第二章 目覚め
「先生ですね。ノエミにリーグニッツでの仕事を勧めたのは」
開口一番、マルトは質問をぶつけた。
「そうだよ」
先生と呼ばれた男は、鶴のように痩せた外見からは想像のできない、落ち着いた声で答えた。
マルトとレオシュの魔法の師で、王国の知の礎と呼ばれる魔学博士でもあり、また魔学校の校長を務め、さらには政治にも参与する多才の人、ミロスラフ・ターリヒ。
歳はもう六十近いはずで、髪は白に近づいているが、細い目の奥の瞳は強く輝き、背筋はやや曲がったものの身体は気力に満ちて、おおよそ老いというものを感じさせない。
レオシュとの宴の翌日、学校での講義を早々に切り上げ、マルトは校長の居室に向かった。ターリヒは忙しい人だが、幸いこの日は話をする時間を取れたのだ。
「なぜですか」
「なぜ、とは? ノエミ・シェイナをリーグニッツにやった理由かね。それともシェイナ君が君との離別を望んだ理由?」
マルトは膝の上の拳を硬く握った。
「もちろん前者です。先生に聞くべきなのは」
「うむ」
実用一辺倒の簡素な机に置いていた腕を上げ、ターリヒは背後の窓を開けた。午後の日差しを受け、少し眩しそうに額に手をやった後、右の片眼鏡を外し、再びマルトに対面する。
「呪術院がリーグニッツに要塞を建造したという話はレオシュ君から聞いたね。次回の主戦場はここだ。だとすれば、魔法にも兵学にも通じ、現場経験豊富な指揮官をあらかじめ配置するのは当然だ。ノエミ君には実戦部隊の指令をやってもらってる」
ターリヒは話しながら、お世辞にも片付いているとは言いがたい机の上のあちこちに視線をさまよわせている。
「それはわかります。でもどうしてノエミだったんですか。他にも候補はいたはず」
「うん。実際、マルト君、君を行かせようという案もあった。だが君はちょっと意地を張りすぎるきらいがあるからね。向こうで呪術院と揉めるかもしれん」
ターリヒは相変わらずマルトを見ず、今度は机の引き出しを開けてごそごそやり始めた。
「これですか」
マルトは目の前の本の下敷きになっていた白い布切れを引っ張り出した。
「おっ、それだ。すまんすまん」
ターリヒは受け取って片眼鏡を拭き始める。
「君のそういう目端のきくところも、手放したくなくなる理由なんだよ」
ターリヒは微笑したが、マルトは笑わずに答えた。
「私は先生の思った通りには動かないですよ。意地っ張りですから」
「一向に、それでかまわんよ」
眼鏡を拭き終えたターリヒは、開いていた引き出しへ無造作に布を突っ込んだ。
「さて話を戻そう。ノエミ君だが、彼女、呪術にも興味があるそうでね。呪術院と繋がりの持てる地位という点でも、リーグニッツは好都合だったんだ」
「えっ」
ノエミが呪術に興味を持っているなど、初めて聞く話だった。
「驚いたかね」
マルトが見つめると、ターリヒはそれとなく目をそらす。
「……驚きました」
嘘だ。ターリヒは何かを隠している。
「リーグニッツでなにをしているんですか……先生、あなたたちは」
「ほう、呪術院は、ではなく私たちは、かね」
ターリヒはその時初めてマルトを正面から見据えた。その細い目の奥にどんな意志が宿っているのか、マルトにはまだわからない。
わからないがこれだけは聞いておかねばならない。
「はい。リーグニッツの件、もしかして先生が主導しているのではないですか? そうでなければノエミを送り込んだりできないはず」
ターリヒは軽く首を振ると、右目に片眼鏡を嵌めた。
「残念ながらリーグニッツの要塞は発案も推進も呪術院主導だよ。しかし要塞の運営には呪術院と魔学校の協力が不可欠だ」
「どうして」
「自分の目で確かめたまえ」
ターリヒは椅子の背にもたれかかり、天井を見上げる。
それ以上の質問は受けないと、暗に言っているようだった。
「仕方ありませんね」
マルトが答えると、ターリヒは上を向いたまま頷いた。
「準備はしてある。君たち三人分ね」
「三人? レオシュも行くんですか」
ターリヒは首を振った。
「あんな強面じゃないよ。……あの子、講義を抜けてここに来るよう伝えたはずなんだが、まだだな」
「誰なんですか、一体」
「興味深い子だよ」
話しながらターリヒは机に散らばった紙を一枚一枚確かめている。
「これですか」
マルトは机の横に手を伸ばして、床から積み上がった本に乗った書類の束を手に取り、ばさばさ振ってみせた。
「おう、それだ」
ターリヒはマルトに書類を持たせたままで何枚かめくり、
「この子だ。孤児なんだが優秀で、学科、実技どちらの試験も首席」
そこには記憶に新しいエリシュカの名がある。
「あの、カレルといいエリシュカといい、どうして学生を連れていく必要があるんですか」
「警戒させないためさ。君とレオシュ君が行ったら、どう考えても探りを入れていると取られるだろう。だから新人の見学という建前にする。君は引率だね」
「引率って、遠足ですか……」
「建前だよ、君」
向こうでの振舞いもいちいち気をつけなければならなそうだ。マルトはこめかみに手をやりつつ、もう一度聞いてみた。
「せめてリーグニッツで何を見るべきか、教えてくれませんか」
「自分の目で、だよ」
ターリヒは、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「すまないね、これ以上は機密だから私の口からも言えないんだ。……それに、正直なところ、私自身、あそこでやらせていることが正しいのかよくわからん」
ターリヒの表情からは、何か不穏なものが読み取れた。その後で独り言のように、
「ノエミ君も、ここに来てどうしてマルト君を呼んだりするのか――」
「ノエミが? ノエミが私を呼んだんですか?」
ターリヒは慌てたように口を閉じる。マルトは問いただそうとしたが、その前に後ろの扉が勢いよく開いた。
「先生。最新の集計で、魔導器の数は充足する見込みです。人の選抜も進めてますが、さすがに呪術院は層が厚くて、向こうの方が数が出てきそうですよ。ノエミさんも苦労しますね……あっと、これは」
「やあルドミラ。相変わらずうかつだな」
マルトはため息をついて振り返った。
入ってきたのはルドミラ・ビエロフラーフコヴァー女史で、ターリヒの秘書をしている。秘書としては有能なのだが、致命的にそそっかしいという欠点を抱えており、片付かない部屋と同様にターリヒの悩みの種である。
「そういえば来る約束でした。ごめんなさい、今の話は忘れて」
顔をしかめるルドミラに、
「わかってるよ」
マルトは笑って答える。
ターリヒが椅子から腰を上げた。
「そろそろルドミラ君と城へ行く頃合いだ。政務会があってね」
「ノエミの話が終わってないです」
マルトは食い下がったが、ターリヒは首を振った。
「私より、本人と直接話すのが早いよ」
「先生、エリシュカは来ましたか?」
マルトが何か言うより先に、ルドミラが割り込んだ。
「あれ、おかしいなあ。まだ来ないね。本人に指示が伝わってないのかもしれない」
「わ、私はちゃんと伝えましたよ」
ルドミラが抗議する。
「そうかね。まあ講義ならまだ下にいるだろう。マルト君、これから会ってくるといいよ。渡してほしいものもあるし」
折よく講義時間が終わり、階下のざわめきが部屋の空気を揺らした。
「それでは、私はこれで」
扉に向かった背中に、ターリヒが声をかけた。
「マルト君、君の行く道を星々が照らすことを祈るよ」
校長室を出たマルトは階段を降り、講義室が並んだ一画に入った。廊下は講義を終えた学生たちで混雑していたが、お目当ての赤毛はすぐに見つかった。
「おーい、カレル」
うっかり気安く呼んだのをマルトはすぐ後悔した。一斉に好奇心と詮索の視線が向く。カレルは少々恥ずかしそうに早足でやって来た。
「ごめん」
小声で謝ると、カレルは気にしてないという風に首を振ってみせた。マルトは用件を告げる。
「君、エリシュカって学生を知ってるか」
「はい、もちろん。首席入学の人ですから」
「今日、彼女を見かけた?」
「それが」
カレルは首をかしげる。
「今終わった講義、エリシュカも受けてるはずなんですが、いなかったんです。午前の講義には出てたのに」
「おかしいな。実はターリヒ校長が部屋に呼んでたんだが、そっちにも来なかったんだよ」
カレルはううん、と唸った。
「急用で帰った、とか」
「それにしたって、校長から呼ばれてるのに言伝もないなんて考えづらいな」
「確かに……」
二人で考え込んだちょうどその時、廊下の向こうが何やら騒がしくなった。
「何だ?」
「すぐそこです。行ってみましょう」
騒ぎは廊下の突き当たりにある講義室の前で起こっていた。一つしかない扉を遠巻きにするように学生が集まっている。
「どうした。何があった?」
マルトが近づくと、学生たちは揃って振り返った。
一人が口を開く。
「この部屋の中から音がしたんですよ。何か爆発するみたいな。それで入ろうとしたんですけど、扉が……開かない、というか」
マルトは扉を見つめた。
魔力の滞留が感じられる。
「開かない? 鍵でも――」
カレルが扉に近づいた。
「触るな」
急いで叫んだが遅かった。
カレルがあっと声を上げて手を引っ込める。
「カレル、どうした。大丈夫か」
「は、はい。手はなんともないみたいです。でも扉に触った瞬間に頭から氷水でもかけられたような、すごく嫌な感じがして」
呪術だ。なぜこんなところに。
「みんな退がれ」
マルトは学生たちに声をかけてから、扉の正面に立ち怒鳴った。
「おい、中にいるのは誰だ。私は教導主幹だ。戸を開けろ」
そう言われて部屋の中の人物が素直に応じるのかは甚だ疑問だが、呪術というものは使った本人以外が無効化するのが難しい。
扉が開かないようなら破壊して乗り込むか。だがその間に中にいる誰かは逃げ出そうとするだろう。
「カレル、中庭に回れ。窓から出る奴がいないか見張るんだ」
「はい!」
カレルが駆け出すのを確かめ、マルトはもう一度叫んだ。
「聞こえないのか」
と、扉の向こうで人の動く気配がした。
「待ってください。今開けます」
少女の声だ。続いて扉から魔力が消えるのがわかった。
扉が開き、中には声の主が立っていた。
背はマルトより少し低く、魔学校の制服でもある国軍の軍服が、やや丈が余って見える。
切れ長だがやや細い目を始め、鼻も口も小さめで、全体におとなしい印象だ。髪も目立たない灰色だが、右側は編み込んでいるのに対して左は肩まで伸ばしてあり、不均衡な感覚が強く残る。
「エリシュカだね。入るよ」
相手の返事を聞かずマルトは部屋に踏み込む。廊下の学生たちを振り返り、
「君たち、問題は解決した。ありがとう」
にこっと笑って扉を閉めた。
一息ついてから表情を引き締める。
「さて、これはどういう状況なのか、話を聞こう」
視線の先はエリシュカではない。部屋の奥には、マルトと同年代と思われる青年が立っていた。
青年を中心として、放射状に机や椅子が倒れている。
「散らかして悪い。俺は……」
皆まで言わせずマルトは引き取った。
「呪術院の人間だな」
「その通りだが、なぜわかった」
「匂いでわかる。陰気な匂いだ」
マルトは吐き捨てるように言う。
「嫌われたもんだな」
相手は苦笑してから大仰なお辞儀をしてみせた。
「呪術士のマクシミリアン・マッケラスだ。お見知りおきを」
「マッケラス……」
マッケラス家は呪術院の中でも名の知れた家系である。その家系と目の前の男に、実際に血の繋がりがあるのか、それとも養子なのかはわからないが、どちらにしてもマッケラスを名乗れるというのはそれだけの実力があることを示している。
青年は肩書きにふさわしく堂々とした体躯で、胸板が厚そうだ。端正な顔立ちではあるが、それに似合わず灰色の髪は乱暴に撫でつけられている。その髪より明るい灰色の、体にぴったり合った上衣からは内側の筋肉が感じ取られる。一つの体の中で、貴族的な品の良さと抑えつけられた力が拮抗している。
「で、そのマッケラスが何の用だ」
マルトは警戒しつつ聞いた。
「そこのお嬢さんがうっかり魔学校に迷い込んでしまってな、連れ戻しに来た」
「帰って、マックス。私は呪術院から出たいの」
今まで黙っていたエリシュカが、そこで口を開いた。
ふうん、とマルトは思う。マクシミリアンではなく、愛称のマックスと呼んだ。この二人はそれだけ近しい知合いなのか。
「わがままを言うな、エリシュカ。呪術院から受けた恩義を忘れたか」
「恩義だとは思ってないわ。呪術院は私たちを選別して、能力の足りない子を切り捨てていたじゃない。私はずっと怖かった。いつ自分が見捨てられるのか。呪術院に残ったらこれからもそれが続く」
マルトは過去を思い出す。自分が孤児院にいた時も、選ばれれば選ばれるほどに周りの期待は高く、教育は厳しく、そして落伍への不安は大きくなっていった。
マルトは幸い、十歳の時に養父に引き取られ、またターリヒという師に出会い、別の道を歩んできたが、仮に孤児院に残っていれば、今のエリシュカと同じ思いをしていたかもしれない。
「何を言ってる。お前は見捨てられたりしない。二人でフンデルトヘルメ最高の呪術士になろうと約束したじゃないか」
マクシミリアンは話しながらエリシュカに近づいた。
「来ないで!」
エリシュカが叫び、マクシミリアンの前にあった椅子が吹き飛んで派手に転がった。
マルトは一歩進み出た。
「なあマッケラスさん、お引き取りいただけないか。今この子を無理やり連れ戻したところで、また逃げ出すのは明らかだろう」
「お前には関係ない話だ」
マクシミリアンはマルトを睨みつける。
「関係なくはないさ。この子は私の生徒だ。あんたに連れ戻す権利はない」
マルトはエリシュカの前に立った。
マクシミリアンは笑って首を振る。
「魔学校への入学など呪術院の力で取り消せる。それにエリシュカはまだ孤児院の在籍だ。俺はな、聖ゲオルギー孤児院の名でエリシュカを連れて帰る」
マクシミリアンの言葉を聞いたエリシュカがうつむいた。
聖ゲオルギー孤児院は、フンデルトヘルメの孤児院の中で呪術院と一番結びつきが強いといわれる。
子供は幼い頃から呪術院所属の教師に教えを受け、孤児院からは優秀な呪術士を輩出されているが、一方で落伍者には非人道的な仕打ちがなされているという噂もある。
マクシミリアンは上衣の内側から折り畳まれた書面を取り出し、マルトに示した。孤児院長の署名入りのその文書には、エリシュカ宛に孤児院への帰還指示が断定的に書かれている。
「わかったな。なら、そこをどけ」
「残念ながらどけないな」
マルトも懐を探り、受け取ったばかりの一枚の書面を広げた。
「養子縁組の完了通知だ。エリシュカはボド家に入る。従ってもはや孤児院には籍を置いていない」
「なんだと」
マクシミリアンはマルトの手から書面を引ったくり、食い入るように読んでいる。やがてその手が震え始めた。
「その書類は写しだからあげるよ。孤児院に持って帰るといい」
マルトは振り返り、エリシュカの手を取った。
「さあ、行こう。マッケラスさん、あんたも適当に引き上げてくれ」
マクシミリアンの答えは聞かずに扉へ向かう。エリシュカは何も言わないが、しかしマルトの手を強く握り返した。
「ふざけるな!」
背後で怒鳴り声がして、目の前の扉が一瞬歪んだように見えた。
マルトは扉にかけようとしていた手を引っ込めた。
強い魔力がかかっている。
マルトはため息をついた。
「往生際が悪いぞ。扉を開けてくれ」
「開けるか!」
再び、マクシミリアンは大声を出した。
「ボドってのは断絶した家系じゃないか。こんな詐欺みたいな方法を呪術院は認めんぞ。豚の骨風情が小細工を弄しやがって」
「待て」
マルトは顔から血の気が引くのを感じた。
「お前、今何と言った」
マクシミリアンは一瞬きょとんとし、次の瞬間皮肉な笑いを浮かべた。
「何かと思ったら豚の骨か。なぜ怒る? お前らにはそれが似合いだ」
かつて、呪術院から距離を置いた魔学者は、研究に必要な魔導器を手に入れられなかった。主に狩猟で手に入る魔獣から得られる魔導器は、呪術院が全て押さえていたからだ。
仕方なく、市場で屠殺された家畜の死骸からわずかな魔導器を探していたわけだが、そこから魔学者に対する侮蔑として、骨あさりだの豚の骨だのの言葉が生まれた。
「貴様、言ったな。私だけならまだいいが、魔学者全体を馬鹿にするのは許さない」
「許さないならどうする。ここで一戦始めるか」
「教導主幹、落ち着いてください」
エリシュカがささやいた。
「ああ、わかってる」
魔法は呪術より実戦向きだ。ここで戦ったとして、マクシミリアンが呪術士としていかに優れていても勝つ自信はある。しかし魔学校と呪術院の政治的地位から、騒ぎを起こしたら魔学校側が不利なのは目に見えている。エリシュカの入学問題にも悪影響を及ぼす恐れもある。
マルトは無理に気持ちを抑えて言った。
「戦うつもりはない。ここを開けろ。開けないなら扉を壊して出ていくぞ」
マクシミリアンはわざとらしく肩をすくめる。
「やれやれ、出ていくなら自分で解呪してみろ。それとも、豚の骨には難しすぎるか」
マルトはついかっとなった。
「やってやるさ。その代わり、解呪できたら二度と魔学者を豚の骨と呼ぶな」
「よしわかった。だができなかったらエリシュカは俺が連れて帰る」
「いいだろう」
「主幹!」
エリシュカがマルトの手を引っ張った。
他人がかけた呪術を無効化する、いわゆる解呪は、極めて高等な技術だ。呪術士でも、同格の者がかけた呪術はまず解呪できない。
マルトは自分が軽率にも乗せられたと気づいたが、だがもう言ってしまった。
「やるしかない」
扉に向かって立ち、目を閉じる。
マクシミリアンから発した魔力が扉全体に行き渡っているのがわかる。
試しに魔法で扉を動かしてみようとしたが、びくともしない。魔力で押さえつけられているというよりは、魔力によって扉が開くという状態を封印された、というべきか。
「どうだ? 俺のエヴェレットの小径がわかるか」
マクシミリアンがからかうように言った。
呪術士は、物に呪術をかけることを指して、エヴェレットの小径を辿る、と呼ぶ。
この扉で言えば、開いたり閉じたりと無数に存在する扉のあり方から、常に閉じた状態を選び取る。限りない分岐の中から一つの状態を選別し続けることを、分かれ道から正しい一本を選ぶことの比喩で表したのだろう。
マルトは扉の魔力の中に分け入り、マクシミリアンの選んだ道を見つけようとする。
「かかった」
マクシミリアンの声と同時に、突然マルトの眼前に無数の扉が現れた。限られた視野の中にあるのに、扉の数は無数である。
「何だ、これは? 私の認知能力を操作しているのか」
「そう、といえばそうだ。扉は無限の状態を持つ。お前に見えているのはまさにその無限だ。そして、俺が選んだのはそのうちのただ一つだ。さあ、選んでみろ」
とてつも無い徒労感、そして、本能的な永劫への恐れの感情が、急激に膨れ上がった。平衡感覚がなくなってマルトは思わず膝をつく。
「主幹、主幹! 大丈夫ですか」
エリシュカの声が別世界のように遠い。
駄目だ、正しい道を見つけないとここから抜け出せない。しかし、どうやって道を選び出す? 一つずつ扉を確かめていたら、それこそ無限の時間が必要だ。
マルトは動けなくなった。
「呪に絡め取られたな」
マクシミリアンの声が轟音になって響いた。
「……くそっ」
おそらく自分の感覚や感情までが、呪術の影響を受けて歪んでいる。迂闊に敵の領分に入り込みすぎた。
「早いとこ負けを認めろよ。これ以上粘ってもお前の精神が壊れるだけだ。俺もそこまで事を荒立てたくない」
マクシミリアンの声がどこか見えないところから聞こえる。
――見えないところだ。マルトは悟った。今自分が見ている扉の中に、正解はない。
どこだ。後ろか。
マルトは振り返ろうとしたが、呪術のせいか体を自由に動かせない。全身が石にでもなったようだ。
呪術に対抗するには……魔力か。
マルトは意識の再集中を試みた。呪術による精神の夾雑物に邪魔される中、なんとか魔力を溜め込み体に送ると、やっと足が動いた。
汗が顔を流れ、あごからぽたぽた滴る。
「ほう、貴様、よくその状態で立ち上がったな。だがどこまで続くか」
マクシミリアンの声は、やはり背中の向こうから聞こえる。
振り返れ。マルトはさらに魔力を使って体を動かそうとする。しかし、一段と強固な呪の塊がそれを拒んだ。
まるで壁に埋め込まれでもしたように、身動きが取れない。無理やり振り向こうとすると、体への圧迫がますます強まり、呼吸すらままならなくなった。
頭の中に空白の部分ができ、次第に広がってくる。
ここまでか。
力を出しつくし、前のめりに倒れかけた時、意外にも足が前に出て、体を支えた。
お前はなぜ私を使わない。
誰かが耳元でささやいたと思うと、唐突に左腕が動き、自身の右肩をつかんだ。二の腕の筋肉に力がこもり、右肩を手前に引き寄せ、上半身が捻れるように半回転した。視界が背後に巡る。そこに一つだけ扉があった。
扉はマルトの視線に答えるように開く。その向こうには、驚愕の表情を浮かべたマクシミリアンの姿が見えた。
「そんな……」
マクシミリアンがつぶやく。
全身がふっと軽くなる。呪術が解けた。
「マルトさん!」
よろめいた体を支えたのはカレルだった。部屋の扉も開いている。
エリシュカはカレルのすぐ横で、見開いた瞳でマルトを見つめている。髪と同じ灰色の瞳だが、光の加減なのか緑色の輝きが混じっていた。
「約束だ。我々は出ていくぞ。あんたも帰ってくれ」
マルトは視線を部屋の奥に移し、立ち尽くしているマクシミリアンに言った。
マクシミリアンは無言でマルトを見つめていたが、やがて大きなため息をついた。
「今回は俺の負けだ。あんたの力を見誤っていたようだ」
ゆっくりと歩き出し、部屋の外に出ていく。
足音が廊下を遠ざかり始めてから、マルトは小さくつぶやいた。
「これは私の力じゃない。ジークリンデの――」
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