第一章 別れと出会いのロンド
「火が消えなくてね」
マルトは言うと、盃に残った蜂蜜酒を飲み干して窓外の宵闇へ視線を移した。
ヴィシェフラト王国の首都、フンデルトヘルメの外れにある料理屋の一室である。
「火だあ?」
大げさな疑問符をつけながら、レオシュはマルトの盃へ酒を注いだ。
「ありがとう」
錫の盃を取ろうとして指で引っかけてしまい、蜜酒を満たしたまま倒れかけた。慌てて強くつかんだせいで、きん、と金属音が響いた。
二人の視線が盃を持つ左手に行く。鈍色の鉄だ。
ジークリンデから魔導器を受け取った後、マルトの左腕は自身の装甲と同化していた。外見では単に鎧をまとっているとしか思われないだろうが、実際には金属の表面が皮膚そのものとなっているのだ。触覚や痛覚もある。幸い魔装による強化を前提とした非常に薄い素材だったため、上から服を着ることもでき、日常生活の不便はほとんどない。
しばらくの沈黙の後、レオシュは左手から目を離してつぶやいた。
「お前、まだあの戦を引きずってるのか。停戦からもう一年以上だぞ」
レオシュの言う通り、正確には十三ヶ月前、後に第二次パンノニア戦役と呼ばれる一連の戦闘に、停戦条約が結ばれた。直接の契機はジークリンデの死と包囲戦の勝利だ。
王国軍がリブシェの魔人たちのうち、一人でも討ち取ったのは初めてだった。その事実は瞬く間に戦陣内を駆け巡り、勢いに乗った王国軍は包囲網内の敵を一気に打ち破った。手痛い打撃を受けたリブシェは、戦役での占領地域の放棄と引き換えの講和を提案し、自領へ撤退していったのだった。
もっともその成行きをマルトは知らない。ジークリンデを倒した直後に気を失い、ノエミに助けられたそうだ。ちなみにノエミたちが戦っていたキメラは、ジークリンデの死とともに戦意喪失して逃げていったとのこと。
そして、ジークリンデの魔導器を受け取ったことを、マルトは誰にも話していない。
「おい、聞いてるのか」
「うん……」
だがあの時のことで自分がどう変わったのか、心中の火が一体何なのか、マルト自身にもよくわからない。
わかるのは外界の変化ばかり。一旦は戦争も終わり、マルトの立場も変わり。そしてノエミはマルトから去っていった。
心の定まらないマルトを見たレオシュは呆れた風で、
「困ったな、こいつは」
自分の盃に麦酒をこぼれるほど注いで、一口に飲み込んだ。
「お前もこっちどうだ」
と酒瓶を上げるのを、マルトはごめん、と断る。
「麦酒は腹がだぶだぶするからいいや」
手酌で三杯目の蜜酒を盃に満たすと、そのまま開け放たれた窓の縁に飛び乗った。
レオシュが慌てて立ち上がる、がたんという音が後ろから聞こえた。そうもしよう、窓の向こうは目のくらめく高さの断崖だ。
左手に持った盃の中で蜜酒がゆらゆらと波打ち、あふれ出たいくばくかが光の粒となって落ちた。はるかな眼下は都を縦断するフンデルトヴァッサーの大河である。昼間ならその悠然とした流れが見えようが、夜の支配するこの時間、のっぺりとした闇から、大量の水が渦巻きつつ波となって過ぎゆく音が、地獄の鳴動のように聞こえるばかりだ。
マルトは窓枠に腰掛けて足をぶらぶらさせた。初夏の風が柔らかく体をなでる。
「いい加減にして席に戻れ。伝えたい話もあるんだ」
「ここでかまわないよ。どうせ政治向きの話題だろう。レオシュも先生もそういった火遊びが好きだから」
「自分たちの立場を安定させるためにやってるんだ。お前だってわかってんだろ」
レオシュは左右に首を振ってため息をつき、乱暴に椅子に座った。
「政治もそうでないのもある。とりあえず聞いてくれ」
言い終わるとちらりと戸口に目をやった。
扉には鍵がかかっている。厚い木材でできており、反対側から耳をつけても会話は聞き取れないだろう。
「まず、魔学校について呪術院が本気で介入を始めた」
「おいでなすったな」
王国で魔法を研究する機関は、これまで呪術院に限られてきた。しかし、世襲を基本とし経験知の口伝で継承を行うというそのやり方には、開明的といわれた先代国王の頃から批判が強くなっていた。
先代の考えを引き継いだ現国王も、系統立った魔法研究への意欲が強く、戦争中のどさくさに紛れて研究と人材育成を担う機関の設立案を通してしまった。結果、今マルトとレオシュの所属する魔学校が創設され、明日が開校初日だ。ちなみにレオシュは兵学と実践魔法の教師、マルトは教導主幹という、元遊撃隊らしくよくわからない役職についている。
当然、呪術院としては誠に面白くない。魔学校が、現王に整備された国軍の下部組織になる、とあってはなおさらだ。
「呪術院ってのは何せ歴史がある。貴族、教会、豪商、あらゆる筋と関係を持ってるから、敵に回すと厄介だ」
そこまで言ってレオシュは目を閉じた。義眼の右目は半分ほどしか塞がらないが。
「具体的には何か妨害とか要求とかを受けてるのか?」
「ああ、二つ要請があった。教員の選定権と、卒業者の一部を呪術院が引き取ること」
「そんな無茶な」
それを認めたら、呪術院と離れた組織として魔学校を立ち上げた意味がなくなってしまう。
「ああ無茶だ。だがおそらく一部は承認せざるを得んだろうな。何せ魔学校の教員は足りないし、学生の方も呪術院運営の孤児院からかっさらってきたのが少なからずいる」
マルトは黙って蜜酒の水面を見た。
マルトも孤児院の出身である。
呪術院は孤児院を援助する見返りとして、見込みのありそうな孤児を選別して引き取り、教育の後、家系の途絶えそうな呪術師に養子としてあてがっている。マルトの場合はたまたま、呪術院からはみ出した奇矯な研究者の養子となったため、呪術師ではなく軍属への道を歩むという変わった経歴をたどった。
「魔学校を卒業して軍に入るのと、どこかの呪術師の養子になるのと、どっちが幸せなのかな」
「おい」
レオシュは低い声を出した。
「勘違いするな。今は一人ひとりの幸不幸を論じる時じゃない。王国の行く末を考えろ。呪術院のやり方じゃあリブシェとの戦いには勝てないと思ったから、俺たちはここにいるんだ」
「そうね。悪かったよ」
無論割り切れない思いはあるが、それを蜜酒とともに飲み込んで、マルトは窓辺から自分の椅子に戻った。
おり良く扉が叩かれる。レオシュが鍵を開け、料理が入ってきた。ウナギのぶつ切りをオリーブ油で揚げたもの、豚の内臓の煮込み、後はライ麦の黒いパンとチーズである。
「おお、ウナギだねえ」
現金なもので、好物のウナギを見ると、胃がぎゅうと鳴ってマルトの心は躍った。
肉の弾力、内臓のほろ苦さ、わずかな川の匂い、これは生命の味だ。皮がぶよぶよしているのが欠点だが、揚げてしまえば気にならない。
「まあ、まずは食おう」
レオシュも料理に手を伸ばす。
しばらく二人とも無言で、咀嚼音だけが響いた。
ややあって、ウナギをあらかたやっつけたマルトは尋ねた。
「さっきの続きだけど、これから呪術院の息のかかった奴らが入ってくるのかな」
「これからとは限らん」
レオシュが声をひそめた。
「既に入っている可能性がある。教師じゃなく、学生としてな」
「……特に孤児院出身の学生は要注意か。そんなことならわざわざ孤児院から学生を受け入れる必要なかったのに」
「いや、そうはいかん。中には金の卵もいるからな」
言われてマルトは気がついた。
「そうだ。一期生の首席、あの子も孤児院出身だとか」
「ああ。名はエリシュカ、女。十六歳。姓はまだ貰ってないそうだが」
孤児院の子供は、養子縁組が決まるまで姓を持たない習わしだ。庶民まで姓を持つのが普通の今の世の中、これではまるでモノ扱いされているみたいで、マルトは好きではないが。
レオシュは話を続ける。
「筆記試験の成績は申し分なし。実技は、お前も立ち会ってたよな」
「うん、エリシュカ、覚えてるよ。ぱっと見は線の細そうな女の子なんだけど、魔法の使い方は思い切りがよかった」
恐らくこれからまだ伸びる。金の卵とはよく言ったものだ。
「だが」
レオシュがマルトの目を覗き込む。
「それだけに、呪術院の手が回っている懸念もある。気をつけろ」
「わかってるさ」
「ところで、だな」
レオシュの口調が急に変わった。
「ええとお前、一期生の名は全部覚えてるか?」
「え? 書類はもらったけど、百人以上いるし、まだ自信ないな」
「それなら顔はどうだ」
「顔って……実技試験の時に見ただけだから、ますますわからないよ」
レオシュの意図がよくわからず、マルトが少々困惑していると、再び扉を叩く音がした。
「おかしいな、料理も酒も十分あるけど」
マルトのつぶやきを横目に見ながらレオシュが急ぎ足で扉に向かう。
開いた戸口に立っていたのは、赤毛を長く伸ばした少女……ではない、少年だ。真新しい、詰襟の黒い軍服に身を包んでいる。軍服は軍の麾下にある魔学校の制服でもあり、教える側のマルトやレオシュもそれは変わらない。
マルトは見覚えがあった。魔学校の試験会場だ。その時も最初は女と思った。
「君は……カレル、だったよね」
自分でも知らぬ間に、マルトは立ち上がっていた。
「は、はい、カレル・アイゼンヒュッテンシュタットと言います」
声変わりしたての少しかすれた声で、少年はやけに長い姓を名乗った。が、マルトは聞いていなかった。
ノエミに似ている、と思った。
「アイゼンヒュッテンシュタットというのは北縁同盟の一つでな。元々は村に毛の生えた程度なのを、市長だったこいつの親父が大きくしたんだ。最近になって鉄鉱石が見つかって、町の名と、ついでに姓も変えたってわけだ。市長のやつ、かなりやり手だぞ。ここだけの話、鉄鉱石はリブシェにも売り先を確保してるらしい」
「……ああ」
レオシュはやたらと細かく説明を続けているが、マルトの耳にはほとんど入らない。
顔の造作は似ていない。ノエミは目つきの鋭い精悍な容貌だったが、カレルの顔つき、特に優しそうに潤んだ瞳は見る者に穏やかな雰囲気を感じさせる。
肌の色も、カレルは北の出身らしく色白だ。ノエミはどちらかというと浅黒かった。
赤い髪の色だけは共通しているが、ノエミはまっすぐな髪を無造作に伸ばしていたのに対して、カレルはくせっ毛なのかところどころはねた前髪を左だけばらりと垂らし、後ろ側は一本に縛っている。
……待て、それならどこが似てるんだ?
気がつけば、マルトは黒々としたカレルの瞳を覗き込んでいた。カレルの方もじっとマルトを見つめている。
急に恥ずかしくなってマルトは視線を逸らした。汗が出てきた。
「あの、よろしくお願いします!」
カレルはいきなり叫ぶとぴょこんと頭を下げた。
「え……いえ、こちらこそ」
マルトもつられてお辞儀しかけたが、なんだか馬鹿らしくなってやめた。
「実技は見ていたよ。魔法はいつから?」
カレルが頭を上げようとしないので、適当に話題を探して聞いてみる。
「物心ついた頃から、ええと父に教わって」
「へえ、長いね」
「長いくせに下手ですみません!」
カレルの頭はますます深く下がる。
「確かに、学生の中では下から数えた方が早い程度の魔力だがな」
レオシュが会話に入ってきた。
「魔力の強さってやつは魔導器の質で決まる、つまり先天的な要素が大部分だ。こいつ、それを自覚して、魔法と一緒に剣技もやってたんだ。なかなかのもんだぞ」
「剣技か」
自分も多少は覚えがあるだけに、マルトは興味を惹かれた。
「こっちは俺が手ほどきした」
レオシュは自慢げに鼻の穴を膨らませ、カレルの頭もようやく上がってきた。
「時に、あんたらどういうお知り合い?」
マルトはここでやっと、さっきからの疑問を口にした。
「ああ、言ってなかったか。こいつは俺の甥っ子なんだよ。さっき話した市長ってのが、実は俺の兄貴でな」
レオシュは若干照れくさそうにカレルの背中を叩いた。
「血の繋がりがあるっていうのに、ここまで違うもんだなあ」
人間だという以外に全く共通点のない二人の顔を、マルトはまじまじと見比べる。
「顔は似ておらんかもしれんが、剣の腕ならわかるかもな。近頃だいぶ俺に似てきた」
「そうなの?」
マルトが顔を向けると、
「はい、剣はみっちり仕込まれましたから、魔法より自信があります」
カレルは瞳を輝かせて答える。
「それなら軍学校にでも行けば良かったのに」
マルトは苦笑した。
「いえそれは」
「ごめん、皮肉で言ったつもりじゃないよ」
魔導士は一般的な士官より待遇が良いのだから、どちらかとなったら魔学校を選ぶのが普通だろう。
「違います。そうじゃなくて」
カレルはなお言い募るが、マルトの興味はもうそこにない。
「剣術ができるっていうなら、ここでやってみる?」
「えっ? ここで」
「そう、ここで」
「やめろ」
レオシュが遮った。
「どうしてそんな必要がある。第一剣もない」
「気になるからだよ。それに剣ならある」
マルトは右手に力を送りながら傍らの椅子に触れた。途端に椅子はばらばらになる。
「馬鹿、店の椅子を壊しやがって」
「壊してない。部品に戻しただけだ。後で直す」
マルトは椅子の足を二本拾い、そのうち一本をカレルに放り投げた。
カレルは黙って受け止め、マルトを見た。目に闘志が宿っている。
「ほら、彼もやる気だ」
「おいカレル、やめておけ」
カレルは首を振る。
「レオシュさん、剣の奥義はなめられないことだ、とあなたは教えてくれました。それを実践します」
言うが早いか腰をかがめマルトに駆け寄る。
剣を振り上げる姿勢を見せ、マルトが上段に構えたところで素早く体勢を変えて足を払いにきた。後ろに飛びのいて避けると次の一撃は突き、これも危うくかわしたが、重心が崩れてつい身体がよろめいた。
「もらった!」
カレルの剣が真横に払われる。が、体に当たるより先に、わずかに速く出たマルトの剣が受け止め、硬い木のぶつかる甲高い音を立てた。
そのまま剣で組み合う形になる。
「やるじゃないか。お見それしたよ」
マルトは笑った。自分の剣が上側にある。体重をかけられる分有利だ。
ぎり、と木が軋んで、マルトは一歩前に出る。このまま押し切る。相手が組み合いから外れようとしても、その瞬間できた隙に乗じて突きに持ち込める。
「光栄です」
しかしカレルも微笑みを返した。剣を斜めに倒し力を受け流す。
「しまった!」
剣が滑り、勢いを御しきれなかったマルトは右膝をついた。真後ろに殺気を感じる。
ほとんど反射的に体が動いた。背面から蹴り上げる形で思いきり伸ばした左足がカレルの剣を捉え、頭上に跳ね飛ばした。
急いで向き直ると、数歩下がったカレルが落ちてきた剣を空中でつかんだところだった。
間合いが開き、お互い息を整える。
「もういいだろう。いい加減にやめないと、この店、出入り禁止になるぞ」
レオシュが文字通り、二人の間に割って入った。
マルトは少し笑って剣を下ろした。
「出入り禁止はまずい。カレル、勝負はお預けにしておこう」
しかしカレルは構えを解かない。
「嫌です。決着をつけましょう」
「君の力はわかったよ。あなどって悪かった」
「カレル、強情を張るな」
「嫌だと言ったら嫌です」
マルトはレオシュと顔を見合わせた。頭に血が上っているのか、それとも見た目と裏腹に負けん気の強い性格なのか。
マルトは剣で自分の肩を叩きながら聞いた。
「君、このまま続けて勝てると思ってる?」
「もちろん」
「血気盛んなのはいいけどね。もう少し冷静に周りの状況を見る能力も必要だな」
「僕は冷静ですよ。冷静に、あなたに勝てると判断した」
そう言うと、カレルはマルトをにらみつける。
マルトは剣を構え直した。
「なら来るか」
言葉もなく、カレルは切り掛かってきた。振り下ろされた一撃はかわし、次は剣で受け止めはね返す。しかし間髪入れずにきた三度目の打撃が髪をかすめ、さらにその次は上着に当たってぱちんと音を立てた。
カレルはそこで手を休めた。
「酔いが回りましたか。息が上がってますよ」
「そうかもな。ここはちょっと暑い」
マルトは額の汗を拭ってみせた。
「では降参しますか」
「しないよ。だから君は甘いんだ」
カレルはむっとしたように眉をひそめた。
「負け惜しみに聞こえますね!」
言葉と一緒に繰り出された斬撃をかわすと、剣をカレルに投げつける。相手がそれを払う間にマルトの体は窓枠の上へと跳んだ。
「来い! 外で勝負だ」
叫ぶのと同時に左手を窓枠にかけ、外側へ飛び降りた。
「待て!」
「やめろ馬鹿!」
窓の内側から二つの声が同時に響き、続いて黒い影が飛び出した。左腕で窓枠につかまった姿勢でマルトは右手を伸ばし、影に向かって力を放つ。
はるか眼下の大河へ吸い込まれるかと見えたカレルの身体は、突然動きを止め、向きを変えてマルトの腕に飛び込んできた。
相手の体をしっかりと捕まえてから、マルトは言う。
「君は今二つのことを学んだ。まず、重力の操作は私の得意な魔法だということ。それから、やはり君はもう少し周囲に注意すべきだ」
茫然として動かないカレルの手から木剣が滑り落ちる。
闇に沈んでいく剣を見てマルトは目を閉じた。
「しまった。椅子が直せなくなった」
すっかりしょげてしまったカレルを脚の足りない椅子に座らせ、マルトとレオシュはそれを挟んで向かい合った。
「久しぶりに剣術をやったなあ」
マルトは追加で運ばせた腸詰めをばりっと噛みちぎった。肉汁と脂、血のえぐみが口内を駆け巡り、蒸気となって鼻から抜けていく。
レオシュは半ば呆れ、しかし半ばは満足そうに言った。
「マルト、随分元気になったじゃないか」
「ん、そうかな」
「カレルを気に入ってくれて嬉しいよ」
「えっ」
マルトとカレルは同時に顔を見合わせて、レオシュは吹き出した。
「息も合ってる」
「からかうな」
ばつが悪くなって、マルトは残っていた蜜酒を全部盃に注いで飲み干した。
「さあ酒は終わりだ。カレル君と挨拶もすんだし、今日はもうお開きだな」
「いや、もう一つ大事な話が残っている」
レオシュは口調を改めた。
「大事な話? それは」
秘匿事項ではないのか。マルトはカレルをちらりと見る。レオシュはすぐに察し、
「カレルにも聞いてもらった方がいい」
「魔学校に入りたての新人に? なぜ?」
「話を聞けばわかる」
カレルはここに来た時の気弱そうな目つきに戻って、二人を交互に見ている。
まだ子供なんだ、と思う。
レオシュは続けた。
「先生から聞いた話だ。次の戦の予言についてな」
「予言だと!」
マルトは椅子を蹴って立ち上がった。
「あんた、この子を何に巻き込むつもりだ」
呪術院に所属する呪術師の中で地位、才能共に最高位の数名は予言者と呼ばれる。そしてこれが呪術院を特別たらしめている最大の理由だが、彼らの行う予言は必ず的中する。外れたためしは一度もないといわれる。
それだけに、予言の内容は機密である。天候や災害など収穫にかかわるものは公表される場合もあるが、通常は国王、最高位の執政官、呪術院の指導部だけで共有される。戦争だとか王族の生死に関する予言も多いと噂されている。
そんな性格のものだから、下手をすれば予言の中身を知っているというだけで命を狙われる恐れすらある。
「カレル、君は帰れ」
マルトは扉を指した。
「いや、ここにいてもらってかまわん」
否定するレオシュをマルトはにらんだ。
「かわいい甥っ子だとさっきあんた自身が言ったろう。どうしてわざわざ危険にさらすんだよ」
「かわいいとは言ってないぞ。そう思ったのはお前だろ」
「あ、揚げ足を取るな! とにかく危険だ」
「魔導士になって戦場に出れば危険はつきものだ」
「そういう話じゃない」
「待ってください」
それまで黙っていたカレルが口を開いた。
「マルトさん、あなたは予言を聞くつもりなんですよね。そうしたらあなたの身も危険だ」
「それは……仕方ない。私の仕事だから」
「ならば僕もそれを仕事にします」
まっすぐにマルトを見つめる。
「な……何を言って」
「こいつはなあマルト」
レオシュがだみ声をやけにしんみりとさせて言う。
「パンノニアの戦役の時、同盟市軍に混じって戦場にいたんだ。お前がリブシェの魔人を倒した時だよ」
「あなたが傷だらけになって友軍を守ったのを、僕は見ました。それで、少しでも力になりたいと思ったんです。魔学校に入ったのもそのためです」
カレルの視線を感じ、マルトは思わず横を向いた。
「そうか……ありがとう。でも私に守る価値があるかどうかはわからないぞ」
「大丈夫です」
何が大丈夫かはわからないが、カレルはにっこり笑って頷いた。
二人の様子を見ていたレオシュが音を立てて盃を取り、中身を飲み干した。
「ああ、気が抜けちまった。……それとな、カレルをお前にくっついていかせるのは、俺とお前の間を繋ぐ意味もあるんだ」
「腐れ縁というのは、切っても切れないもんだと思ってたけど」
「茶化すなよ」
レオシュは盃を置いて腕を組んだ。
「さっき言われた通り、俺は案外政治が好きだ。今後、先生からその方面を引き継がれていくだろう。一方お前は、そういうのからは逃げたい人種だ」
「ご名答」
「だったら必然、俺とお前の見る景色は、これから次第に変わっていくだろう。その時のためにカレルがいる」
「うん」
はたして本当にレオシュの考えた通りになるのかはわからないが、その心遣いはありがたかった。
「で、いいか、本題に戻って」
レオシュはマルトとカレルを代わるがわる見る。
「カレルが聞くというなら仕方ない」
マルトは不承ぶしょう頷いた。
「実は、この予言はパンノニアの戦が終わった頃には出されていたそうだ。一年以上前ってことになるな」
「遅すぎるわけでもないよ」
十年以上経ってから明らかにされる予言もあれば、公表されないままの封印された予言もある。一年前の予言が秘されたままでもおかしな話ではない。
「内容は簡単だ。次のリブシェの侵攻で、敵主力はリーグニッツを攻めると」
「リーグニッツ? 面倒な場所だ」
リーグニッツは首都ヴィシェフラトよりかなり北東、シュレジエン平原にある小さな都市だ。
「リーグニッツ……その街、しばらく前に通りました。魔学校の試験を受けに、アイゼンヒュッテンシュタットからここに来る途中で」
カレルが口を挟んだ。
カレルの故郷であるアイゼンヒュッテンシュタットも属する「北縁同盟」は、正式にはオストゼー・オーダー同盟という。王国北東の山地から発し、リブシェの勢力圏との境界をなして北東に流れるオーダー川の河畔と、さらに北の沿岸部に点在する商業都市の連合体で、リブシェに対抗するため王国とは協力関係にある。そのため、レオシュやカレルのように、王国の軍属となるものも一定数いるのだ。
とはいえ、商業面ではリブシェの諸都市とも関係を持ち続けており、それが、北縁同盟が王国に完全に服属しない理由にもなっている。
その北縁同盟の都市から安全に、つまりリブシェの勢力範囲を通らずフンデルトヘルメまで来るには、最初にオーダー川を南東に遡り、途中リーグニッツから南西に進路を変えるという迂回路を辿る必要がある。
逆にいえば、リーグニッツを敵に奪われると、王国と北縁同盟の通行が断絶してしまうのだ。
「カレル、リーグニッツで何か見なかったか?」
レオシュが聞いた。
「あっはい、街の西側に建物ができてました。なんでも新しい要塞だとか。あっ」
カレルは手を打った。
「そうか。予言でリブシェが来るとわかったから要塞を造ったんだ」
レオシュは何度も頷いてみせた。
「その通り。で、ここからが重要だ。要塞の建造は呪術院が主体でやったが、魔学校も関与している。要塞を作り始めたのは魔学校の開設前だから、正しくは魔学校設立の主体になった魔学博士たちが関与したというべきだが」
「その話、おかしいな。どうして呪術院や魔学校が要塞を造るんだ? それは軍の仕事だろう」
いぶかしむマルトにレオシュは向き直り、意外なことを告げた。
「そこよ。それをお前たちに現地で見てこい、だと。先生から」
「はあ? 私? たち?」
思わずマルトは疑問符を連発する。
「そうだ。お前とカレルでリーグニッツに出向いてくれ」
「えーっ!」
今度はカレルが声を上げる。
「どうして僕が。講義が始まったばかりなのに」
「マルトと旅すれば講義なんかでわからんものが学べるさ」
レオシュは魔学校の存在意義を否定するような台詞を吐く。
「ちょっと待て、私だって行くなんて決めてない」
マルトも慌てて言ったが、次の言葉が心の奥を揺さぶった。
「行きたくなるさ。要塞にはノエミがいるんだからな」
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