第4話 オールト雲の子供 (第4走者:NUE)

「ごめんローザ……」


 大学から帰宅して早々のことだった。


「え、どうしたんですか蓮さん?」


 玄関を開けたら、うっすらと西日が差し込む暗い廊下に蓮が一人で佇んでいた。俯き、影に隠れたその表情は窺え知れないが、先ほど耳に届いた声にはまるで覇気がなく、その姿も見るからに元気がない。


「具合でも悪いのですか……?」


 普段とはまるで別人のような蓮の様子に、ローザは胸が締め付けられるような不安を覚えた。だが彼女がその腕に雪のような真っ白い子猫を抱えていることに気付いた途端、脳裏に閃光が走りローザははっと目を見開いた。


「あっ! まさか“また”ですか!?」


 ローザは咄嗟に声を裏返して叫んだ。すると、蓮は「うっ」と呻いて顔を引き攣らせた。


「ごめん! 本当にごめん!」


「ナーオ! ナーオ!」


 一人と一匹の悲痛な声が廊下にこだますると、今度は廊下の奥から啓太が現れた。


「あ、ローザさんおかえりなさい」


「啓太さん! あの、もしかして――」


「はい。蓮さんは今日は授業のコマがない日で、ローザさんは昼間の授業に出ている間ラサラ君とアルテさんの面倒を見てくれるように蓮さんに二匹を預けました。アルテさんは綿飴でできたお人形のようにそれはそれは大人しくしておりましたが、ラサラ君の方は相変わらずのやんちゃっぷりで蓮さんの部屋を縦横無尽に駆け回り、蓮さんも八方手を尽くしましたがまるで手に負えず、餌で釣っても猫撫で声で呼び掛けてみても一向に靡かず、諦めて目の前のキャンバスに集中していましたが、それから数時間が経ったころお腹が空いて部屋を出ようとしたときにラサラ君が居なくなっていることに気が付いたのです」


「ああ、やっぱり……」


 不安はあった。ラサラが部屋から逃げ出すことはこれが初めてのことではない。ローザは怒鳴って叱りつけたり噴霧器で水をかけたりしてまだ幼い子猫が危険な外界に飛び出していくのをどうにか防ごうとしたが、いずれの試みも上手くはいかなかった。


 とはいえペット用のキャリーケースなどに閉じ込めるような仕打ちも可哀そうで気が引ける。


 しかし、そうして何の手も打たないまま状況を放置し続けた結果がこれである。


「ごめんね、ローザ。私が油断して目を離したりしたから……」


 後悔に打ちひしがれている蓮に向かって、ローザは大げさに首を左右に振ってみせた。


「蓮さんの所為ではありませんよ。私が日頃からちゃんと躾ていなかったのが悪いんです」


 二匹の子猫に名前を付けたあの日からもう一月が経つが、ローザは好奇心の塊のようなラサラの行動に未だに振り回されっぱなしであった。


「でも、私ったら今朝はあんなに自信満々引き受けたのに……」


 ぱっと見はパンクでいかにもアウトローな若者然としているが蓮は人一倍責任感が強くて誠実な人だと知っているローザは申し訳なさで胸が一杯になっていた。


 軽く引き受けたように見えて、実のところ彼女はかなり慎重に考え対応してくれていたはずなのだ。


「折角のお休みの日なのに面倒を引き受けてくれただけでも十分過ぎるほどです。私こそ無理を言ってすみませんでした」


 すると、彼女は口を噤んだまま顔を上げた。


 潤んだ瞳が、星のように煌めいている。


 それを見たローザは少し縋るような気持ちで梅太郎の飼い主でもある啓太を見つめた。だが彼にしては珍しくすまなそうに無言で首を左右に振るだけだった。


「アーオ!」


 束の間三人が黙り込んでしまうと、急にアルテが鋭い鳴き声を発した。


「アルテさん?」


 ローザが不思議そうにアルテを見つめると、彼女はしきりに床を見つめて細い髭をひくひくと震えさせた。


 すると、床の方から「ナー……」とか細い鳴き声が聞こえた。


 三人が同時に振り向くと、そこに真っ黒い塊を口に咥えている梅太郎の姿があった。


「梅さん……?」


「あっ、ローザ、あれ!」


 蓮が目を丸くして指をさすと、梅太郎は口に咥えていたものをぽとりと落とした。


 するとそれは白い目玉を見開いて、稚い口を大きく開き欠伸をした。


「ラサラ君!」


 ローザは慌てて駆け寄り彼の小さな体を抱き上げた。


「何処に行ってたの!? 皆、心配したんだよ!」


「ナーオォ……」


 のんびりとした返事に三人は脱力して互いの顔を見合った。


「とりあえず、元気そうです」


「よかったぁ……」


 蓮がほっと胸を撫でおろしたのを見て、ローザもようやく緊張を解くことができた。


 しかし、ラサラを抱えている手に何やらぬるりとした奇妙な感触を覚え、ローザは怪訝そうに眉を潜めた。


「あれ、なにこれ?」


 自分の手を夕日に晒すと、なぜか真っ黒に染まっている。


「ねぇ、ラサラ君の身体なんだか黒すぎない?」


 蓮の言う通り、確かに元から黒猫だったとはいえラサラの身体は不自然に黒ずんでいた。よく見ればトレードマークである背中の白い星さえ漆黒の闇に沈んでいる。ついでに彼を咥えていた梅太郎の口も黒く染まっている有様であった。


「おまえどこでこんなに汚れてきたの?」


 呼び掛けてみても何も答えないラサラにローザは呆れて視線を離し、自分の手を見つめた。それはまるで墨を素手で触ってしまったかのよう。習字の授業で使う墨汁を零してしまったときのあの独特の匂いが脳裏を過る。あれとはまた違ったものがうっすらと香ってくるが、どう見てもそれは何かのインクなのだった。


「蓮さん、これ何か分からない?」


 ローザは美大生である蓮にならばこのインクが何であるのか分かるかもしれないと思って、黒に染まる掌を翳して見せた。


「うーん……」


 最初はまじまじとローザの手を見つめていた蓮であったが、ふいに答えが閃いたのか、その眼に光が宿った。しかし、すぐに彼女は眉間に皺を寄せ、なぜだか気まずそうに目を細めた。


「あー、ヤバ、これもしかして……」


 蓮がそう呟いた時だった。


「君がこの猫の飼い主かい?」


 ローザの耳に聞きなれない男の人の声が届いた。


 振り返ると、作務衣を着た坊主頭の男性がこっちを見据えて階段を下りてきた。ローザにとっては見知らぬ人であったが、隣に居る二人が当然のように「こんばんは」と挨拶しているのですぐにここの住人なのだと分かった。


 すとっ、すとっ、と奇妙な程に静かな足音が夕闇に沈む廊下にこだまする。


「あ、はい。私がこの子の飼い主です」


 おずおずとローザが先ほどの質問に答えると、彼は赤い縁の四角い眼鏡の真ん中をぐっと押し込んで彼女の顔をじいっと観察した。


「んん? ……見ない顔だな」


「この方は星野ローザさんといいます。ローザさんは地方の田舎育ちでこれまで一度も東京に来た事がなかったのですが、大学進学を機に上京したのです。だけどローザさんはまだここへ入居して一ヵ月くらいの新人さんで、この間僕が公園でミイミイと鳴いているそこの子猫二匹の名付け親になってくれるように頼んだら、そのまま気に入って二匹とも引き取ってくださったのです。黒い方がラサラ君。白い方がアルテさんといいます。アルテさんは大人しい女の子なのですが、ラサラ君はとても活発な男の子なのでよく脱走してしまい手を焼いているのですが、今日のところは梅太郎のお手柄で見つけることができました」


「相変わらず丁寧な解説をどうも」


 坊主頭の男性は啓太の長話にも慣れているようだった。


「そして、ローザさん。この人は漫画家で、ペンネームは『諸星あたれ』といいます。ちなみに本名は高星葉二郎といいますが、そちらの名前で呼ばれるのは嫌いなようです。だから皆は先生と呼ぶようにしています。先生は高校を卒業すると同時に上京してそれからずっと今まで大切な花に住んでいます。だけど、僕もこうして会うのは五回目か六回目くらいで、先生は滅多に姿を現さないレアキャラでもあります。でも先生の描く漫画には週に一度コンビニに行けば読めます。なぜなら先生はかの有名な週刊少年ジャンクで連載を持っているすごい人なのです」


「漫画、家……?」


「そう。俺、漫画家。それも毎週締め切りに追われて忙しい週刊誌で描いてる」


「はぁ……」


 これまで漫画を読む機会に乏しかったローザは、どこかまだ腑に落ちていないような心地で生返事した。


「ところで今日は何曜日だかわかる?」


「え……」


 唐突な質問にローザは少々面食らいながらも、黙ったまま見つめてくる諸星の顔にまるで促されるようにして、口を開いた。


「えっ……と、金曜日です」


「そう金曜日。そしてジャンクが出るのは毎週月曜日の朝。締め切りもそれに合わせて日曜日までときっちり決まってる」


「はぁ」


 咄嗟に、前日のしかも日曜日が締め切りで本当に間に合うのだろうかと疑問に思ったが、諸星があまりにも当然のように言うものだからローザは何となくそういうものかと頭に浮かんできた疑念を胸の奥へと仕舞った。


「俺はこう見えてまだ一度も締め切りを落としたことがないのが自慢だ。ノリと勢いでずっと連載を生き残ってこれたのはひとえにこの手の速さのおかげだと思っている」


 何やらすごいことを話しているようだが、これまで読書といえば小説ばかりで漫画は学校で話題になったものくらいしかまともに読んだことがないローザにはぴんとこない内容だった。


「あの……すみません。私はあまり漫画は読んだことがなく、何を仰っているのか――」


「だけど、ここにきて問題発生だ」


「はい?」


 首を傾げたローザに向かって、諸星あたれは黒いインク塗れの汚い紙を翳して見せた。


 それを見たローザはぽかんと口を開けた。同時に隣に居る蓮が「あっ」と呟いて目を白黒させた。


「これは完成原稿のはずだったもののなれの果てだ。昼飯の買い出しに行って戻ってきたらこうなっていた。そして、もう見えているとは思うがここを見てほしい」


 諸星は白い指先でその原稿の一点をさして示した。そこにははっきりと猫の足跡が黒いインクによって刻まれていた。


「というわけでだ。君には今からダメになった原稿の修正と再制作を手伝ってもらいたい。勿論、引き受けてくれるね」


 顔面から血の気が引いていくのを感じながら、ローザはつくづく己の浅はかさを後悔していた。


 たとえ漫画について疎くとも、彼の仕事が今大きなトラブルに直面しているということとその責任がこの場合ローザにあるのだということは彼女にも嫌というほど理解できた。


 自ずと溜息がこぼれると、腕の中でもぞもぞとラサラが身動きした。


 諸星の原稿を小一時間でゴミとなさしめた小悪魔は、今ローザの腕の中で呑気に寝息を立て始めていた。


 

  ☆

 


 数本の縦線と横線がきっちりと交差して出来たマスの一つ。


 その中に、諸星あたれはまるで箒で軽く掃くような動作で鉛筆の線をしゅっしゅと滑らせていく。


 すると見る見るうちに一枚の紙の上に目の大きな八重歯の女の子が現れ、マスの中が一つの画面となった。


「うわぁ……本当に漫画だぁ」


 ローザは思わず感嘆の声を漏らした。


「こんなの生で見られるの貴重だよ、ローザ。業界でも諸星先生ほど描くのが速い人はそう滅多にいないんだから」


 目の前の大きいちゃぶ台を共に囲んでいる蓮がなぜかちょっと鼻息を荒くしている。


「デビュー作の読み切りが一夜漬けで描いたっていうのはもはや伝説で、なのに独学の絵は斬新かつ繊細で編集者も今まで見たことがないって太鼓判を押したくらいなの」


「それは、すごいですね」


 などとローザが半信半疑で相槌を返すうちにも、次々に下絵が出来上がっていく。


 そして諸星が作業に入ってから十五分。一枚目の下絵が完成した。


「うわぁ、本当に綺麗! こんなに速く描いてるのに迷い線が一本も見当たらないし、ペン入れ前なのにもうキャラクターがイキイキ動いてる!」


「あの、蓮さんは漫画に詳しい人なんですか?」


「え、あたしなんて全然詳しくないよ。ただ先生のファンなだけで」


「よく言うよ、今までサイン一つ貰いに来なかったくせに」


 諸星は湯呑茶碗に入った何やらツンっと匂いのする液体を飲みながら二人の会話に割って入った。ちなみにその茶碗には“寂滅為楽”“心頭滅却”“勧善懲悪”という文字が連続してびっしりと書かれている。


(一体どこでこれを……?)


「だって先生普段全然部屋から出てこないじゃないですか。あたし一年以上住んでてこんなに会話したの初めてですよ」


「大事な仕事部屋だからな。今まで出版社の奴らも上げたことないよ」


 仕事部屋という言葉を聞いて、ローザはあらためて彼の部屋をぐるっと眺めた。


 間取りはローザたちと同じ六畳の和室だが、窓を塞いで壁一面を覆いつくしている本棚とそこから溢れて床に積み上げられている大量という言葉ではあまりに控えめに感じるほど無数の漫画本で部屋が埋め尽くされている。


 ローザの目には仕事部屋というよりもまるで子供のおもちゃ箱をひっくり返したような、少し異様な光景として映った。


 しかし、多種多様な絵や色に囲まれているというのにどの漫画の表紙にも思わず引き込まれる何かを感じる。


 さすがに漫画がお好きなんですねなどと頓珍漢なお世辞は述べなかったが、本音のところを言えばローザはどんな漫画が面白いのか教えてもらいたいと思い始めていた。


「さて、じゃあ二人にやってもらうのはこれだ。蓮さんはベタ塗り。ローザさんにはトーン貼りをやってもらう」


 ローザと蓮は少し緊張した面持ちで「はい」と同時に返事した。


 ベタ塗りとは例えば黒髪のキャラクターの頭部などに筆で黒く色を付けたり、影を付けたりする作業のことだ。トーン張りとは、キャラクターの服の柄や微妙な色合いの違いなどを表現する為に、多種多様な模様の入ったシールをカッターで切って貼り付ける作業のことをいう。


 美大生の蓮は筆の扱いに慣れているから自然とベタ塗り作業を宛がわれ、残ったトーン張りをローザが行うことになった。


「蓮さんはともかくとして、ローザさんは不慣れな作業だろうから慎重にね。まあホワイトで消せばやり直しは効くんだけど、ゆっくり丁寧にやれば誰でもできる作業だから」


「は、はい!」


 諸星は意外と冷淡そうに見えて、ローザに対して怒ったり詰ったりするようなことはせず平然としている。しかし、彼の大事な原稿をラサラが台無しにしたことは事実であり、その責任はやはり飼い主が負うべきものに違いない。


 ローザはドキドキしながら、指示された個所に所定の番号のトーンを宛がい、カッターの刃を入れた。


(紙を切らないように上のシールだけ切るのって、結構難しいのでは……)


「先生、こんなかんじでいいですか?」


 蓮が一枚目の原稿の墨入れを終えたようだ。


(えっ、もう!?)


「うん。どれ……よし。それじゃ、それは乾かしてローザさんに回しておいて」


「はーい」


 何気なく蓮が畳の上に置いた原稿を見ると、ほんの数分しかなかったはずなのに塗むらやはみ出しもなく綺麗にベタ塗りが終わっていた。


(すっ、すごい!)


 次いで作業している蓮の方を見ると、おそろしく正確に筆を運ぶ彼女の手つきに目が釘付けとなった。


「あの、美大生って、皆そういうことが出来るのですか……?」


「え?」


「こう、ぎゅっとして……ばっと塗っているのに全然的を外さないというか……」


 ローザは蓮がしているような手首を丸めて筆を持つ仕草を真似て見せた。


「うーん……他の人たちが塗ってるとこなんてあんまり見ないから知らないけど、私そんなに上手い方じゃないよ。入学試験も後ろから数えた方が早いくらいの成績だったし」


 と、喋りながらも彼女の手が止まることはない。


「ローザさん。マイペースでいいから手を止めないでどんどん進めて」


「あっ、ごめんなさい!」


 そうして土曜日の朝から始まった原稿の直し作業は黙々と進み、やがて本棚に遮られている窓が赤く照らされ始める頃まで続けられた。


「蓮さんあと何枚?」


「あと一枚です」


「ローザさんは?」


「えっと、まだ……あと十枚くらいあります」


「よし」


 諸星はGペンを机に置くと、


「とりあえず、夕飯食べておいで。もうそろそろ菊乃さんの料理ができる頃合いだ」


 そう言って、彼はおもむろに立ち上がった。


「先生はどうされるんですか?」


「俺は近所の飲み屋」


 

  ☆

 


「よく飲むんですよ、彼昔から」


 食卓をローザと、蓮、啓太の三人で囲んでいると飯を盛った椀を片手に菊乃さんが空いている席に座った。


「確かに、さっきもずっと飲んでました」


「え?」


 蓮の言葉にローザが驚いて振り向いた。


「飲んでたって、あの湯飲み?」


「そう。あれ多分日本酒だよ。ちょっと古くなってるけれど」


 ローザはちょっと酸っぱい匂いが立ち込めていたあの液体を平然と何杯も呑み込んでいた諸星の姿を思い浮かべた。


「なんだか全然美味しそうじゃなかった……」


「本当に呑ん兵衛なんですね」


 啓太が味噌汁をテーブルに置きながらそう呟くように言うと、菊乃さんが盛大に溜息を洩らした。


「身体に悪いからやめなさいって忠告しても聞きやしないんですよ。毎日あんなに呑んでちゃ長くもたないでしょうに……」


「なんでそんなにお酒が好きなんですかね」


「さぁ?」


「釈迦に説法というやつですね」


「そういえばデビュー作のタイトルも“バッカス”だったわ」


「バッカス?」


「ギリシャだかのお酒の神様だよ」


「デビューしたのって確か高校生のときって言ってませんでしたか?」


「そうだよ。ちょうどローザと同い年くらい」


「私と?」


「うん。新人賞で大賞貰って漫画家になる為に九州からはるばる上京してきたんだって」


 ローザは今日に至るまでのいきさつを思い出し、自分と諸星の境遇が少し似ていると思った。


 だが、自分は仕送りもあるし、入学金や授業料も親が払ってくれる。漫画家になる為の上京ともなると、果たして家族からの援助はどれくらい期待していいものなのだろうか。


「そんなに遠くから、私と同じ十代で上京なんてきっと大変でしたよね……」


「いやいや、それだけだったら普通でしょ」


 蓮はほくほくの肉じゃがの芋をもごもごと頬張りつつ、


「先生の家、そもそも母子家庭だったらしいから仕送りないし、働くアテもなかったって聞いたよ」


「そうそう。初めて会ったとき、彼本当に何も持ってこなかったの。後にも先にもあんなに驚いたのはあの時だけね」


「えっ!? ……あ、あの、先生の作品は今は売れて、お金は大丈夫なんですよね?」


 この言葉に蓮は何も答えずに顔色を曇らせた。


「正直なことを言えば、先生の作品はあまり売れておりません」


 黙り込んでしまった蓮に代わり口を開いたのは啓太だった。


「デビュー当時は天才と持て囃されておりましたが、奇抜な作風がなかなか大勢のファンには受け入れられず長い間ずっと一部の人の間でしか知られていないマイナーな作家という地位に甘んじてきました。でも最近になってようやくジャンクで長期連載をするチャンスを得たのです。でも、やはり連載が始まった当初からアンケートの結果は芳しくなく、このままだとあと三週間ほどで打ち切りになる可能性が高いです」


「でも、蓮さんはファンなんですよね? ちゃんと先生の作品には読者から受け入れてもらえる魅力が詰まっているのではないですか?」


「確かにあたしは先生の作品のファンだよ……でも、正直言うとあの独特すぎる作風が全部好きかといわれるとぉ……」


「独特すぎる作風?」


「うん。あたしが諸星あたれ作品の一番好きなところはつまるところ画なんだ」


「……それが、独特なんですか?」


「いや、それはむしろウケてると思う。先生の漫画はバンドデシネとかグラフィックノベルみたいな緻密な描き込みの背景をバックにどこか耽美な美少女が所狭しに駆け回る絵面がとにかく新鮮なの。だけど……」


「だけど?」


「いやぁ……正直なところを言うとさ、荒唐無稽で投げやりなストーリーとか理解しにくいナンセンスギャグとか元ネタのよく分からないパロディーネタが多すぎてお話は面白いとは思っていないんだよね」


 ファンの口から飛び出た意外な告白に、ローザは目を丸くした。


「……それじゃ、私のように絵画のことが分からない普通の人は余計に先生の漫画を楽しめないではないですか?」


「うん。そうだね。だから、先生って十年漫画家やってて今まで一度も増刷されたことがないんだ。今回ジャンクで連載をとれたのは奇跡のようなものなの」


 ローザは呆然として、思わず箸を置いた。


「私、とんでもないことをしてしまった……長く苦労をなさっている人の大切なものを台無しにしてしまった」


「ローザだけが傷つかないでよ。ちゃんと見張っておけなかったあたしも悪いんだから」


「そうですよ。それに、しっかりとお二人とも謝って、修正を手伝うことで許してもらったのでしょう? それならちゃんと最後までその仕事をやり遂げれば問題ないです」


「でも、それはこのシェアハウスの理念に反することですよね」


「そんなことはありません。それぞれ皆が持っている“大切なもの”はそう簡単に他人が触れられるものじゃないはずです」


 菊乃さんの言葉にローザは首を傾げた。


「触れられるものじゃない? それじゃ、諸星先生の大切なものはあの原稿ではないのですか?」


 ローザの質問に、菊乃さんは答えなかった。ただ、お出汁の効いた豆腐の味噌汁を啜る口元が少し微笑んでいた。


  ☆


 全ての原稿の修正が終わったときにはすでに深夜の二時を超えていた。


「二人とも遅くまでご苦労さん」


 ろくに返事も出来ず畳の上でぐでっとなっている二人を見つめ、諸星は人知れず微笑を浮かべた。


「あの、先生……」


 ローザは生まれて初めての元旦以外の夜更かしで目をうとうとさせながらも、どうにか重たい身体を持ち上げた。


 そして、諸星先生と向き合って改めて頭を下げた。


「この度は私の躾が至らぬ所為で先生にご迷惑をお掛けしてしまい大変申し訳ありませんでした」


 諸星はしばし彼女のつむじのあたりを見つめると、


「うん。分かったよ」


 と、言った。


「あの、それと……」


「なに?」


 ローザは少しもぞもぞすると、ちょっと気まずそうに上目遣いになりながら諸星の顔を見上げた。


「その、せめてもの謝罪の気持ちを込めましてぜひ先生の作品を――」


「あ、そういうのはいいよ」


 あっさりと言葉を遮られてしまったローザは唖然とした。


「……あの、でもせめてもの足しになればと思いまして」


「おいおい、何の足しだよ。俺は別に何も困っちゃいないぞ」


 言葉を詰まらせたローザは咄嗟に蓮の方を向いた。しかし、頼りにしたかった彼女はすやすやと寝息を立てて寝てしまっていた。


 仕方なく、ローザは思ったことを正直に彼に伝えることにした。


「実は少し先生の事情について小耳に挟んでしまいました。先生の漫画、人気が出ないと打ち切りになってしまうって……」


「そりゃ、漫画はどれもそうだよ」


「でも、ずっと人気が出てないって聞きました」


「まぁね……」


「でも、先生の漫画を間近で拝見させて頂いて思いました。先生は本当に漫画を楽しんでいらっしゃると。それなのに、続けられなくなってしまったら先生はどうなるのでしょう」


 不躾な質問だという自覚はローザにもあった。しかし、どうしても思いの丈が溢れて仕方がない。


「あのね、ローザさん。そういう心配はいらないよ」


「無理です。たとえお節介と言われようとも心配です」


 諸星は思わず失笑を漏らした。


「いやいや、思っていたよりも献身家なんだね君は」


「そうじゃありません。私はこのシェアハウスのルールに則っているだけです」


 その言葉に、諸星は少し遠い風景を眺めるようにして目をすぼめた。


「あぁ、『シェアハウスの住人それぞれの大切なものを同じように大切にする』だったっけか」


「そうです。だから私も先生の大切なものを同じように大切にできたらと思ったのです」


 諸星はちょっと困ったように坊主頭にかりかりと爪を立てて掻いた。


「なるほど、筋は通るな……だけど、俺の漫画を買って読んだところで俺の大切なものは共有出来ないと思うな」


 諸星のその答えに、ローザは困惑した。


「え、でも先生の大切なものってご自分の漫画じゃないんですか」


「うーん……なんつうか、そうだけど。でも、そうじゃない」


 ローザはついに言葉を失い、困惑したままの表情で諸星を見つめた。


 てっきり長年保ってきた独特な表現とそれを体現する自分の漫画作品こそが先生の大切なものなのだと思ったのだ。しかし、それを否定とも肯定とも取れないあやふやな答えで返されてしまった。


「おいおい、そんな宇宙人を見るような目で俺を見なくてもいいじゃないか」


「あっ……すみません」


「まぁ、もう少し分かりやすく言えば、そこにある原稿も過去の作品も俺にとってはまだ途中なんだよ。本当に俺が作りたいと思う作品には届いてないんだ」


 諸星は訥々と語った。


 正直、原稿がラサラの悪戯で台無しにされてしまったとき、心の中に殆ど怒りは湧いてこなかった。


 多分、未完成の作品に俺は思い入れがないんだと思う。というよりも、思いを入れられない。もうそこに俺の理想はないと知っているから。


 だから、俺の大切なものはきっと未来か……来世にあるんだと思う。


「……だから、ラサラ君をあんまり叱らないでやってくれよ。まだ子供なんだし、たとえ大人でも間違いや失敗をするのが当たり前なんだからさ」


「いえ、しっかりと躾をします。それが飼い主の責任ですから」


「そうかな? 別にいいんじゃないか、そんなに過保護にならなくても」


「いえ! そういうわけにはいきませんよ。しっかりと躾ないとまた住人の方にご迷惑をお掛けしてしまうかもしれないじゃないですか」


「迷惑、ねぇ……」


 諸星はちょっとだけ皮肉そうな笑みを浮かべた。


「だけど、君は家を出たんだろ」


 ローザははっとして口に手を当てた。


「君のご家庭のことは知らないけれど、君だって親元を離れてここへ来たんだ。ラサラ君だってきっと君と同じだよ。それでも君は彼に躾をするのかい?」


 ローザの脳裏に受験勉強に明け暮れていたころの記憶がふっと蘇った。


 どんなに苦しくても辛くても頑張って机の前に座っていられたのは、どうしても上京したいという強い思いがあったからだ。それがなければ、きっとここには辿り着けていなかっただろう。


 やはり菊乃さんの言う通りなのかもしれない。


 この場所をローザが選んだのは、きっとここに住むだけの理由が自分の中にちゃんとあったからだ。


「それにラサラだって立派なこのシェアハウスの住人だ。だったら、彼の意志も尊重しないとならないんじゃないかな」


「でも、それじゃあ、上手く暮らしていけないじゃないですか。放し飼いにして、悪戯したい放題にさせていたら皆が嫌な思いをしますよね?」


「そうだね」


「どうしたらいいんでしょう、私……これじゃ、ラサラ君を躾けることも何も出来ない」


「そいつは難しい問題だな。まさにジレンマだ」


 その言葉が少し他人事のように聴こえて、ローザは顔を顰めて溜息を吐いた。


「だけど、何も出来ないわけでもないんじゃないかな」


「……はい?」


 ローザが怪訝そうに諸星を見つめると、彼はおもむろに机の引き出しからガムテープを取り出した。


「そもそもだ。よく考えてみてほしいんだけど、ラサラ君はこの密室にどうやって侵入したんだろうね」


「え……」


「俺は買い出しに行くとき以外はドアを締めきっているし、窓は御覧の通りの有様だ。なのにラサラ君は俺に気付かれることなく部屋に侵入してみせた」


「確かに、一体どうやったのでしょう……」


「その答えは、あそこだよ」


 諸星は人差し指を伸ばして天井の角を指し示した。


 そこには今彼が手に持っているガムテープが執拗に何重も重ねて貼られている個所があった。


「あそこにほんの五センチくらいの隙間が空いてるんだよ。この建物は古い日本家屋のような造りだからきっとああいう隙間がどの部屋にもあるんだと思う」


 猫は恐ろしく身体の柔らかい動物だ。僅かな隙間さえあれば、人間の創造よりもあっさり簡単に通り抜けることができてしまう。


「こうやって地道に対処すれば、ラサラ君の冒険に巻き込まれることもなくなるさ」


「でも……それじゃ結局ご迷惑なままですよ」


「仕方ないよ。猫に人間の都合を言ったところで通じないんだから。でも、だからと言って相手を過度に拒絶したり無理に矯正しようとしたりするんじゃ何の解決にもならないでしょ」


「それは、そうかもしれませんけど……」


「他者ってのは台風みたいなもんだよ、ローザさん。別に悪気があるわけじゃないのに関わると支障が出ることがある。そういうときは戸口を羽目殺しにしてでもあえて関わらないようにする。そういう落としどころも世の中には沢山あるんだよ」


 そして、諸星は最後にこう言った。


「もしかしたら、俺はずっとそういうやり方で自分の大切なものを守っているのかもしれないな」


 眠りに落ちていた蓮を無理やり起こして、諸星の部屋を後にしたローザは、しかし結局眠りにつくことが出来なかった。


 彼の考え方はどこか寂しいと感じる。だけど、それを語っているときの彼の表情はどこか幸せそうに見えた。


 一体何が正しくて何が正しくないのか。


 大切なものとは、つまるところ一体なんなのだろう。


 諸星あたれはまだそれを手に入れていないという。それは未来にあるから、と。


 だけど、今日見た彼の姿は、すでにそれを手中に収めているようにローザには思えてならなかった。


 

  ☆

 


 ふと目を覚ますと、天井が夕焼けの色に染まっていた。


 どうやら結局眠りに落ちていたらしい。


 時計を見ると、すでに五時を回っていた。


「日曜日をすっかり台無しにしちゃったな……」


 何となく呟いたとき、誰かがドアをノックする音がした。


「ローザ起きてる?」


 その声は蓮のものだった。


「うん。今起きたところだよ」


「ちょっと開けるけどいい?」


「うん。いいよ」


 がらっと音を鳴らして障子戸が開くと、血相を変えた蓮がこちらを見据えていた。


「どうしたの?」


「あのさ、ローザ。落ち着いて聞いてね」


「うん?」


「今、下に……ローザのお父さんが来てるんだ」

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