヌ、覚えがある。名の知られたリブシェの魔人だ。
「似た名同士だ。仲良くしようぜ」
マルトとオンディーヌ、どこがどう似ているのかまるでわからないが、警戒するマルトにオンディーヌは親しげに笑いかけた。
「さあ次はあんたの番だぜ、ご主人様」
「ああ。本当は城に戻るまで名乗らないつもりだったんだが、仕方なかろう。隠してもお前が伝えてしまうだろうし」
少し首を傾げて、
「私はリブシェの統率者、いわゆる魔王だ」
息が詰まった。リブシェに魔王がいるということは周知の事実だが、実際どんな人物なのか、またその名すら、ヴィシェフラトではまったく知られていなかった。
しかし次の言葉は、マルトをさらに驚かせた。
「名はジークムント。ジークリンデの兄だよ」
左腕の痛みが耐えがたいほどに強まる。マルトは小さく唸って膝をついた。
「なるほど、ジークリンデはそこか。君には礼を言う。体内でジークリンデを保っていてくれたことに」
「やりたくてやったわけじゃない」
荒く息を吐きながら、辛うじてそれだけ答えた。
「さもあらん。それでは切り取って持っていこうか」
咄嗟にマルトは左腕を庇う。
「おい、やめろよ」
オンディーヌはジークムントから離れ、マルトとの間に割って入った。
「冗談だよ。安心してくれ、マルト君。私は君にも興味を持っているんだ。人間の身でジークリンデを倒し、そして今日はシュトゥーラー・エミールもだ」
ジークムントはマルトの背後に目を向けた。エミールとかいうのはあのキメラの名か。やはり、キメラを使役していたのはこの二人だったのだ。
「まさか、あの子がね。かわいそうなことをしちまった」
オンディーヌは急に声を沈ませた。
やっと痛みが引き始め、マルトはゆっくり立ち上がった。
「確かに私はキメラを殺した。だが街を襲わせたのはお前たちだ。何のためにあんなことをした」
「君のためだよ」
ジークムントが静かに答える。
「私の?」
「ああ、君の力を確かめたくてね。ズデーテン東部で暴動を起こさせ、ここに誘導した。宿に泊めた上で、逃げられないように、街中でキメラを暴れさせるつもりだった」
「そんなことをしたら街の人たちは――」
「もちろん被害は少ないに越したことはない。君が城門で迎え撃ってくれたのは、その意味ではありがたかったね」
「だから言ったろうが。こいつはそんな臆病者じゃないって」
オンディーヌがマルトに向かって片目を閉じてみせる。
目の前で平然と話している二人と、その二人が引き起こした事態が結びつかず、マルトは混乱していた。
「お前たち、街を、人の命を何だと思ってる」
「可能な限り最大数を保護すべき対象だ」
ジークムントは事もなげに答え、オンディーヌも頷く。
「結果として犠牲者は出なかった。それはマルト君、君の行動によるものだ。君は誇っていいし、私は感謝しよう」
そう言うとジークムントは深く頭を下げた。
考え方が理解できない。マルトが言葉に詰まっていると、
「街に死人が出なかったのは良かったよ。でもエミールは死んじまったな」
オンディーヌがにわかに、寂しそうにつぶやいた。
マルトは魔導器に手を当てた時の温かさを思い出した。
「殺してしまったのは悪かった」
「別にあんたを恨んでるわけじゃないさ。むしろ褒めたたえたい気分だ」
オンディーヌはマルトに向け、再び笑顔を作る。
マルトは自分がキメラの魔導器を持っているのに気づいた。
「返す」
魔導器を差し出すと、オンディーヌの目は一瞬見開かれた。だがすぐに首を振り、
「いいや、それはあんたが持ってろ」
無理やり押し戻された。
「元々お前たちのものだろう。返す」
「違うって言ってんだ。その魔導器はエミールに勝ったお前の責任だ」
「責任? 何だ、それは」
「リブシェの道徳だよ。力のある者はない者を支配するが、その結果に責任を持つという」
ジークムントが二人のやり取りをさらって答えた。次にオンディーヌに向かって聞く。
「道徳の問題はこれくらいにして、計画はどうしようね。練り直しがいるな」
「うっさいなあ、今から考えるよ」
オンディーヌは口を尖らす。
「エミールが駄目になったから、ディッカー・マックスも使えないだろ。そうしたら、フリューリングの順番を入れ替えて、やりたくないけどアーベントロートを入れるしかないか」
「それで行けそうか」
「やってみないとわからん。制御がきつそうだな」
オンディーヌはそこでちらりとマルトを見た。
「何の話だ」
「そう急くな。追々わかる」
問いかけをかわし、ジークムントは森の方へ頭を向けた。
「そろそろ出立の頃合だ」
森の中から、真っ黒い馬の引く二頭立ての馬車が、音もなく滑り出してきた。馭者の姿は見えない。魔力で操っているか、もしくは馬たち自体が、知能の高い魔獣なのだろう。
「行こう」
オンディーヌがマルトの腕をつかみ、返事も聞かずに歩き出す。
「ちょっと待て。行くってどこに……」
「決まってんだろ。都だよ」
「都?」
「我々の京師、ドレスデネーだ。君をそこに招待しようというわけだ」
ジークムントは宣言するように告げると、マルトを正面から見た。
「なぜだ⁉︎」
「君たちも気づいていようが、我々は間もなくヴィシェフラトに侵攻する。その時、敵方にジークリンデの魔導器を宿した君がいては色々と厄介だ。しばらくドレスデネーに逗留してもらうよ。まあ、ゆっくりしていくといい」
「いきなり何を……言って……」
マルトの声は次第に小さくなる。
「私は……」
ジークムントの瞳から目が離せない。気がつけばその濁った灰色は、マルトの脚を濡らす流れに変じている。
流れは急激にかさを増し、大波になってマルトを飲み込む。わずかにその瞬間、灰色の水面の下、抑えつけられた感情の色が見えた。
その色は、愛情だ。
気がつけば、薄暮のようにぼんやりした風景の中をたゆたっている。不思議と心地良くさえある。ジークリンデと会った時以来の炎が見えないことにマルトは気づく。
どれほどそうしていたのか、時間の間隔が曖昧になっていた。
「急用ができた。先に行ってくれ」
マルトは自分が喋っているのに気づく。薄墨色のもやを通して、カレルとエリシュカの顔が映る。
どうやらマルトの身体は、ジークムントに操られているらしい。
エリシュカが何か声をかけてくるが、マルトには聞こえない。それなのに、自分の答えだけははっきりと響く。
「急用だと言った。それ以上話す必要はない」
二人が視界から消え、代わりに馬車が見えた。
このまま連れ去られるのかと思った瞬間、左腕に痛みが走った。
灰色の流れが突然薄まり、先ほどよりはっきりカレルの姿が見えた。左腕をつかんでいる。
「マルトさん、どうしちゃったんですか。しっかりしてください」
こもった響きだが、今度は声が聞こえた。
――カレル!
しかし、マルトの声は届かない。
体が軋む。ジークムントが無理やりに動かそうとしているのだ。マルトは必死でカレルに話しかけようとする。
だが、何を言う? 助けを頼んだらジークムントたちとの戦いになる。勝てる見込みはない。
マルトの腕がカレルを振り払った。どうしてか、一瞬だけ景色が鮮明になる。
「来ちゃ駄目だ」
マルトはそれだけ言い放つ。同時に目の前が濃い闇で満たされた。
その後は、何も目に映らない中、土を踏む感触だけが伝わって、やがて誰かの手が体を引っ張り上げてから、その場に座らされた。
すぐに規則的な振動が始まる。
闇が少し薄らいだ。正面にオンディーヌの顔が見える。ジークムントはマルトの隣にいた。天蓋と扉のついた馬車の中だ。
オンディーヌがマルトの肩をぽんぽん叩いた。
「いやあ、やっとドレスデネーに戻れ――うわっ」
突然馬車が揺れた。足の下からがりがりと地面を擦る音が響いてくる。動けないマルトの体をジークムントが覆いかぶさるように守った。
「止まれ」
ジークムントが告げると、間もなく揺れは収まった。
「なんだよ、車輪が壊れたのか」
オンディーヌが顔を上げる。
「いや、呪だな」
「呪だあ?」
「車輪の動きを止められた。なかなか独創的な術者だ」
ジークムントはマルトを離し、座席から腰を浮かせた。
「くっ……」
マルトはうめいて体を揺らした。周囲の暗いもやが急速に消えていく。
「あれ? あんた動けるのか。おい、ジークムント」
ジークムントはオンディーヌの呼びかけに答えず、扉を開けて外に飛び降りた。同時に光が炸裂する。扉が派手に弾け飛んだ。
「ジークムント! 大丈夫か」
オンディーヌが叫ぶ。その時、マルトの体にすっかり自由が戻った。ふらつきながらも、ジークムントとは反対側の扉を開けて地面に転がり出る。
「マルトさん!」
カレルが駆け寄ってその体を助け起こす。
「ありがとう。大丈夫、離れていろ」
「でも」
なお肩を支えるカレルの手に自分の手を乗せ、しっかり握ってから離した。
再び閃光が走った。馬車が揺れるほどの爆発音が響き渡る。
強烈な熱線を放ち続けているのはエリシュカだった。
「もういい、やめろ!」
マルトはエリシュカに向けて走り出す。
「今のうちに逃げてください!」
エリシュカは叫んだ。
「あなたの役に立ってみせる」
そう言った刹那、熱線が砕けるように弾かれ、足元で破裂した。
小さな体が軽々と吹き飛ばされるのを、マルトは重力を操ってなんとか受け止める。
「残念ながら君は役立たずだよ」
炎と煙の中から、ジークムントが平然と歩いてきた。体の前にはには四角い透明な防壁が見える。ジークリンデが使っていたものと同じだ。
「馬車がぼろぼろになっちまったぞ」
後ろではオンディーヌが、外れた扉を付け直している。
「名はよく知らないが小さい方の君、マルト君を扱うほど君には優しくできないよ」
ジークムントが微笑み、マルトは気づいた。
「エリシュカ、奴の目を見るな!」
しかし遅かった。エリシュカの体はマルトの腕の中でびくんと硬直し、棒立ちになってから、操り人形のように歩き始めた。
「エリシュカ!」
カレルが声を上げたが、全く反応がない。
「そこにいろ。君もやられるぞ」
カレルを制止して、マルトはエリシュカを追う。
エリシュカはジークムントに歩み寄りながら、腰の鞘に手を伸ばし、ナイフを引き抜いた。
「君の瞳の色のことだ、少々気に入らない。いっそ抉り取ってしまおうか」
ジークムントは歌うように言った。
逆手にナイフを持ったエリシュカの手が、顔の位置まで上がる。
「やめろ!」
追いついたマルトは右手でエリシュカの腕をつかみ、顔から引き離そうとするが、どこにそんな力があるのか、全く動かすことができない。
「ジークムント、私は逃げない。どこへでも連れていけ。その代わりエリシュカは解放してくれ」
マルトはエリシュカの腕を握ったままで頼んだ。その背中に答えが飛ぶ。
「我が身を賭してその子を助けようとするのか。ならば己の力を見せてみたまえ」
ナイフの先端がエリシュカの頬に触れ、血が丸く盛り上がった。
マルトは自分の左腕を見て、そして決断した。
「力を貸してくれ」
左手でしっかりと、エリシュカの腕をつかむ。瞬く間に膨れ上がった魔力で、そこにまとわりつくものを薙ぎ払った。
ナイフが落ち、エリシュカが崩折れる。両腕でその体を抱きとめ、地面に横たえた。
そのまま、マルトも膝をつく。心臓が破れるほどに拍動している。
「こいつ、本当にジークリンデの力を使いやがった――」
オンディーヌのつぶやきが聞こえた。マルトは荒い息を吐いて振り向く。
「少しだけこの子たちと話す時間をくれ。その後はお前たちの好きにしろ」
「良かろう」
ジークムントは変にしわがれた声で答え、その後で突然膝をついた。
「おいどうした、大丈夫か」
その背中に手を当て、オンディーヌがかがみ込む。
「感謝する」
そう言うとマルトの方もゆっくりと地面に手をつき、その姿勢のまま鼓動が収まるのを待った。
「どうなってるんだ、二人とも」
オンディーヌの声が耳に届いたが、なおしばらく、マルトは動かずにいた。
やがて呼吸が整ってきた。心臓に手をやると、こちらもだいぶ落ち着いている。
マルトは立ち上がった。ジークムントも同時に立ってマルトを見る。
瞳の濁りの向こうに、澄んだ光が見えた。その光を確かめようと一歩足が前に出るが、体重を支えきれずによろめいた。
「マルトさん!」
いつの間にか後ろにいたカレルがその体を抱き止める。
「すまない、大丈夫だ」
礼を言ってからかがみ込み、横たわったままのエリシュカに声をかけた。
「エリシュカ、話せるか」
「マルト……さん。私……お役に……立てなかった」
エリシュカの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「いいんだ、少し休め」
マルトはエリシュカの顔に触れ、涙と頬の血を一緒に拭い取った。
「マルトさん、エリシュカは――」
後ろからカレルが聞いた。
「大丈夫、身体の自由が回復しきってないだけだ。すぐに治る」
「良かった」
カレルは安堵の息を漏らした。
「私はもう行かなきゃならない。この子の面倒を頼む」
「えっ? 行くってどこに?」
マルトはジークムントたちを横目で見た。
「あの男、リブシェの魔王と名乗ってる」
「魔王だって⁉︎」
カレルは愕然とした表情を浮かべる。
「ああ。私はドレスデネーに連れていかれるらしい。残念だが力の差がありすぎる。逆らうことはできない」
「今の、エリシュカを助けた力を使っても駄目なんですか」
「無理だ、消耗が激しくて」
カレルは唇を噛んだ。
「すみません、僕がもっと強ければ」
「自分を卑下するな」
マルトはカレルを抱き寄せて言う。
「エリシュカが回復したら、二手に分かれて、君はリーグニッツ、エリシュカはフンデルトヘルメに行ってくれ。ここで起きたことを、ターリヒ校長とレオシュ、それからノエミに急いで伝えるんだ。その後は向こうから指示してくれるだろう」
「――わかりました」
カレルは答えて、マルトの肩に腕を回した。
「頼んだぞ」
そう言ってマルトはカレルの背中をぽんと叩き、オンディーヌの方を向いて立ち上がった。
「エミールの魔導器はどこか知らないか」
オンディーヌは頷いて、馬車に頭を突っ込みごそごそやった後、
「ほらよ」
魔導器を投げてよこした。
「すまない」
左手で受け取り、わずかに念を込めると、ぴしっと音がして魔導器はひびの入った箇所から二つに割れた。
マルトは割れた魔導器をカレルに差し出した。
「エリシュカと一つずつ、これを持っていてほしい」
「一つずつ、ですか? 何のために――」
「魔導器は二つに割れても、常に空間に対して一つであろうとする、簡単に言えば空間を繋ぐ性質がある。ある程度の魔力があれば、それを利用して遠隔地同士の通信ができる」
カレルは唇を噛む。
「エリシュカはともかく、僕にできるでしょうか」
「できなければノエミに頼めばいい。連絡を取り合って、協力して動くんだ」
「はい、言われた通りにして、絶対マルトさんを助けに行きます」
カレルは魔導器を受け取って、固く目を閉じた。
「じゃ、しばらくお別れだ。大丈夫、必ず戻ってくる」
そう伝えると、マルトはカレルを引き離し、ジークムントに向き直った。
「さあ、行こうじゃないか。あんたたちの都に」
オンディーヌが再び、歯を見せて笑った。
「胸を張ってやがる。捕虜だってのに」
「当たり前だ。今日はこっちの勝ち戦なんだから」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます