第三章 ガラス窓のある宿屋にて
「教導主幹、貴方の力に憧れていました。こうやってご一緒できて光栄です。きっとお役に立ってみせます」
魔学校でのいざこざから一週間後、マルトたちは王都フンデルトヘルメからリーグニッツへと出発した。
王都を出て、北のライヒェンベルクという都市までは駅馬車が通っている。マルトたちは今、その車中の人である。
駅馬車は乗合だが今は他に客がなく、六人掛けの車内をマルトたちは広々と使っている。
王都から遠出するのが初めてだというエリシュカは、マルトの隣に座って少々態度が浮ついて見えた。
「私の力なんか大したもんじゃないよ。皆の支えがあってこそだ。それから教導主幹というのも堅苦しいからやめよう。マルトでいいよ」
「はい、……マルトさん」
エリシュカは恥ずかしそうに微笑んだ。
呪術院から脱走に近い形で抜け出したことを、この子はずっと一人で悩んでいたのだろう。それに一応の区切りがついたのは良かった。しかし――
マルトは鈍い銀の光を放つ左手を見つめる。
今まで意識していなかった。それとも、意識しないようにしていた、か。
この左手の中に、ジークリンデの魔導器が埋め込まれている。そして、それは今も生きている。
それは魔学校の時のように、これからも私を助けるのか。それとも私を、想像もしていなかった運命の渦の中へと導くのか。
「――マルトさん、マルトさん!」
「え、えっ?」
誰かに名前を呼ばれてマルトは我に返った。
「どうしたんですか、急に考え込んで」
向かいの席から、カレルがマルトの顔を覗き込んでいる。
「なんでもない、ごめん」
「大丈夫ですか」
カレルは心配そうにマルトの左手を見た。
「それより、道程の確認をしませんか」
エリシュカが割り込んだ。傍に置いた鞄から地図を取り出す。
「そうだな。まず、この馬車がライヒェンベルクに着くのは明日の夜になる」
マルトは地図の一点を指差す。
「ライヒェンベルクはそこそこ大きな街だ。宿は問題ないだろう。翌朝には出立だ」
「その後が少し問題ですね」
カレルはマルトの差した個所から右に向けて指を動かした。
「ライヒェンベルクから東は山地が続きます。魔獣も出没するとか。そこさえ抜ければシュレジエン平野に出て、後は北に進むだけなんですが」
「ああ。本当なら北回りのこの道は使いたくなかったんだがな。もう一つの南回りは、途中で暴動が起きてるらしい」
ヴィシェフラト王国の北部と中央を区切るズデーテンと呼ばれる山地は、昔から移民が多く、それだけに住民間の争いも絶えない。それらが時として、今回のように大規模な暴動に繋がる。
「二ヶ月前、僕が南回りで王都に来た時は平和に見えたんですが」
カレルは腕を組む。
「北回りで大丈夫ですよ。主幹……マルトさんの魔法なら、魔獣でも敵いませんから」
エリシュカが朗らかに言った。
「買いかぶり過ぎだよ。まあ普通に進めば魔獣に遭いはしないだろうけど、万一の時はカレル、エリシュカ、君たちも加勢を頼む」
「はい!」
二人は声を揃えた。
駅馬車は思ったより順調に進み、翌日の夕方には一行はライヒェンベルクの城壁をくぐった。
街並みは山に囲まれており、太陽が早く隠れるせいで既に夜の風情である。
「まずは宿だ」
座り詰めで痛くなった腰を伸ばしながらマルトはあたりを見回した。
ライヒェンベルクは、規模ではフンデルトヘルメとは比ぶべくもないが、堅固な城壁に四方を守られ、活気のある都市だ。宿もいくつかありそうだ。
「あ、半獣人がいる」
エリシュカが珍しそうに、雑踏の方を指差した。マルトはその指の上に手を当て、静かに下ろす。
「気になるからって、他人を指差したりしちゃ駄目だよ」
「あっ……すみません」
エリシュカは赤くなってうつむいた。
半獣人とは、体内の魔導器の影響で動物の特徴を併せ持った種族である。他に少数ではあるが、人間と魔獣の間にできた子などもいる。
ありのままに言えば、ヴィシェフラト、特にフンデルトヘルメでの彼らの境遇は悪い。魔導器を持つにもかかわらず、魔導隊に一人も半獣人がいないことがその事実を端的に示している。町外れの貧民窟の半獣人を拐かして命を奪い、その魔導器を売る者たちさえある。
そのため、フンデルトヘルメの市街では、半獣人をほとんど見かけない。エリシュカが珍しがったのは悪意からではなく、本当にこれまで見たことがなかったのだろう。
カレルが言った。
「僕の故郷にはわりと多いですよ。北縁同盟では、場所によっては尊敬されてる地方もありますしね」
ライヒェンベルクは北縁同盟との国境にも近いから、ある程度の半獣人がいるのだろう。
カレルが手を上げた。
「さあ、宿探しですね。この街にはレオシュさんの定宿があるそうです。そこに行きませんか」
「そうね。エリシュカもそれでいい?」
「私はどこでも構いません」
エリシュカはさっきのことに加え、知らない街というもの自体が初めてらしく、小さくなってマルトの後ろに控えている。
「では」
カレルが先導して歩き始めた時、マルトは何かが気にかかって振り向いた。
「どうしました? 道はこっちですが」
「いや……あそこにも宿があるね」
珍しいガラス窓のある、三階建の大きな宿屋である。なぜそこが目についたのかは、マルトにもまだわかっていない。
「外観は清潔そうですね」
マルトの後ろから顔を出したエリシュカが言った。
「はあ。少しお値段が張りそうですが、とりあえず行ってみましょうか」
三人はなんとなく頷き、マルトの見つけた宿に向かった。
宿の戸をくぐると、受付の横にはいくつかの椅子と机が並べてあり、三、四人の先客が座っていた。繁盛しているらしい。
カレルが受付で話している間、マルトとエリシュカもそこの椅子に腰かける。
すぐ近くに、美人だがなんだか仏頂面の女がやって来て座った。何とはなしに眺めていると、向こうもこちらを見つめてくる。
「あの、どこかでお会いしましたっけ」
気まずくなったマルトが話しかけると、
「いえ、まったく」
女はぷいと横を向いてしまった。
所在ない気分でいるところに、ちょうどよくカレルが戻ってきた。が、その顔は浮かない。
「マルトさん、まずいですよ。暴動の影響で東から逃げてきたり、僕たちと同じ北回りの道を使う人が増えたりで、街中の宿が埋まってるそうです」
「なんだって」
相部屋を探すか、それが無理なら馬小屋にでも泊めてもらうか、最悪は野宿か。
「まいったな」
マルトは頭を抱えた。と、さっきの女が突然立ち上がった。
「お困りですね。相部屋でよければ、私どものところが空いています」
「え、いいんですか」
マルトが驚いて見上げると、
「はい、六人部屋に二人でおりますから」
女はにこりともせずに言う。
「どうしよう」
マルトはカレルに耳打ちした。
「いいと思いますが、でもおかしいな、宿の主人、相部屋もないと言ってたのに」
カレルは多少腑に落ちない様子だ。
「すみません、どうしてお二人なのに大きな部屋にいらっしゃるんですか」
マルトは聞いてみた。
「客の予定がありましたので」
女は答える。他の誰かと合流する予定だったのが、何かの事情で来られなくなったという意味か。
マルトはカレルを横目で見て頷いた。
「でしたらお言葉に甘えます。よろしく」
「ではこちらに」
女は身をひるがえし、奥の階段に向かって歩いていく。
「受付は済ませときますから、お先に上がってください」
カレルに言われ、マルトたちは慌ただしく荷物を持つと女の後を追った。
女の泊まっている部屋は三階の突き当たりにあった。南向きに広い区画を取ってあり、上等の部屋だ。
女は扉を開けると一礼した。
「行ってまいりました」
「ご苦労さま」
主人、というには随分と若い声が応えた。
女が振り向きもせず部屋に入って行くので、マルトたちも後に続く。
部屋の真ん中が通路になっていて、左右に三つずつ寝台が置いてある。それぞれの寝台の横には小さな机と椅子もあった。
先客は、一番奥、窓際の椅子に腰掛けていた。読んでいた本をぱたりと閉じ、立ち上がってまっすぐにこちらを見つめる。
マルトは異様な感じがした。暗い。暗くて相手の顔がよく見えない。
そのくせ、懐かしいような苦しいような感情が込み上げる。
にわかに、左腕が痛んだ。
「相部屋の方ですね。ようこそ」
相手は微笑んだようだが、マルトにはわからない。
「マルトさん、何かありましたか」
遅れてやってきたカレルが尋ねた。
「何って、あれを――」
一度カレルを見た後で向き直ると、つい一瞬前の闇は消えている。
「私がどうかしましたか」
先客は微笑みを崩さず言った。
若い男だ。おそらくマルトと同じくらいの齢だろう。
身長は男性としてはやや低いが、糸で吊るされたようにぴんと背を張った姿勢のためか、実際より背丈があるように見える。
後頭部に結い上げられた黒髪に、それとは対照的な乳白色の肌。顔つきは際立って整っており、長いまつ毛や赤みを帯びた唇が中性的な印象を与えていた。
唯一、その瞳は黒の中に濃灰色の濁りが混ざり、マルトにはそれが年齢に見合わない老成、もしくはほとんど諦念に近く思われた。
なぜかは知れず、男の瞳のその表情に、マルトは激しく心を乱された。
「遠慮されておいでですか。どうぞお入りください」
戸口で突っ立っているマルトに男が促す。
「あっ。失礼しました」
マルトはようやく我に返って部屋に入った。
「今夜一泊、お邪魔します。私はヴィシェフラトの軍属です。彼らは軍学校の者で」
「軍学校って……」
エリシュカが言いかけるのをカレルが止めた。
相手の素性はまだなんとも知れない。国軍というのは服でわかるが、それ以上の情報は与えない方が良い。
「軍の方ですか。それなら安全上も心強い」
男は年齢に相応しくない慇懃さで世辞を言う。
「失礼ですが、あなた方は?」
マルトもなるべく穏やかな口調で聞いた。
「私は、ここから北東にあるリューベンという街の領主の係累で、クロクと申します。こっちは使用人のシャルカ」
シャルカと呼ばれた先の女は、なぜかぎろりと主人を睨んでから挨拶した。
「シャルカです。使用人の」
頭が下がった拍子に、きれいな茶色の髪が肩を滑り落ちて垂れた。
「お二人とも、どうぞよろしく」
マルトたちも頭を下げる。
その後は各々寝台や椅子に腰を下ろした。明日の朝には出立だから、荷物は取り出さず整理だけしておこうと鞄を開けると、蜜酒を詰めた小瓶が転がり出た。
「クロクさん、ヴィシェフラトの蜜酒ですが、少しどうです?」
相手がどんな反応をするか好奇心が湧いてきて、マルトは小瓶の蓋を取って酒を勧めてみた。
「酒はあまりやらないので、お気持ちだけいただきます」
クロクは先ほどまでと同じ笑顔で答える。
「そうですか……」
つまらないといえばつまらないが、常識的な対応だ。
マルトが小瓶をしまおうとすると、
「いただきます」
シャルカが電光石火の速さで瓶を引ったくり、喉を鳴らして一気に半分ほども飲んでしまった。
「――ったく、何で私がこんなこと」
大きく息を吐きながら、シャルカは突然悪態をついた。
「シャルカ、やめろ。私のいうことが聞けないのか」
クロクがたしなめると、シャルカは主人を横目で見て無表情に戻り、つぶやいた。
「いえ、私はあなたに従います。どこまでも」
真っ白い指でしばらく酒瓶を弄んだ後、
「ごちそうさまでした」
突き返してくるのを、マルトは手を上げて留めた。
「お近づきのしるしに、よかったら差し上げますよ」
シャルカは無言で、しかし目を輝かせて頷いた。
とりあえず腰を落ち着けた後は、腹の方のこしらえが必要だ。宿は忙しすぎて食事が出ないというので、マルト一行は近くの料理屋にやってきた。
こちらも宿に負けず混み合っていたが、たまたま前の客が帰った後の隅のテーブルに、三人はうまく収まることができた。
「何なんでしょうね、あの二人は」
カレルが黒パンを切り分けながら言った。
「見当がつかない。最初は呪術院の間諜かもしれないと思ったんだけど、それにしては目立ちすぎる」
そう答えて、マルトは受け取ったパンにチーズを乗せてかじりついた。
「魔力は感じ取れませんでした。もちろん隠すこともできますが、まったく感知されないほど魔力を消せるのは、かなり格の高い使い手だけです」
エリシュカはパンをスープに浸したまま考え込んでいる。
「エリシュカ、それ、ライ麦のパンだから、スープにつけすぎるとぼろぼろになるよ」
「え、あっ、わかってる」
カレルの言う通り、エリシュカのパンはスープに半分溶けてしまった。
「カレルの故郷では小麦よりライ麦を多く作るんだってね」
マルトはレオシュから聞いた話を思い出した。
「ええ、土地があまり豊かじゃないですから。知ってますか、味は劣るけど、小麦よりライ麦の方が痩せた土地でも育つんですよ」
カレルは黒パンのかけらを手にして、感慨深そうに語った。マルトはもう一口パンをかじる。
「私は黒パンも好きだよ。チーズと合うし」
「そうですか」
カレルは朗らかな笑みを見せ、
「だけどやっぱり酸味がきついから、エリシュカはこっちの方がいい」
白パンを切ってエリシュカに回した。
「大丈夫よ。子供扱いしないで」
エリシュカは白パンを押し戻して、半分残った黒パンをもさもさ食べている。
心が緩んだ。
マルトは葡萄酒を少し口に含む。あまり飲むと判断力がなくなるから、好きな蜜酒は頼まなかったのだが、しかし今の気持ちを酒精によって少しでも長続きさせたかった。
不意にノエミの姿が頭をかすめる。
ノエミもかつて私の隣にいた。けれどそれは何のためだったのだろう。
昔、こうして食卓を囲んでいた時、私が感じた幸福を、ノエミとは分かち合えていなかったのだろうか。
気がつくと、カレルがじっとマルトを見つめている。
「どうしました? 急に黙り込んで」
「いや、なんでもないよ」
カレルの顔に、ノエミの面影が重なる。
「ノエミ……」
マルトは思わずつぶやいてから、口元を押さえた。
「ノエミ?」
エリシュカが首をかしげる。カレルが言った。
「以前、マルトさんの部下だった人ですね。レオシュさんから聞きました」
「ああ、知ってたのか」
マルトは力なく頷いた。
「ノエミとは相棒だった。ずっと仲が良かったんだ。それなのに、理由も言わずに急に、リーグニッツに行ってしまって」
「ああ。ノエミさんって、リーグニッツで指揮官をされてる方ですか。それならこれから会えますね」
エリシュカは朗らかに言った。
「う、うん。だけど向こうで何を言われるのか、少し怖いな」
ノエミがフンデルトヘルメを出ると知った時、マルトはノエミに会おうとして、断られていた。なのにどうして、今回は向こうから呼んだのだろう。考えれば考えるほど、心は千々に乱れる。
「リーグニッツのことは行ってみないとわからないですよ。話をあの二人に戻しましょう」
沈んでしまったマルトを見て、カレルが話題を変えた。本来ならこちらが指導する立場なのに、気を遣わせてしまったことをマルトは恥ずかしく感じ、同時にカレルを頼もしくも思った。
「あのシャルカって人、絶対使用人じゃないですよね。あんな長い髪で」
話しながら、カレルは白パンにチーズを乗せ、蜂蜜をたらしている。
「あっ、それおいしそう」
エリシュカも真似をして蜂蜜の瓶を引き寄せてから、
「私もそう思う。本当に使用人なら髪は結っているはずだし、指もきれいすぎる」
と頷いた。カレルは手についた蜜をぺろっと舐めて言う。
「どこかの領主の娘じゃないかなあ。うがち過ぎかもしれないけど、あのクロクって人と駆け落ちしてたり」
「場違いなほどきれいだものね」
かけ過ぎた蜂蜜がパンからたれ落ちないよう四苦八苦しながら、エリシュカが答えた。
「クロクの方はどう思った?」
マルトは聞いてみた。
と、カレルとエリシュカは無言で顔を見合わせる。エリシュカのパンからは、大量の蜂蜜が皿にこぼれてしまった。
「おや? 私、何か変なこと聞いた?」
マルトは理由もなく焦って、葡萄酒の盃を取る。するとカレルが、上目遣いに聞いた。
「マルトさんって、あんな感じの人が好みなんですか」
飲みかけの葡萄酒を噴き出しそうになって、マルトは大いにむせた。
「な、何でそうなる?」
「だって穴の開くほど見つめてましたよ、クロクさんのこと」
カレルが答え、エリシュカも頷く。
「いや、まあ正直にいって、あんな美形はめったにいないだろう」
「えっ?」
カレルとエリシュカは、またも顔を見合わせた。
「僕は、目立たないごく普通の人としか思いませんでしたけど。歳の割に落ち着いてはいますが……。エリシュカは?」
「私もあまり強い印象は受けませんでした。マルトさんの審美眼は特殊ですね」
「なんだよ特殊って」
どうも話が噛み合わない。マルトはクロクの端麗な容姿を思い出す。あれが目立たない?
その時、初めてクロクを見た時の闇が心に浮かび上がった。
「君たち、クロクの容貌をできる限り具体的に思い出してみてくれ」
「はい。でも……あれ?」
カレルは眉をひそめた。
「おかしいです。全然頭に浮かんでこない」
「私もそうだわ」
エリシュカも不審そうな表情を浮かべ、マルトは重苦しい気分になった。
どうやったのか方法は不明だが、二人は印象を操作されている。カレルはともかく、呪術院の経験が長いエリシュカにまで気づかれずに。
しかし、どうして自分だけは操作の影響を受けなかったのか。
「帰ろうか」
マルトは厳しい表情で立ち上がった。
「クロクが何を考えているかわからない。宿は引き払った方がいい」
マルトの決断にもかかわらず、その夜は馬小屋ではなく温かい布団に落ち着くことができた。
マルトたちより先に、クロクが宿を発っていたのだ。
「おっかしいなあ」
部屋の鍵をぶらぶらさせながら、カレルがつぶやいた。
戻ってきた部屋は既に空だ。まるで最初から誰も泊まっていなかったかのように、塵一つ残っていない。
「元々今夜発つ予定だったのか? カレル、宿の人に聞いた?」
マルトはカレルを振り向く。カレルは両手を上げた。
「それが、宿の主人はしばらく滞在すると言われていたとか。宿賃は前金でかなり払ってあったそうです。それにしても気まぐれすぎるってぼやいてましたけど」
「呪符などもないですね。呪術院の密偵なら何か残しているはずですが」
寝台の下を覗き込んでいたエリシュカが顔を上げた。
「残ったのはこれだけか」
マルトは自分の机に置いてあった空の瓶を見つめた。シャルカに渡した蜜酒だ。
「手掛かりがまったくないんじゃ仕方がない。気にはなるが今夜はもう休もう。ここでもう少し調べるか、リーグニッツを優先するか、明日の朝話し合おうか」
「賛成です」
慣れない旅で疲れたらしく、エリシュカが小さなあくびをした。
「主幹、教導主幹」
エリシュカの呼ぶ声がした。ずいぶん遠くを歩いている。
「おーい、こっちだ」
マルトは手を振ってエリシュカの方に走り出そうとした。が、足元がぬかるんでうまく進めない。
「呪術で一帯を底なし沼にしました。早く歩かないと沈んでしまいますよ」
エリシュカはにっこり微笑んでとんでもないことを言う。
「待ってくれ」
不恰好な走り方で追いかける。エリシュカはどんどん歩き、ライ麦畑に入っていく。背丈以上もあるライ麦の穂がその姿を隠した。
「どこに行ったんだ」
叫びながらマルトも畑に踏み込む。金色に熟した穂をかき分けて進むと、目の前で夏の日差しが明滅した。
急に脇の方でがさがさ音がした。
「エリシュカ?」
振り向くと、ひときわ密生した麦の束を二つに分けて、カレルが顔を出した。
「あれ、カレル」
「はい。僕の故郷ではライ麦を作ってるって話しましたよね」
「ああ、そうだったね。ここは君のご実家の畑?」
「そうです。今年は麦の育ちがいい」
たっぷりと実のなったライ麦の穂を、カレルは愛おしそうに撫でる。王都にいる時よりも生きいきとして、それに大人びて見える。
「あっちはどうかな」
カレルは後ろを向いて首を伸ばすと、マルトを置いて歩き出した。
「あ、どこに行くんだ」
咄嗟に手を伸ばしたのが、カレルの手を強く握る形になって、マルトはどぎまぎする。
と、相手が振り返った。
「マルトさん、すっかり変わりましたね」
「君は……」
寂しそうにマルトを見つめるのはノエミだった。
「あの戦いの後でしょうか、あなたが変わってしまったのは」
「私は変わってない。変わったのはノエミだよ。今までどこにいたんだ。リーグニッツになんか行くなよ」
マルトは握った手を引き寄せようとした。だがノエミは動かない。
「私はずっとここであなたの手を握っていたかつた。でもあなたが私を見なかったんです」
風が吹いて、二人は兵学校裏の林にいる。焚き火のような、乾燥した枯れ草の匂いがした。
「昔はよくここに来ましたね」
「そうだな。でも今は魔学校に通うようになったから」
「仕方がありません。人間は、自身が変わっていくのに気づかず、思い出に閉じ込めた他人にばかり、変わらないことを求めるものです」
ノエミは一歩ずつ後ろに下がっていく。
「マルトさん、左手に何を持ってるんですか」
「左手?」
ノエミに言われて視線を移すと、血まみれの手が巨大な魔導器を握っていた。
「ようやく私の力を使ってくれたな。待ちわびたぞ」
目の前に影が差した。ジークリンデだ。
「貴様、生きていたのか?」
「生きる、死ぬ、ではなく意志の問題だな。お前は私の意志を受け取ったはずだ。そして戦いを終わらせると誓った」
ジークリンデはマルトの左腕を両手でつかみ、自分の胸に押し当てた。
「戦いなら終わらせたじゃないか」
次第に左腕が熱を持ってきた。
「違う、まだ終わっていない。お前も本当はわかっているだろう」
心の火がじわじわと拡がり始める。強い情念だった。マルトは息苦しくなって上衣をはだけた。
「この感情、お前のものだろう。もうやめろ、私には強すぎるんだ。一体これは何だ」
ジークリンデは静かに首を振った。
「私が教えずとも、もうすぐお前にもわかる時が来る」
左腕をますます強く抱え込む。
「離せ」
「もうすぐだ」
「離せ!」
シーツを汗でぐしょぐしょに濡らしてマルトは寝台から起き上がった。
「なんて夢だ」
こめかみを手のひらで押さえてつぶやく。夢だ、と言葉に出さないと、それが現実に変わるのではないか。そんな荒唐無稽な恐れが胸の中で膨らんでいた。
部屋の中に頭を巡らすと、シーツで仕切られた向こうの寝台から、穏やかな寝息が聞こえてくる。それで少しだけ落ち着いた。
外の風を浴びようと、寝台から降りて窓に向かう。
カーテンを開けた時、机に置かれた蜜酒の瓶に服の端がぶつかって倒れそうになった。
「おっと」
空き瓶を持ち上げると、小さな紙片が床に落ちた。
「何だ?」
拾い上げた紙片は四つに折り畳まれている。広げた内側に、月明かりに照らされて走り書きのような文字が見えた。
『月の上りきった時、東の門』
書いたのはおそらくシャルカだろう。こんなところに書置きを隠したのは、クロクにも知られたくなかったからか。
マルトは窓を開けた。満月に近い明るい月が、南の空高く浮かんでいる。もう少しで南中の時間だ。
続いて東の門。窓から身を乗り出して東側を見ると、かろうじて城門が見えた。
夜中だというのに門は開いており、大きな荷を引いた馬車が入ってくる。シャルカが伝えたかったのはあれか?
その時、城門のさらに向こう、黒々とそびえる山の上で何かが動いた。
全身がざわつく。
「カレル、エリシュカ、起きろ!」
マルトは怒鳴った。
「魔獣が来る!」
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