反薄暮光 〜五人の独演者のためのメタモルフォーゼン〜

小此木センウ

序章 第二次パンノニア戦役の邂逅

 時に、中世の末。

 歴史学者によれば中世とは、魔法が体系立った学門として成立し、社会が魔法を取り込んで産業化するまでをいう。そうであるなら、彼女はまさに中世を終わらせ、次なる時代の幕を開けようとしている。

 もとより彼女はそれを知らぬ。彼女にあるのは、今この時だけだ。

 この時、この空である。天辺を仰げば星でも映りそうな深い群青の空を、しかし彼女以外の誰も見てはいない。

「マルトさん」

 呼びかける女の声に視線を下げると、最前線から戻ってきた部下のノエミだった。兵学校で出会って以来何かと慕ってくれる、馬の合った相棒でもある。

 汗で頬に張りついた長い赤毛を、ノエミはうるさそうにかき上げた。マルトのは肩に届かないくらいの暗灰色だが、つい真似して手櫛を入れる。風が通って気持ち良い。

 ノエミはマルトの様子を見てくすっと笑い、しかしすぐに厳しい表情に戻った。

「同盟市の軍勢の前にキメラが出ました」

「まずいな」

 マルトより先に、馬を並べていた同僚のレオシュが答え、こちらは毛のない頭をぴしゃりと叩いた。

 この男とも戦争前からの腐れ縁だ。豪胆かつ率直、頭の回転も速い。その性格の結果として最前線にばかり出て、乱戦で顔の半分を火傷で失いながらも、回復するやこうやって戻ってきている。

 ノエミはレオシュに少し頭を下げてからマルトを見た。マルトもその目を見て頷く。

「同盟市軍と格好をつけても、実態は訓練不足の市民兵の寄せ集めだ。このままじゃもたない。レオシュ、魔導隊を連れていってもいいか」

「ああ、だがやり合うつもりなら気をつけろ。キメラを操れるだけの魔力を持ったやつも近くにいるかもしれん」

「そうね。ノエミは一緒に来てくれ。魔導隊、行くぞ。星々はあまねく我らの道を照らさん!」

 ――星々はあまねく我らの道を照らさん! 唱和する声を背中で聞いて、マルトは馬を飛ばした。

 馬の足は速い。左右の景色がぐんぐん後ろに過ぎていく。

 この戦いではレオシュと組んで歩兵、弓、魔導の混成部隊を指揮しているが、本来のマルトの手勢は共に進んでいる魔導隊だ。

 魔導隊はほんの数年前、国軍の創設に伴って作られた部隊で、快速を活かした遊撃を最も得意とする。装備を軽くするために鎧も金属は両腕と胸当てにごく薄いものを使っているだけ、脚は腿まである革の長靴を履いている。ただ、これらは呪術士が魔力を込めた、いわゆる「魔装」で強化されているため、物理攻撃に対する防御性能は見た目よりかなり高い。ただし、いかに魔装といっても一定以上に強力な攻撃には耐えきれないし、魔法に対する相性は非常に悪いから、万事安心というわけではない。

 しばらく進み、ゆるい丘を上ったところでキメラの姿が見えた。

「あれか」

 二足歩行の怪物だった。全身が赤茶色い亀の甲羅に似た模様で覆われ、ごつごつと節くれだった頭には目がついておらず、背後に向かって放射状に角とも鶏冠ともつかない突起が無数に生えている。両腕とも手はなく、肘から先は細長いひれのように変形していた。身長は人間の五倍ほどもあろうか。

 友軍からばらばら矢が飛んでいるが、皮膚を通っていない。あれも魔装なのか、とにかく亀の甲羅は見てくれだけではないらしい。

 キメラの腕が同盟市軍の前衛をなぎ払った。

「市民兵が!」

 ノエミが悲痛な叫びを上げた。

 マルトは思い出した。ノエミの両親も、彼女が幼い頃に、襲撃を受けた故郷の村で戦って命を落としたと聞く。

 さざなみのように、味方に動揺が広がるのがわかった。さらに悪いことには、怪物の後方から敵の歩兵が進んでくる。

「このままじゃ包囲が破られます」

 ノエミがマルトの腕をつかんだ。

「わかってる」

 答えながら振り返れば、魔導隊の面々の頼もしい顔がある。

「行くぞ! 相手は亀だ。炎を浴びせてやれ」

 マルトたちは馬を駆って丘を下る。

 この種のキメラとは戦った覚えがないが、慎重に判断している時間もない。同盟市軍が敵に突破された場合、包囲が失敗するだけでなく、味方が分断される恐れが大きい。

 ここ一年のリブシェ、世間の呼び方にならえば魔王軍との戦役の勝敗は、パンノニアでのこの一戦にかかっている。負け続けだったヴィシェフラト王国はしかし、乾坤一擲の大会戦でリブシェの包囲に成功した。

 待ちに待った好機である。何せ、二百年近くも続いているといわれるリブシェとの戦いの中で、大勝利と呼べるものはただの一度もないのだ。長年にわたり王国は肥沃な西部を蚕食され続け、その難民が東部に住みつくという形で、国そのものが東へ移動せざるを得なかった。もはや国境線は、かつて領土の中央にあった首都の間近まで迫っている。

 加えて、リブシェは魔人とか魔獣だとかを上位の階級に置き、人間は低級な存在として扱われるという。

 これ以上の侵攻を許してはならない。絶対に、ここで勝たなければならないのだ。

 丘を駆け下りたマルトの一隊は、崩れかけた同盟市軍とキメラの間に割って入った。

「今だ!」

 掛け声と共にいくつもの炎が走る。キメラはぎいっと吠えてよろめいた。効いている。

「一気に押し倒せ」

 魔道士たちが二度目の炎を放つ。が、キメラは亀に似つかない速度で飛びのいた。

「あっ、羽! 羽が生えました」

 ノエミがキメラの背中を指差した。

 どんな早業か、そこには片側二枚ずつ、羽が震えている。蝶か蛾を思わせる、薄い羽だ。

 キメラは思ったより素早い。魔法では避けられてしまう。もっと速いものを。

 腰に吊るした革のケースから、マルトは短銃と弾薬を取り出した。

 弾は魔装徹甲弾だ。魔装の効果をなくす力が、呪術士によって込められている。ただしこれは貴重品だからマルトのような指揮官級のみ、数発しか支給されない。今の手持ちは三発だ。

 短銃は二連装だが、用心深く弾は一発しか込めない。

 大地を蹴って飛び上がったキメラの胸に狙いを定め、引金を引く。衝撃で腕が跳ねたが、弾はあやまたず目標に命中した。しかし、

「だめだ! 弾かれた」

 敵の堅さは魔装が原因ではない。皮膚を覆う甲羅自体が極めて強靭なのだ。それならどんな手で倒すか――

 しかし悠長に考えている暇はなかった。キメラは空中で旋回し、こちらに向きを定めて突っ込んでくる。

「散開、散開!」

 大声で指示しながら身を屈めると、頭上すれすれを巨体が通り抜けた。そのまま半分墜落するかのごとく地面に突っ込んでいく。悲鳴と地響き。何人かやられたか。

「この野郎っ!」

 今までの凄惨な経験が頭をよぎり、マルトは思わず声を張り上げた。が、すぐに我に返り、大きく息をつく。逆上してはならない。戦場で冷静さを失う者は死ぬ。

 キメラは魔導隊の中に飛び込んできたが、結果として敵の歩兵とはかなり間が離れた。同盟市軍は、マルトの隊がキメラを引き受けたおかげで立ち直ってきている。弱兵ではあるが、敵歩兵の攻撃を受け止めるくらいならできそうだ。

 ならば、キメラと敵の歩兵と近づけず各個撃破する。

「ノエミ」

「生きてます」

 下の方からすぐに声が上がった。落馬しているが無事なようだ。

「上々だ」

 マルトは笑ってみせる。

「敵の気を散らしてくれ。その間にあの羽をなんとかする」

「了解」

 言うが早いかノエミは飛び出した。走りながら小さな火球をいくつも作り、一つずつキメラに放っていく。

 火球の威力は小さいが、相手の注意を引きつけるには十分だった。キメラは立ち上がり、ノエミの方に向き直る。背中の模様、と思っていたものの一部が皮膚から外れて、中に折りたたまれていた羽が広がった。

 マルトは握ったままだった短銃を腰に戻した。少しずつ思念を集中する。目を閉じ、心の中に広がる風景を現実のそれと重ね合わせる。

 キメラは虫の羽を震わせて飛び上がる。その巨体に加わる重力を通常の二倍に増やし、合わせて羽に流れ込む空気を、想像の腕を伸ばしてもぎ取った。

 巨大な衝突音がマルトの体を揺さぶった。目を開けるとキメラが仰向けに倒れていた。何が起きたかわからない風で、しきりに両羽を動かしているが、ひしゃげた羽はいびつに前後するだけだ。

「魔導隊、攻撃」

 いつの間にか再び騎乗していたノエミが号令をかける。その周りに魔導士たちが集まって炎の弾を撃ち始めた。

 マルトは大きく息をついた。後はノエミたちがやってくれるだろう。今の大技で消耗したのか、手綱をつかむ手がゆるみ、目まいがして上体が揺れた。

「おっと、危ないぞ」

 誰かの腕が後ろからマルトを支えた。不思議な香りが彼女を包む。木の葉の匂い、しかしその中に花の甘さを感じる。

「ごめん、ありがとう」

 抱きかかえられたまま、マルトは香りの主を見る。透き通るほどに白い肌、丸くて大きな瞳、長いまっすぐな黒髪の女性だ。戦場の只中というのに鎧も着けず、光沢のある絹の服を着ている。

 なぜ戦場にこんな恰好の女がいる?

「誰だ!」

 マルトは慌てて起き直った。

「まあ待て」

 相手は左手で自らの黒馬の手綱を操りながら、先ほどまでマルトを支えていた右腕を伸ばした。その向こうにはノエミたちがいる。

「重力と風を同時に操ったか。ヴィシェフラトの人間にしては上出来だ。少し未熟ではあるが」

 悪い予感が駆け抜けた。

「やめろ!」

 マルトは目の前の腕に飛びついた。同時に膨大な力が放たれる。一瞬の後、ノエミの乗っていた馬の首が弾け飛んだ。血しぶきを浴びたノエミは鞍から転がり落ちた。

「おや?」

 敵は目を細め、微笑を浮かべる。その笑いが、貴族が狩場でするものと同じだったから、マルトはなおさら反感を高めた。

「お手本を見せてやろうとしたのに、幾分ずれてしまった。お前が邪魔をするから」

「何者だ」

 剣を抜き、距離を取りながらながらもう一度問う。相手は笑ってキメラを見た。

「こっちはあの子だけでやれると思ったんだがね。とんだ失敗」

「お前があの亀の飼い主か」

「亀とは失礼だな。あの子はアーベントロート……」

「キメラの名など知るかっ」

 皆まで言わせずマルトは切りかかった。敵は避けもしない。薄い絹の服に刃が届く。

 が、次の瞬間に剣は弾き飛ばされていた。

「重ねて失礼な奴。人の話は最後まで聞け」

 敵は笑みを絶やさず言った。

「それならこっちの質問にも答えてくれ。あんたは一体何者だ。私はマルト。ここの魔導隊の指揮を取っている」

 ゆっくり話しながら馬を後退させ、距離を取った。わざと相手に見えるように短銃を抜く。空薬莢を捨て、新しい弾を取り出した。

 敵の魔装は異様に強力だ。それを破るには、魔装徹甲弾か、あるいは魔力を共鳴させて魔装を中和する、共振波と呼ばれる魔法を使うか。しかし共振波は魔力の消費が大きいから、使いどころを考えなければならない。

「時間を稼いでいるつもりかな。まあ何をしても意味はないから構わないさ」

 敵はやはり笑みを崩さず、

「私はジークリンデという。聞き覚えがあるんじゃないか」

 マルトは思わず目を閉じた。強敵とはわかっていたが、こんな奴に出くわすとは。

「知ってる。リブシェの魔人の一人だ」

 魔人とは、人間やそれに近い姿をしていながら並外れた魔力を持つ、リブシェの統率者たちの総称だ。その中でもジークリンデは、神出鬼没といわれるほどに、あちこちの戦場に突然現れ、その並外れた魔力で戦局をひっくり返すことで知られていた。

 敵、いや、ジークリンデは頷いて、

「私の名を知っているなら、お前が私に勝てないとわかっているな」

「決まったわけじゃない」

 相手に気を飲まれないようにそう答えたが、全く勝てるとは思えなかった。

 リブシェの指揮官級と戦う時、通常は一人が囮になって誘い込み、五人以上で囲んで攻撃する。逆に言えば一人ではまずやられる。

 それが魔人ともなれば、実力は単なる指揮官よりはるかに上だ。実際、数えきれないほどの高名な魔道士、騎士たちが彼らのために命を落としてきた。

 マルトはあたりを見回した。

 先ほど落馬したノエミが、やっと立ち上がったところだった。目が合うと加勢するつもりか、こっちへ走り出した。

「ノエミ駄目だ! 来るな」

 ノエミが加わっても劣勢は変わらない。ここにいる魔導隊全員で戦って互角というところだが、彼らはキメラの相手でいっぱいだ。

 しかし、ノエミは足を止めない。

「そいつ、敵将ですね。マルトさんだけでは危険です」

「いいから。私一人でやらせてくれ」

「一緒に戦わせてください!」

「お前じゃ役に立たないんだよ!」

 本意ではなかったが強い言葉を投げつけると、ノエミはようやく立ち止まった。

「しかし……」

「魔導隊の指揮を任せた。キメラを頼む」

 まだ何か言いたそうなノエミに告げると、マルトはジークリンデに向き直った。

「部下思いだ」

 ジークリンデが言った。マルトは答えず自らの敵を見つめる。

「そんな悲壮な顔をするな。戦場なら不意の死も覚悟せねばなるまい。死があるからこその戦の壮麗であり、また死そのものが優美ともなろうよ」

 それを聞いて、マルトは無性に腹が立った。こいつは戦いの上澄みだけをもてあそんでいる。

 確かに戦い、あるいはその結果としての死には、人の憧れを呼び覚ます面もある。だが、実際の死はもっと容赦がない。

 マルトは挑発的に言った。

「我々はあんたたちを包囲してる。あんたの言う壮麗だのには負け戦の無様も含まれてるのか」

「お前を殺せばそれも変わろう」

「こっちが殺してやる。そして戦争を終わらせる」

 ジークリンデの顔から笑みが消えた。

「奇遇だ。私は戦いを愛するが、そろそろ倦んだ。終わりにしようと思っていたところさ」

 ざり、と音を立てて腰の鞘から剣が引き抜かれる。わずかに湾曲した片刃だ。

 相手の馬が駆け出すと同時にマルトは銃を構え、引金を引いた。

「無駄だ」

 一瞬で空中に四角い半透明の結晶が現れ、弾丸を止めた。と思うとその結晶をなぎ払ってジークリンデが迫ってくる。足留めにもなってないか。

 素早く銃をしまい、マルトもジークリンデに向けて馬を駆った。

 こちらが近づいてくるとは思わなかったのか、ジークリンデはやや急いだ素振りで右手の剣を振りかぶった。マルトはジークリンデの動きを確かめてからさらに速度を上げ、同時に右腕へ魔力を集中させる。

 ジークリンデが振り下ろそうとする剣の先に、マルトは左腕を突き出した。衝撃が体を走る。が、相手の剣に勢いがつく前に止めたせいで、刃は鎧で止まっている。

「こいつっ」

 体勢を崩したジークリンデは左手で手綱を引く。その瞬間がマルトの狙いだった。

 右手に貯めた魔力の全てを共振波に変え、掌底の形で相手の胴に撃ち込んだ。

 ジークリンデの体が傾き、二人はもつれあったまま落馬した。半回転しながら身体が叩きつけられる。

 半ば平衡感覚を失いながらも、地面の感触を頼りによろよろと立ち上がり、マルトはその場を離れようとした。

 硬い。共振波を撃った時の手の感覚だ。相手の魔装は破れてない。

「言ったろ。未熟だと」

 目の前から声がしたと思った次の瞬間、胸を突かれてマルトは転がっていた。胸当てに守られて傷はないようだが、すぐに次の一撃が来た。それも必死で避け、背中の鞘からナイフを引き抜き、相手の顔めがけて大振りに振った。敵は反射的に跳びのき、マルトも立ち上がりながら後ずさりして、やや間ができた。

 ジークリンデは荒く息をつくと、いまいましそうにマルトを見た。無意識にか、左手で共振波を受けた場所をさすっている。

 効いていないわけじゃない。マルトは気づいた。そういえば先の徹甲弾も、体の前に壁を作って防いでいた。

「くだらない考えを巡らせている顔だ」

「くだらないかどうか、やってみなければわからないぞ」

 敵の防御をかいくぐって徹甲弾を命中させられれば。

 ジークリンデをにらみつけたままマルトはナイフを鞘に戻し、銃のケースに両手を入れる。右手で銃把の硬い感触を握りしめ、そのまま取り出して構えた。

「その銃は連装だな。一発撃ったから装填されているのは一発」

「残り一発をお前に当ててみせる。さっきよりも距離は近いぞ」

「それでも防壁を張るのには十分だ」

「それなら」

 話しながら狙いを定め、

「やってみろ!」

 引金を思いきり絞った。

 ジークリンデは一瞬で防壁を展開する――が、銃口から弾は出ていない。

「なめた真似をする。間合いをずらして何とかなると思ったか」

 ジークリンデは背をかがめた。と思う間もなく駆け出している。マルトが銃を構え直した時には、もうほんの数歩まで距離が詰まっていた。

 引金に指をかけるより先に、下段から跳ね上がった剣が銃を吹き飛ばした。もしかすると指の何本かも持っていかれたかもしれないが、確かめる暇はない。ジークリンデの視線が銃に向いたのを見てとり、魔装に覆われた左の拳を固く握りしめる。

「こっち――」

 ため込んだ力を一気に解き放ち、拳を正面に突き出す。

「――だっ!」

 その後の出来事を、実際には一瞬間のはずだが、妙にゆっくりと感じた。

 拳が魔装に届く。魔装の一点からさざ波が立ち、強固なその壁が粘土のようにぐにゃりと曲がった。がむしゃらに力を込めると拳は壁に沈み込み、やがて唐突に抵抗が消えた。

 肌の柔らかい温度を感じた。いや、それはマルトの妄想だろう。手甲を通して瞬時に熱が伝わるはずがない。

 がふっ、とジークリンデが激しく咳き込んだ。剣を取り落とし、体を丸めてマルトから一歩離れる。

 拳の入ったみぞおちで破れた絹の服から、血と共に何かが落ちた。

 魔装徹甲弾だ。

 銃は無装填で囮に使い、残り一発の弾をマルトは左手に握り込んでいた。

 ジークリンデの体がよろめく。が、片足でなんとか支えた。顔は見えない。

 とどめを。徹甲弾で破れた箇所なら、魔装は回復していないはずだ。右手を見ると、指は残っているが血だらけだ。マルトは背中のナイフに左手を回した。

 ナイフを引き抜いた時、先ほどの打撃で痺れが残っていたせいか、指が滑った。からんと音を立てて転がったナイフに注意が向いた刹那、目の前に影が差した。

「あっ」

 強い衝撃を感じ、体の軸がぶれる。右足を踏ん張ろうとしたが、意に反して足は動かず、マルトはその場に倒れ込んだ。

 一呼吸遅れて痛みの嵐が襲ってきた。斬られた。防具で覆われていない右の腿から血が噴き出している。強く手をあてても指の間からどんどん滴る。

 死というものが頭の中に現れ、急激に大きくなる。その真っ黒な塊がマルトを見下ろし、口をきいた。

「ここまでお前は良くやった」

 そこまで言って頭を上げる。黒かった影に陽が当たり、金色に燃え上がるように見えた。刹那、マルトは自身の死を忘れ、ジークリンデの姿に見とれた。

「殺すのはやめた。降伏しろ。今治療すれば死なずにすむ」

 美しいなと思う。ならばここで終わるのも良いではないか。死そのものが優美。さっきは否定したが、皮肉にも、自分が死に直面することで、肯定の感情が生まれている。

「降伏はしない」

「なぜだ。部下の命か? それも助けてやる。お前が命令して退かせればいい」

 マルトは首を横に振る。

「私の部隊が退却すればこの一画の包囲が破れる。そうなったらこの戦、負けだ」

 それを聞いてジークリンデはくつくつ笑った。

「お前はまだ勝てると思っているのか」

「思っている」

 おとなしく殺されるのは性に合わない。華々しい……かどうかはわからないが、この者と最後までやり合って死ぬ、そんな死に方は上等だ。

「お前の言っていることと思っていることは、まるでちぐはぐだな」

 ジークリンデはマルトの顔を覗き込んで、その思考を読み取ったようにつぶやいた。

「だが望みとあれば命を絶ってやろう」

「ただでは死なん」

 マルトは左足に体重を預けてなんとか立ち上がった。出血で貧血を起こしたらしく、視界の端が霞んでいる。長く立ってもいられまい。

 ジークリンデの血は止まっている。すでに魔装が回復しかけているのだ。

 こちらにはもう徹甲弾がない。残った手段は共振波だが、相手の魔装を破れるか、まるで自信がない。

 マルトは左腕を見た。元は白銀の光を放っていたが、戦いの中ですっかりくすんだ鎧である。傷も大小随分あるが、魔装がこれまで何度もマルトの命を救った。

 魔装か。マルトは考える。

 魔装のような呪物から魔力を抽出し、魔法の威力に変える試みは、過去何度も行われてきた。しかし成功したという話を聞いたためしがない。魔力で物に継続的な効果を与える呪術と、瞬間的に巨大な魔力を消費して物を破壊する魔法とは、根本的に異質なのだと言われているが。

 言われてはいるが、マルトはこの説に違和感があった。肌感覚では呪術と魔法に大きな違いはない。呪術を利用しながら攻撃に使われる魔装徹甲弾が良い実例だ。

「何を考えている」

 ジークリンデが酷薄な笑みを浮かべながら首を傾げる。

「考えている間に殺してくれてもいいんだぞ」

 マルトは不敵に応じる。

「いや、面白いから待とう。ただし急がないとお前の不利になるばかりだ」

「わかってる」

 自己の経験から、魔力とは心の動きだと、マルトは考えている。それが自然の何らかの要素と感応し、力へと変わる。

 マルトは外を見るのをやめ、己の心の底をうごめくもの、その流れを感じ取ろうとした。

 おそらくは、肉体が極度に傷ついて機能を失いかけたことで、逆に精神が極めて鋭敏になっていたのだろう。マルトはその流れを直感的に把握する。いつかそれは自身の身体そのものへと変じ、そしてその中で浮き、あるいは沈み、力を与え、また散じるものをマルトは見つける。魔力だ。

 さらに身体の周囲に、マルト自身の魔力の流れからは外れた、しかし密度の濃い部分がある。これが魔装だ。

 マルトは心の流れを体の外に広めようと試みる。最初はうまくいかないが、幾度か試すうちにふと、外に向けて流れができた。

「待たせたな」

 マルトは顔を上げる。

「そうか。では行くぞ」

 ジークリンデは無造作に剣を取り上げ、ゆっくりと向かってきた。

「苦しませはしない。安心しろ」

 大振りの構えだ。

「ただで死ぬつもりはないと言った」

 マルトは左手を相手に向ける。

「共振波? 効かないとわかったろうに……いや」

 ジークリンデが歩みを止めた。

「最前より大きい。まだそれだけの力があったのか」

「ならどうだ。尻尾を巻いて逃げ出すか」

「非力の身でそこまでやるのには本当に感心したよ。できるなら殺したくない。一方で」

 ジークリンデはそこで心底楽しそうに肩を震わせた。

「殺したくなった。戦ってお前を殺す」

「御託はいいから来い」

「ああ。その腕を落とせば終いだな」

 ジークリンデは大きく剣を振りかぶって突進してきた。マルトは全ての力を左手に集中させて突き出す。どちらの技が速いかだ。

 ジークリンデが間合いに入ったと思ったその時、既にその剣は振り下ろされている。間に合わない。しかし。

 剣はマルトの左腕をすっぱりと断ち切り、勢い余って地面に突き刺さった。

 魔装の抵抗を感じなかったことに驚いたか、ジークリンデの見開いた目がマルトを向く。しかし剣は視線ほど速くは向きを変えられない。

 マルトの力はまだ斬られた左手に残っている。筋肉ではない、魔力で動かしているのだ。マルトは全ての魔装を魔力に変えていた。

 ジークリンデの胴はがら空きだった。魔装徹甲弾でついた傷を目がけ、マルトは渾身の力で拳を撃ち込む。

 明らかな手ごたえと共に、相手から何かを奪ったことへの悔恨が心を駆け抜けた。

 ジークリンデは動きを止め、次の瞬間大量の血を吐き出した。

 一、二歩後ずさり、突き刺さったままのマルトの腕へわずかに視線を巡らし、それから真上を見上げて、倒れた。マルトはその動きを見届け、一つ息をついてから、ジークリンデの体に覆いかぶさった。

 指一本、動かす力もない。

 もはや痛みも感じない。自分の血がジークリンデのそれと混ざり合って流れ、地面に黒く吸い込まれていくのを、マルトは静かな思いで眺めていた。


「見事だ」

 突然ジークリンデの声が響き、マルトは我に返った。

「う……」

 情けなくもこちらは返事さえできない。

「声にしなくても大丈夫だ。思念を魔力に乗せて直接繋げている」

 マルトは驚いた。そんな魔法は聞いたこともない。

「ああ。リブシェでも私にしか使えない魔法はいくつもある。時間がないから説明は省くがな」

 考えただけで伝わっているらしい。

「勝負はついた。マルト、お前の勝ちだ。私はまもなく死ぬだろう」

「そうか。だけど相討ちだよ。私も死ぬ」

「なぜだ。致命傷は負っていないはず」

「出血がひどい」

 マルトは寒気を感じたが、体を震わせる体力はないようだった。

「だけどそれもいいさ。あんたと戦って死ぬなら満足だ」

 ジークリンデは答えず、その代わり、わずかに体を揺らし始めた。

「どうした」

「この勝負、相討ちでもお前の勝ちでもないな。私の勝ちだ」

 どうやら笑っているらしい。

「最前、戦場において死は優美たり得ると私は言い、お前は否定したな。だが今、お前はその優美に身を委ねようとしている。だから私の勝ちだ」

 それを聞くとマルトも笑いたくなったが、どうにも体が動かない。

「そうね、負けを認めるよ。罰として地獄へ同行しよう」

「私は地獄には行かん」

 ジークリンデはぴたりと笑いを止めた。

「それはお前もだ。お前には別の罰を与える。お前は生きてあがけ」

「勝手なやつだ。生きたいは生きたいさ。でももう力がない」

「お前にはまだ魔力が残っている」

 ジークリンデは断定した。

「私にはわかる。それを使って左手を動かせ。そして私の力を取り込むんだ」

「あんたの力?」

「ああ。魔力を持つ者なら誰でも、その力の源泉を持っている。お前たちだってそうだろう」

「魔導器のことか」

 魔獣、魔人、キメラ、それに魔導士。それらは全て、魔導器という結晶のような構造を体内に宿している。

「お前たちの付けた呼び名は知らん。とにかくそれを取れ」

「待てよ。そんなことをすればあんたはすぐに死んでしまうんじゃないか? 第一、自分自身の体を魔力で治癒すればいいじゃないか」

「私の身体は特殊だ」

 ジークリンデは答えた。

「本来ならとうに朽ち果てているべきものを、魔力で維持してきた。そこへ来てこの傷だ。魔法で死者の蘇生ができないのと同じように、壊れた体から魂が抜けるのは止められん」

「しかし」

 マルトは逡巡していた。己がいつか、戦場での死を迎えるのは免れ得ない。それならば今、この死は魅力的だ。

「マルト、違う。お前はなぜ私と戦った。可能性を閉じるな。お前はこの戦を終わらせると言った。それを守れ」

 戦争を終わらせる、か。マルトの耳に、それまで聞こえなかった戦場の歓声、怒号が届く。

 ノエミはどうしたろう。レオシュも無事だろうか。

 もう一度、マルトは左手に力を集める。無論現実の左腕は胴から離れているのだが、思念の中では変わらずあるのだと己に言い聞かせ、もはや血の通っていない、冷たいその指を動かし、ジークリンデの持つ器へ近づける。

 ジークリンデの体が激しく痙攣し、マルトは指を止めた。

「反射で動いているだけだ。かまわないから続けてくれ」

「……すまない」

 相手の言葉の裏に苦痛はあったのか否か、わだかまる感情を打ち消し、マルトは再び左手に精神を集中する。と、すぐに硬い感触があった。手甲を通してさえ、その物体の持つ尋常ではない魔力が伝わってくる。

「取れ。手伝う」

 手に何かが入ってくる感覚があったかと思うと、まるで操られるかのごとく指が動き、硬いその器官を鷲づかみにした。

 まばゆい、圧倒的な力の奔流が入ってくる。ほんの束の間マルトは陶然とした感覚に陥り、しかし次の瞬間耐えがたい苦痛がやってきた。

 背骨がきしむほどに上体がのけぞり、右手は虚空をかきむしる。

 それでも左手は離せない。いかに苦しくとも、勝者は生に耐える義務がある。

 知らず、両眼から涙がこぼれている。ぼやける視界の向こう、ジークリンデの白い顔が見える。吐血した口元だけが真っ赤だ。

「引き剥がせ」

 左腕がゆっくりと持ち上がり、血まみれの物体を掲げる。平面の組み合わせだけで構成された幾何学的なそれは、まるで宝石だ。

「誓え。戦いを終わらせると」

「私は戦いを終わらせる。そして皆を守る」

「守る? 義務ではなく?」

 沈黙の後、ジークリンデの顔に笑みが見えた。

「ああ、そうか。私は戦いに倦んだと言った。どうしてそうなのか、自分でもわからなかった。だが今わかったぞ」

 そうしてマルトは全てを受け取った。同時にジークリンデの身体は塩と化して砕けた。

 ジークリンデの思考だったものも、ばらばらにほどけて大気に散っていく。マルトはふとその欠片に手を伸ばした。

 兄さん、とそれは言った、ような気がした。

 その時から、マルトの心にも、熾のような火が灯った。

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