第五章 宴のあとと、さき

 死とは何か。

 マルトは目の前の物体に触れ、考える。それは、ちょうど手のひらに収まるくらいの真紅の結晶だ。キメラの持っていた魔導器である。マルトはさっきまで戦っていたキメラの、背の上にいる。

 朝の太陽が肌を焼き始め、頬を伝った汗が顎から滴となって落ち、白化したキメラの皮膚にしみを作った。しかし、石膏のようにざらざらとした多孔質に変わった身体は、すぐに汗を吸い込み、どこにしみがあったのかもわからなくなった。

 キメラは魔導器を除いて、全身が均一にこの物質に変化している。魔導器には、これも白化しているが、二本の太い管が繋がっており、そのうち一本はマルトの剣で完全に断ち切られていた。致命傷はそれだろう。

 マルトは魔導器をつかんで力を込める。白化した管は脆く崩れ、すぐに取り外すことができた。

 キメラの生命活動は、間違いなく停止している。

 魔導器から生命力を送られてキメラの身体は動いていた。生命力の源泉を失って、キメラは停まった。

 しかし、魔導器にはまだ力が残っている。

 生命力を送っているものと、受け取っているものと、どちらに命の本質があるのだろう。

 もし答えが前者なら、ジークリンデは? 元来私が持っていた魔導器より、ジークリンデのそれの方がはるかに大きく、強いはずだ。

 今生きて動いている私は、マルトなのか。それとも、もしかすると私は既にジークリンデに乗っ取られているのか。

 マルトは左腕を押さえ、妄想を振り払うように街の方を見た。城壁の向こうから、炊事の煙が何本も立ち上っている。

 いずれにせよ、この街を守れた。まずはそれで良いではないか。

「マルトさん」

 下からエリシュカが呼びかけた。

「街の守備隊長がお話ししたいそうです」

「うん」

 マルトは努めて明るく答え、キメラの背から飛び降りた。

 エリシュカの隣には、いかつい顔の老人が立っていた。半分禿げた残りの髪を油できっちり撫でつけ、立派な口ひげをたくわえている。

「ここの守備隊長のクベリークと申す。ご協力、誠に感謝する。あんた方のおかげで街は救われた」

 老人は深く頭を下げた。

「そんな大層な。キメラを倒せたのは、あなたたち守備隊がいてくれたからです」

 マルトも慌てて、しゃちほこばったお辞儀を返した。

 老人は頭を上げると、持っていた剣を杖のように地面につき、身をそらせた。

「さて、そんな恩人に恐縮ではあるが、守備隊長としていくつか質問することを許してほしい」

「もちろんです」

 うむ、と頷いて、老人はマルトたちの所属や街に来た目的、今後の予定などを尋ねてきた。

 質問は明確で順序立っている。こういった役職の人物にありがちな、杓子定規なところもない。マルトは話しながら、目の前の人物にやや好意を持った。キメラと戦った時の守備隊の統制の取れた動きは、この男の薫陶によるものだろう。

 簡単な自己紹介ともいえる話を終えたところで、隊長は、うん、と声に出して頷いた。

「あんた方のことは一通りわかった。それで問題はこいつだ」

 そう言いながら、隊長は右手を握ってキメラを突いた。

「あんた、なぜこいつが来るとわかったんだね?」

 隊長の窪んだ目が、光をたたえている。

 少し迷ったが、マルトは事実をありのままに話すことにした。

「信じられないかもしれませんが、宿の同室になった妙な二人組の書置きに、月が昇る頃東門を見ろと書いてあったんです」

 隊長は首をひねった。

「そりゃあえらく妙な話だな」

「疑わしいのはわかりますが、それ以上は申し上げようがない」

 マルトは堂々とした態度に見えるよう心がけて話した。怪訝そうな表情でマルトの顔を見つめていた隊長は、しばらくして軽くて首を振った。

「とりあえず話を進めよう。いや、実際腹落ちはしとらんが、あんたらが悪事を企んでるようには見えんしな」

 かかかっ、と豪傑笑いをしてみせる。マルトも微笑を浮かべて返した。

「で、その二人について話してくれるかな」

「ええ、もちろん。とはいっても大したことは知りませんが」

 マルトは話し始めた。

「街の中心の、ガラス窓がついた宿屋で同室でした。男女の二人組で、主人と使用人だと聞きました。名は主人がクロク、リューベンの領主の親戚だとか言ってましたね。使用人の方はシャルカ。二人とも昨夜急に宿を発っています。心当たりはありますか?」

「ううむ、知らぬ名だな。この街は王国と北縁同盟の中継路だ。わしの知らない人間たちがどんどん通行していく。ま、あんたもその一人だが」

「もう知り合いになりました。それどころか、共にキメラと戦った戦友です」

「それを言われると弱いな」

 隊長は無邪気な表情になってぼりぼりと頭をかいた。戦友という言葉で共感を覚えてしまうのは、従軍経験者に共通である。

「次にお会いする時は麦酒でもやりましょう」

「そうさな」

 そう答えた隊長はしかし、冷静な目つきに戻っている。次がいつになるのか、二人ともわかりはしない。

「ともかく、クロクという人物についてはこちらで調べる。しかし難儀しそうだな……」

 腕を組む隊長に、マルトは尋ねた。

「あの、こちらからお伺いしてもいいですか?」

「ああ、なんなりと」

 マルトは城門の方を見た。馬車は既に運び去られているが、積荷の材木が数本、城門脇に投げ出されたままだ。

「昨夜、どうしてあんな遅くに荷馬車が入ってきたんでしょう。彼らのせいで、下手をすれば街中に魔獣たちが侵入するところでした」

「ああ、それだ」

 隊長は髪の残っている後頭部をぼりぼりかいた。

「わしも門番に聞いたんだよ。なんでも材木の運搬が遅れているから、街に来たら門を開けてほしいと頼まれたそうだ。門番は口を割ってないが、あれは多分金を積まれたな」

「頼まれたって、一体誰に?」

「それが商人だと名乗ったとか。確かリューベンの……リューベンか!」

「おそらく私たちが会ったのと同一人物ですね」

 疑念が頭をもたげる。荷馬車に乗っていた者たちへの事情聴取はまだのようだが、多分同じことを答えるのだろう。リューベンの商人に、急いで材木を運ぶよう頼まれた、と。

「さてと、困ったぞ。リューベンには誰かを問合せに遣わさんといかんな。それと、しばらくは街の防衛も強化する必要がある。もっとも……」

 そこまで言って、隊長は少し気弱な顔つきでマルトを見た。それでマルトは察した。

「もっとも、キメラが本当に街を狙っていたのかどうかはわかりませんがね」

「えっ、どういう意味ですか」

 エリシュカが背後から聞いてきた。

「キメラの狙いは街じゃなく私だったかもしれない、ということさ」

 マルトは後ろを向かずに答える。

 隊長は息を吸い込み、

「その通りだ。そして、あんた方にはすぐにこの街を出ていってほしい」

 そう言ってから目を閉じた。

「ちょっと、なんですかそれ? 私たちは命がけでここを守ったのに――」

 前に出ようとするエリシュカを、マルトは押しとどめる。

「すまん。だがわしらは何より先に、この街を守らなければならん。それはあんた方への信義より優先されるんだ」

 隊長は目を閉じたままで言う。

 マルトは穏やかに声をかけた。

「あなたの判断は正しいですよ。それにしても、今回の件で守備隊に死者がなかったのは良かった。もし犠牲者が出ていれば、私は金輪際この城門の内へは入れなかったかもしれない」

 隊長は急に疲れた老人の顔になって言った。

「次はあんた方を歓迎できるよう祈るよ。それから、その魔導器はあんた方が持っていって構わない」

「ありがとうございます。遠慮なくいただきますよ。青狼のものは街の皆さんに差し上げますね」

「承知した」

 隊長は肩を落とし、城門へと去っていく。

 マルトは振り返った。

 エリシュカは俯いて震えていた。

「泣いてるのか?」

「泣いてないです。怒ってるんです。マルトさんは悔しくないんですか」

 エリシュカはマルトをきっと睨みつける。

「そりゃあ悔しいさ。だけど、残念ながらこんな話はよくある。狡兎死して走狗煮らる、ってね。煮られなかっただけましだよ」

「頭ではわかっても、気持ちの整理がつきません」

「そうね」

 マルトは笑って、エリシュカの頭をぽんぽん叩いた。

「認めてほしいのは私じゃありません。あなたのことを」

「いいんだ。エリシュカ、君は私を認めてるだろう。私は君とカレルに信頼されれば満足だ」

 そこでマルトは気がついた。

「そういえばカレルはどこだ?」

 エリシュカと周囲を見回す。カレルはキメラの頭の前に立っていた。手を伸ばし、自分が折った角に触れたまま動かない。

「カレル、ちょっと来てくれ」

 手を振って呼ぶと、カレルはやけにのろのろと頷いて歩き出した。マルトたちもカレルの方に向かう。

 対面しても、カレルは顔を上げない。

「どうしたんだ、浮かない顔をして」

 カレルはマルトの目を見ずに答えた。

「僕は、マルトさんの力になれませんでした。もうお供する資格がありません」

「何を言ってるんだ。キメラに勝てたのは、カレルの撃った弾が奴の魔装に穴を開けたからだぞ」

 カレルは首を振る。

「あれは僕じゃなくても、誰にでもできました。それに一撃で仕留められなかったせいで、マルトさんを危険にさらした」

「それは違う」

 マルトは手に持った魔導器を掲げた。

「見ろ。ひびが入っている。徹甲弾が当たってできたんだ。キメラが倒れなかったのは、徹甲弾で壊せないほど魔導器が大きかったからだよ」

 カレルはようやくマルトの目を見た。マルトは大きく頷いてみせ、それから付け加えた。

「それと、最後にキメラに一撃くれたね。あれは見事だった……というより、どうやったんだ? 剣が魔装を貫いたように見えたけど」

 カレルは再び目を伏せて答える。

「それが、僕にもよくわからなくて。とにかく夢中で、剣に全てを集中して」

「私も見たわ」

 エリシュカが話に加わった。

「剣が光っていた。何かの魔力が剣に込められていたのよ。あなた、知らないの? 剣に魔力を宿す方法は未発見なの」

「えっ。そうなんですか」

 カレルはマルトとエリシュカを交互に見た。

 マルトは頷く。

 剣に魔力を定着させる技術は発明されていない。

 魔装と同じく呪術を使って定着を試みた場合、一時的に魔力を帯びさせることは可能だ。しかし、この剣で例えば敵の鎧の魔装を破ろうとしても、一撃で効果が消えてしまう。

 原因は単純で、剣と鎧では体積が全く違う分、保持できる魔力も違うからだ。剣と鎧の魔力が相殺し合い、剣の魔力が消えるが、鎧には十分な魔力が残る結果となる。

 魔装に対抗する武器としては、使い捨ての徹甲弾が広まった。かつては魔装通しの矢というのもあったそうだが、矢筒に入れている間に矢尻同士が接触して魔力を相殺してしまう場合があり、管理が面倒なため銃の発明後に急速に廃れた。

「君の剣、ちょっと見せてくれるか」

「は、はい」

 カレルは鞘から剣を引き抜くと、持ち手をマルトに向けて差し出した。

 受け取って、その表面を仔細に眺める。剣の上に手のひらを当て、弱い魔力を送った。

 果たして、魔力は吸い取られていく。マルトは目を見張った。

「これは魔導鉄だ」

「はあ」

「カレル、もしかして魔導鉄も知らない?」

 エリシュカが呆れた表情で聞く。

「す、すみません」

 カレルは消え入りそうな声で答える。

「エリシュカ、答えられる?」

「はい、魔導鉄というのは、魔法によって魔力の蓄積が可能な鉄のことです。普通の物質は呪術を使わないと魔力を帯びさせることができません。ですが、魔導鉄を使えば魔導士にも魔装を作れるわけです」

「うん、模範解答だね。さらにいえば、魔導鉄はものすごく希少だ。王都の宝物庫に魔導鉄の剣が三本、呪術院と魔学校に研究用の鉱石がいくつかある程度」

「宝物庫……」

 カレルは目を丸くして自分の剣を見ている。

「試させてくれ」

 マルトは剣を両手で握って目を閉じた。そのまましばらく同じ体勢を続けたが、剣は光らない。

「あれ、おかしいな? カレル、やってみてくれるか」

 カレルは剣を受け取り、両手で構えた。切っ先から刃を伝って、白い光がぽろぽろとこぼれる。

「カレルにしか扱えないというのは、何かやり方があるのかな」

「いえ、僕は特に……」

「ふうん、だったら天性の筋の良さかな」

「私にもやらせてください」

 エリシュカが剣に手を伸ばした。

「うん」

 カレルがエリシュカに渡そうとした剣を、マルトは横からひょいと取る。

「いずれにしても、これは発見だぞ。この剣はどこで手に入れたんだ」

「故郷です。一昨年初めて見つかった鉱脈で採掘された鉄から打ってもらったんです」

 アイゼンヒュッテンシュタットの鉱山は稼動してからまだ間もない。魔導鉄が採掘されることは知られていないに違いない。

「リーグニッツの視察は中止しよう」

 マルトは宣言した。

「魔学校に戻って、一刻も早くアイゼンヒュッテンシュタットの鉄の流通を押さえないと。リブシェや呪術院に知られる前に」

 魔導鉄が量産されれば、リブシェに対する軍事力の劣勢が一気にひっくり返る可能性がある。

「仕方がありませんね」

 エリシュカは残念そうにため息をついた。

「でも、いくら見つかってから間がないといっても、誰も魔導鉄に気づかないものでしょうか」

「調べてみる必要があるけれど、多分、普通の鉄と魔導鉄が混在しているんだろう。この剣はたまたま魔導鉄の純度が高かったんじゃないかな」

 マルトはカレルに剣を返し、肩を叩いた。

「良かったな。君の故郷は大発展するぞ」

「ええ」

 カレルは複雑な表情で頷く。

「どうした。嬉しくないのか」

「もちろん嬉しいですけど、生まれ故郷が変わってしまうのは少し寂しいです。それに、今後リブシェに狙われるかもしれない」

「大丈夫だ」

 マルトはカレルの肩にかけたままの手に力を込めた。

「君の家のライ麦畑は変わらない。変えないように守るんだ」

「そうですね――うん、そうします」

 カレルは力強く頷いてから、

「でも、僕の実家にライ麦畑があるって、どうしてマルトさんが知ってるんですか」

「あ、それは、君の故郷でライ麦が獲れるって、昨日の夜話してたから。きっとそうなんだろうなあと」

 マルトはなぜか慌てて言い繕った。自分の心の中を伝えてしまったようでやけに気恥ずかしい。だが、夢に見た黄金の風景はきっと実在すると、そう確信する気持ちは快かった。

「宿に戻りましょう。すぐに荷物をまとめないといけません。昼前にここを発てば、なんとか明日の夜にはフンデルトヘルメに着きます」

 エリシュカが告げた。

「うん、悪いけど君たち二人で荷物を持ってきてくれないか。私はここで調べたいことがある」

「はい」

 カレルは城門を振り返って走り出す。エリシュカも後を追おうして、ふと立ち止まった。

「どうした」

 マルトが尋ねると、

「マルトさん、さっき手を抜きましたね」

 エリシュカはにやりと笑った。

「う、バレてたか」

 マルトは首をすくめた。

 カレルの剣を構えた時のことだ。マルトはあえて魔力を送らなかった。

「カレルに自信をつけさせるためですか」

「そうだ。あの子の武術の才能は確かなんだ。自分に自信を持てばもっと伸びる」

「そうかもしれませんね。でもそれ以外に――」

 エリシュカの笑顔は少し寂しそうなものに変わった。

「それ以外?」

「なんでもありません」

 マルトが声をかける暇もなく、エリシュカは踵を返して駆けていった。


 独りになって、マルトは軽いため息をつく。

 何か起きるだろうと思ってはいたが、リーグニッツに行き着く前にこれだけ色々あるとは。

 ノエミと会うのはまたしばらく先になるな。

 様々な思いが去来し、つい感傷に浸りかけるが、それは帰りの馬車でやれば良い。マルトはその場にしゃがみ、持っていたキメラの魔導器を地面に置いた。

 近くに人がいないのを確かめ、魔導器に左手を乗せる。キメラの最期の時と同じく、皮膚と癒着した手甲の金属を通して、生き物の体温を感じる。

 自分の中に親愛の感情があるのを、マルトは意識していた。

 凶暴な怪物であることに変わりはない。放っておけば、他の街を襲ったかもしれない。

 しかし、それでも殺し合いたくはなかった。

 マルトは少し暗い気分になった。軍属である限りは、これからも自分はキメラと戦わねばならない。いや、例え軍籍を抜けようと、大切な人々が危険にさらされるというなら、自分は戦うのであろう。

「出口がないな」

 マルトは腹のあたりに魔導器を乗せ、仰向けに寝転んで空を見上げた。

 いつの間にか高く昇った太陽に顔を向ける。当たり前だが目がくらみ、しかしその光をもってしても心の暗がりは消えない。

 そのままじっと、マルトは空を見上げ続けた。陽光を見つめすぎて視界がぼやけ始める。眩しさで涙が一筋流れる。

 と、光の中に人影のようなものが現れた。同時に、心に炎が灯る。だが炎は影をますます暗く浮き立たせる。

「戦いを終わらせるんだよ」

 人影はそう言った。

「どうやって?」

「全てを尽くせ。お前はそのための力を持っている」

「馬鹿を言え。そんな力はない」

「ある。私の力を使え」

「断る。私はマルトだ。ジークリンデじゃない」

「それは問題ではない。事は既に始まっている」

「どういう意味だ」

 問いには答えず、ふっ、と人影は消える。

 マルトはしばらく動かずにいたが、起き上がって背中を払った。

「どうしろっていうんだ。みんな私に押しつけて」

 弱音を吐き出しても、気持ちは軽くならない。

 つと、陽光が遮られた。

「お困りですね」

 太陽を背にマルトまで影を伸ばしたのは、シャルカである。

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