第八章 人魚姫
「瞳が大きいとさ、感情が豊かに見えて得だよな」
幌が半分上がった馬車の中、言葉とは裏腹に目を細めながら、オンディーヌは初夏の雲を見上げている。
馬車は市街地に向かっている。オンディーヌが案内を申し出たのだ。
「誰の話だ」
マルトは自分の目が大きいとは思っていないし、人から言われた経験もない。
「ジークムントだよ」
その瞳に操られた時のことを思い出し、マルトは身をすくませて首を振った。
「やつの瞳は美しい」
断定的に言い放って、オンディーヌは視線をマルトに移す。
「それ、ジークリンデの服だよな」
「ふ、服の話はするな!」
マルトは赤くなって顔を背ける。今日もヴィビイの選んだ、青い繻子の服を着ている。
「似合ってるよ」
オンディーヌは興味なさそうに言ってから、マルトに顔を近づけた。
「お前はジークムントが好きか?」
マルトは左手を押さえた。ジークリンデの血が体内を巡る。
「どうなんだ」
オンディーヌは催促する。
「男として好きかって意味なら、少なくとも今は違うな」
マルトは努めて何気なく答えた。
「なんか思わせぶりなのが気に入らないけど、まあいいや。あんたは恋敵じゃないってわけだ」
オンディーヌはいきなり馬車から石橋に飛び降りた。欄干に駆け寄ると手を掛けて半身を乗り出し、真下に向かって思いきり叫ぶ。
「私はジークムントが好きだ!」
橋の上に通行人はいない。午前の日差しで、石畳から陽炎が上り始めている。
水鳥が行き過ぎ、川は雲を映して悠々と流れる。
「唐突なやつだな」
馬車に戻ってきたオンディーヌに、マルトは呆れて言った。
「たまには思いきり声を出さないとな。もやもやが溜まるんだ」
「何がそんなにもやもやするんだ」
「街から戻ったら原因を見せてやるさ。あまり時間がないし」
時間がない、という言葉が引っかかった。マルトは語気を強める。
「ヴィシェフラトに攻め込むまでの時間が、か」
「いちいちうっさいなあ!」
オンディーヌは馬車の扉を蹴飛ばした。蝶番が外れて、扉は情けなく斜めにぶら下がった。
「私は気持ち良く街の案内をしたいんだよ。あんたは黙って座ってろよ」
「自分の国が攻められるって時に座ってる奴がいるか!」
当てつけではないが、マルトはつい立ち上がった。二輪の馬車がぐらぐら揺れる。
「わかったよ、じゃあ街はやめだ。ほら、戻るぞ」
馬車が向きを変え始め、マルトは慌てて席に座った。
「大体隠しごとは嫌いなんだ。見せてやるよ、私が作ってるものを」
城の広間を迂回する廊下は、曲がりくねって延々と伸びた後で、巨大なかんぬきのかかった鉄の扉にぶつかった。扉全体から強い魔力が発している。魔法で開けられないよう、呪術で封じてあるのだろう。
「入れよ」
オンディーヌが扉を開くと、冷たい、なまぐさい空気が流れこんできた。
「なんだよ、びびってんのか」
「――大丈夫だ」
マルトは鼻に手を当てて扉をくぐる。
出た場所は、意外にも屋外の広大な庭だった。とはいえ四方を非常に高い壁で遮られ、前庭と比べるとかなり暗い。
向かって左の壁には城門よりも大きい観音開きの扉が、右には壁沿いに大小様々な小屋が並んでいる。
地面は踏み荒らされ、雑草と剥き出しの土が混じり合っていた。
「何だ、ここは」
マルトは壁を背にして立った。無意識に腰に手が行くが、いつも差している剣はない。
「こっちだ、来い」
木造りの小屋の並びに、一つだけ石組の、窓のない部屋があった。オンディーヌはそこに向かっている。
石の部屋の入り口は、これも厳重に呪術で封印されていた。オンディーヌが解呪して中に入ると、壁のランプに一斉に火が灯る。
「ここは、いわば研究室だな」
部屋の正面には木製の机があり、広い天板の上に、布が被せられた何かがある。左に書架があり、写本の類が大量に詰め込まれている。
「研究室といっても、魔学校のとはずいぶん違うな。実験器具なんかもないし」
ふん、とオンディーヌは鼻で笑う。
「器具だのなんだの幼稚なもんはないさ。あんなのは子供が色水混ぜて遊んでるのと変わらん」
「じゃあ、あんたはここで何をやってるんだ」
「これさ」
オンディーヌは机の上に被せられていた布を取り払った。
「魔導器か……」
「私たちはカルツァ・クライン器って呼んでるがね。わかりやすくするために、これからの説明はあんたらの呼び方でいこう」
半ば予想はしていたが、かなりの数の魔導器が並べられ、その横には呪符のようなものが重なり、石の文鎮で押さえてあった。
しかしもっとも目につくのは、薄明るい光を放つ、特に大きい四つの魔導器だ。
「フリューリングからアーベントロートまで」
オンディーヌは魔導器を指差して言った。
アーベントロートという名には聞き覚えがある。ジークリンデが使役していたキメラだ。
「それがキメラの名前だな。本体はどこだ。殺したのか」
「殺したりはしない」
オンディーヌはマルトを睨んだ。
「みんな私のかわいい子たちだ。体はそこにある小屋の中で眠ってるよ。正しい手順を踏めば、キメラを仮死状態にして魔導器を取り出すことができるんだ」
マルトは腕を組んだ。
「で、その四頭で何をする? フンデルトヘルメを攻めさせるつもりか」
予言に従うなら王都ではなくリーグニッツが目標だが、今は伏せた。
「それが、そうも行かないんだよなあ」
オンディーヌは天を仰ぐ。
「キメラってのは厄介なんだ。闘争本能が強くて、放っておくと同士討ちを始めたりな。だから、何頭も一緒に戦場へ連れていくこと自体が難しい」
言われてみれば、パンノニアの戦いも、あれだけ大規模な戦闘にもかかわらずキメラは一頭だけだった。
それにしても、オンディーヌは随分饒舌である。自身の研究の話となると、妙に喋りたがりになる人種なのだろう。
「じゃあ一頭をどこまで強くできるか、って考えで生まれたのがシュトゥーラー・エミールだ。あいつはできる限りでかくして、魔装と、魔法を減衰させる力までやったのに、あんた、倒しちまうんだもんな。恐れ入ったよ、ほんと。あいつがやられるとは、私もジークムントも、考えてもなかった」
「あの子は強かったよ。魔装徹甲弾がなければ手の打ちようがなかった」
マルトは素直に言った。目が合って、オンディーヌはにっと片頬で笑う。
「話を戻そう。エミールはやられちまったわけだが、あいつに別なことをやらせる案もあった」
「それが、ジークムントと話してた計画ってやつか」
オンディーヌは頷いて、魔導器を二つ手に取った。
「成体融合、だ」
目の前で、二つの魔導器をかちんとぶつける。
「何だ、それは?」
「まあ待て。その前に通常のキメラの作り方を説明しとかないと」
オンディーヌは魔導器の一つを戻し、もう一つをマルトの目の前に差し出す。
「キメラのほとんどは、私たちが作り出したものだ。魔導器の融合によってね」
「また融合って言葉が出てきた」
「ああ、ここが話の肝だ。まず様々な魔獣から魔導器を集める。言っとくが、ヴィシェフラトの連中みたいに、魔導器のために魔獣を殺めたりはしないぜ。生きたままで、魔導器だけいただく。魔導器をなくした魔獣は、ただの動物に戻る。青狼なら普通のオオカミになるってわけだ」
マルトは深く息をはいた。
「それを聞いて安心したよ。そこの魔導器全部が、魔獣を殺して手に入れたものじゃないってわかってね」
それを聞くと、オンディーヌは意外そうな表情になった。
「あんたは変わってるな。ヴィシェフラトの奴らは魔獣っていうと目の敵にするのに」
「自衛のために戦うのはやむを得ない。だけど誰だって、それ以上の殺しはしたくないさ」
「あんたのお仲間が、みんなそう考えてるならいいんだがな」
不意に、マルトはいつかのカラスを思い出した。あの子も魔導器のために狩られ、命を落としたのかもしれない。
オンディーヌは続ける。
「その後だ。集めた魔導器を、魔力で一つに結合させる。結合は簡単じゃない。魔法と呪術の技術が必要だし、間違いがなくても失敗する場合もある」
「それはあんたにしかできないことなのか」
「いいや」
オンディーヌは首を振った。
「ジークムントにもできるし、今ここにはいない奴らの中にも同じ技術を持った者はいる。だけど、優劣って意味では私が一番だと自負してるぜ」
白く長い指で魔導器をもて遊ぶその姿からは、自身の能力に対する矜持がうかがえた。
「さて、もしうまくいったら、それを隣の小屋にある豚の子宮に入れる。もちろん、子宮も魔力で安定化してある」
後庭に入った時に感じたなまぐささの原因はそれか。
「子宮に数ヶ月も置いておくと、魔導器を中心に胎児の形ができる。後は普通の動物と同じように出産させればいい。これが通常のキメラの作り方だ」
オンディーヌはそこで息を継いだ。
「だがこのやり方には一つ問題がある。豚の子宮だよ。キメラの胎児を作るのにこいつが必要ってことは、その大きさを超える胎児は作れないってことだ」
「もっと大きな動物の子宮を使ったら」
「もちろん試してみたけど、どういうわけか胎児の形成がうまくいかなくてな。今のところ、豚以外では失敗続きだ」
人差し指を立て、オンディーヌは机の魔導器を見下ろす。
「だからここは発想の転換が必要になる。胎児を一定以上大きくできないなら、生まれてきたキメラを一体に結合できないか」
マルトは気づいた。
「それが成体融合か」
「その通り。仮死状態にしたキメラから魔導器を抜き取って、力業で結合させちまう。その後で目覚めさせると、結合した魔導器を核にしてキメラの体も融合するんだよ。ただ、成体のキメラ同士の結合は拒絶反応が強いから、余程強い魔力で制御するか、例外的に拒絶反応の少ない個体を見つけて、そいつを核にするか、対策が必要だ。あんたに倒されたエミールは、その例外だったのさ」
「そんなに重要なのに、どうして私が返そうとした時にエミールの魔導器を受け取らなかった?」
マルトが疑問を口にすると、
「それが私たちの信義だから……って言うとかっこいいけど、エミールの魔導器は傷ついてたからな。どのみち結合には使えなかった」
答えながら、オンディーヌは口惜しそうに目を閉じた。その後で長いため息をついてから目を開き、
「今のところ、エミールの穴を埋める方法は見つからない。だが一端はつかんでる。なんとしてもやってみせる」
強い意志を感じさせる言葉だった。
マルトは身を固くした。オンディーヌの目論見の成功は、そのままリーグニッツへの攻撃に繋がる。しかし、オンディーヌはマルトの様子には気づかないように続けた。
「さあ、これで話はおしまいだ。面白かったか」
「面白いかどうかはともかく、どうして敵の私にそこまで教える?」
マルトが尋ねると、オンディーヌは苦笑いを浮かべた。
「敵だって? 魔力を封じられて虜になってるあんたが、なぜ私の敵になる」
答えられずにいると、オンディーヌは持っていた魔導器を置き、マルトの左手を握った。
「エミールを倒したあんたの力を、私は認めてる。そんな奴に隠し事はしたくない。そしてもう一つ言うなら、私はあんたが嫌いじゃない。だから殺したくない」
「どういう意味だ」
徐々に警戒の念を強めながら、マルトは聞く。
「今話した成体融合の技術を使えば、エミールとは段違いの強さのキメラができる。そいつには誰も勝てないよ。あんたも、おそらくジークムントでさえもね。だから、ここから出ようなんて考えるな。仮に守備よく逃げ出したとしても、あんたはキメラと戦って死ぬだけだ」
マルトはオンディーヌの手を振り払った。
「私を死なせたくなければ、キメラを作るな。私はヴィシェフラトの人たちが好きだ。彼らを襲う怪物を作るなら、私は戦う」
言い終わると同時に机に駆け寄る。この場で魔導器を壊してしまえば――
だが、魔導器に触れる前に、部屋の縦横が入れ替わった。マルトは真横に落下し、壁に叩きつけられた。
机や本棚が落ちてくる――思わず目を閉じ、腕で頭を守る。……しかし、しばらくしても何も起こらない。
目を開けると、オンディーヌが垂直に立っていた。
「技術屋だと思ってなめてもらっちゃ困る」
体が締め付けられる感覚。いや、重さだ。身体に加わる重力が次第に増し、マルトは壁に張り付けられた恰好になった。
「言わずと知れてるが、魔法の基本は重力制御だな。なぜか知ってるか?」
机にあった石の文鎮を、オンディーヌは持ち上げてみせる。
「重力ってやつは弱い。今、私の腕一本の力は大地全体がこの文鎮を引っ張る力に勝ってる」
手から離れた文鎮が横に落ち、動けないマルトの目の前で壁にぶつかって音を立てた。
「どうしてそんなに弱いのか。それは、重力が私たちの知るこの世界とは違う次元と繋がって、ほとんどが別次元に流れ出てるからだ」
オンディーヌはマルトに近づく。顔の前から文鎮を拾い上げると、間近からマルトの瞳を覗き込んだ。
「魔法の本質はな、魔導器を触媒に、別次元の力をすくい上げて、この世界に発現させることなんだ。私たちの意志と感情によって。いいか、意志と感情、だ」
オンディーヌの瞳の中には、火花のような閃きがあった。
「私はジークムントが好きだと言った。絶対好きだ。だから私の力も絶対だ。私は、私の力を使ってジークムントの望みを完遂する。お前には止められない」
その刹那、である。
マルトの心の薄闇で、炎の舌が滑るように広まった。同時に左腕が動き、オンディーヌの手首をつかんだ。
オンディーヌの瞳に驚愕と、それから恐怖の感情が宿る。
「ジークリンデ!」
オンディーヌは体を引き、つかまれた手首をむやみに振り回したが、マルトの腕は離れない。
「貴様、往生際が悪いんだよ! ジークムントは渡さないぞ」
マルトは口を開いた。
「あ、あんたの考え、面白いな。だが、お前の言う意志と感情ならば、私も負けることはあるまいよ」
左手にこもる力が強まった。手首を握りつぶされそうになったオンディーヌがうめく。しかし、苦痛にあぶら汗を浮かべながら、次第にその表情は酷薄な笑いに変わる。
「ようし、この腕一本くれてやる。その代わり、今ここで宿主ごと貴様を殺す」
マルトの身体にかかる重力がさらに強まった。
「ぐっ……はぁ」
肺の中の空気が無理やりに押し出され、呼吸が止まる。体中の血管が破裂しそうだ。
「そうだ、思いついたぞ、マルト。ジークリンデを取り込むことができたお前の魔導器なら、キメラの成体融合に使えるかもな。喜べ、お前を地上で一番強い生き物にしてやる」
その時、オンディーヌの後ろで扉が開いた。
「何をしている! やめろ!」
途端に横向きの重力が消え、マルトは床にずり落ちる。薄らぐ意識の中で、オンディーヌから離れた左手を、ジークムントの影に伸ばす。
駆け込んできたその影は、冷たい石の床に突っ伏したマルトの身体を抱き起こした。心の炎が消え、安らぎと、それからもっと他の感情が起こる。
もしかしたら、私は、オンディーヌに嘘をついたのだろうか。
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