第3話 「二つの流れ星」(第3筆者:松本憲太)

 ローザの部屋には薄ぼけた朝日が差し込んでいた。カーテンの隙間から鋭角な光がローザの顔を照らして目覚めされてくれた。窓を開けると隣のアパートが目の前にあったが風はありローザの頬をさすった。東京の空気は澱んでいると聞いていた。確かに地元の空気に比べると人工的な何かが鼻腔内にへばりつく感覚はあるがそれでも案外気持ちがよい。ローザにかかると、どんな環境も前向きに幸せにしてしまう。「あの家と比べると」という思いがあるのかもしれない。

 ローザはベッドの端に座ると昨日のことを思い出した。

 昨日は今までの人生の中で一番長く一人で移動した日。一番多く人と出会った日。疲れと緊張と興奮と情報量の多さを脳が処理できずにパンクしてしまった。あのように気を失った体験も初めてで菊乃や蓮に大迷惑をかけてしまったと思った。

昨日のことを考えながらこんなに陽が高くなるまで眠ったのはいつ以来だろうかと思う。一晩寝たことで疲労感が嘘のように回復した。実家では毎朝、日が昇る前に起きて母の畑の手伝いをしていた。自分がいなくなった家では母や妹たちが大変な思いをしているのだろうと思い心配になるが、その反面、重荷から解かれた自由が嬉しくもある。

 隣の蓮の部屋の様子を襖越しに伺うが物音一つせず不在のようだ。蓮が在室していたらこの静けさはない。蓮とは昨夜だけ短時間の付き合いだがはっきりとそう確信できる。金髪ソフトモヒカン頭の蓮に「ローザタバコは」と聞かれた時には不良生徒に急に話しかけられた時のようなドキドキ感があったが、話してみると親切で面倒見がよく菊乃さんとは違った優しさを持っていることを感じた。『対等な関係のお姉さん』そんな矛盾した印象を持った。昨夜ゆっくり眠れて疲労が回復したのも温かく迎え入れてくれた菊乃さんの手料理と蓮の気遣いだと思う。

蓮は大学授業で出かけたのだろうか。それとも友人との約束やアルバイトかもしれない。蓮の生活リズムはわからないがローザ自身も大切な花以外での学校生活、アルバイト先も見つけなければいかない。とにかく東京の生活に早くなじむ必要がある。

 大切な花の理念のこともあり、これからのことを考えると気が重くなってしまう。

『私みたいな田舎者が東京でやっていけるのだろうか』そんなことを考えて新生活に不安を感じながら朝の身支度を済ませて実家からの荷物を整理していたらすぐに昼過ぎになってしまった。

その瞬間だった。

 ぎゅるるるるるるるる、と昨日より確実に大きく長い音が部屋中に響き渡った。

 蓮が今いなくて本当に良かった。また恥ずかしい思いをするところだった。

 どんなに心配事や不安を感じているときでも活発な自分の胃腸に自分であきれてしまう。

 夕食はでると聞いていたが昼食はどうなんだろう?

 とにかくこの胃腸の大問題を菊乃に相談する必要がある。そう思い一階の食堂に向かった。

 ローザが階段を下り食堂に入るとテーブルの上に置かれた、おにぎり二つとお隣にはワカメとネギのお味噌汁がお椀によそってあるのが目に飛びこんだ。

『ローザさんへ簡単ですがこれを食べて元気をだしてね。私は町内会の用事で出かけます。15時頃には帰りますので夕食もしっかり作ります。安心してね。』と品の良いやわらかい達筆でメモが添えられていた。

 菊乃さんは昨夜のローザの食べっぷりからこの大問題を想定済みだった。その周到さと優しさにローザは感謝した。

 おにぎりを頬張りながら、゛清貧の思想゛を重んじる星野家で貧しく厳しいながらも、限られた食材で常においしい食べ物をとローザや他の姉妹たちに一生懸命料理を作ってくれた優しい母のことを思い出し上京二日目にして早くもローザはホームシックに掛かってしまった。

 おにぎりの中身は『梅干しとおかか』だった。お味噌汁だしの風味が強い。鰹節を削って作っているようだ。胃腸も心も満たしてくれる遅い朝食を取ると昨夜の蓮の梅ちゃんとの会話を思い出した。


「まずは梅ちゃんあたりがハードル低いよ」

「梅太郎。サバトラのオス。好物はマグロの刺し身」


 その後、蓮に聞いたところによるといつも梅太郎は縁側にいるようだ。食堂を出て縁側をそっと覗くと縁側にいる丸い毛玉がそこにいた。

 梅太郎はここに得意げな香箱座りで陣取りシルバーグレーとブラックの毛色を春日の陽に光らせていた。

梅太郎の視線の先の庭にはセミバヤの茎がそれぞれ競い合うように旺盛に新芽を出している。菊乃の趣味であろうか循環式の竹の噴水が流れており涼しげな水音もしている。噴水の水たまりには求愛の歌の練習に疲れた鶯が休憩にきていた。

 都会の一角のオアシスのような庭だった。

 心地よい日を浴びて細めた目をした梅太郎の見ると住民全員が声を掛けずにはいられなくなるだろう。蓮の話によると、どんな言葉を掛けられても梅太郎は声を発さず口の動きだけで「ニャーオ」と鳴くとのことだった。その聞こえぬ鳴き声は甘えと安心と「調子はどう」と呼び掛けているようで住民の声に元気がないときには、その住民の足元に来て周囲を二周回りながら体を優しく擦り付けて元気づけてくれるそうだ。そうされると住民の誰もが心地よく安心した気持ちになる。梅太郎には人間の気持ちを癒してくれる不思議な能力があり近所の猫の取りまとめもしており近隣の飼い猫や野良猫が梅太郎の元に集い夜な夜な集会も開いているそうで蓮によると「人望とニャン望を兼ね備えていた猫」だと、愉快に話してくれた。「だから、梅太郎から仲良くなるのがいいよ」と自信たっぷりに言われた。

 実家ではペットを飼う余裕はなくこれまで動物と身近に接したことはなかったが蓮の話から梅太郎と是非仲良くなりたかった。

「梅太郎さん」脅かさないように小さな声で話しかけたが聞こえただろうか。

 梅太郎はゆっくりローザの方を向き蓮から教えてもらった声の無い「ニャーオ」を発してくれて、そのままお腹を差し出すように仰向けになった。

『かわいい』蓮は一瞬で梅太郎に魅了されて取り込まれた。

 猫をこんなに身近に感じるのは初めてだったので一瞬とまどったが差し出されたお腹の可愛らしさに思わず手が出てゆっくり撫でようとした時だった。

【バチンバチンバチン】

 梅太郎の右手から繰り出されるパンチを三発喰らった。痛みもなく爪も引っかからなかったが猫パンチを喰らったのが初めてだったので思わずローザは仰け反った。


「ご、ごめんなさい」


 ローザと仰け反りながら即座に謝ると梅太郎は、今度ははっきりと「ナーオ」と鳴いた。

(腹を見せてはやるが触っていいとは言っていない)ローザはそう言われているようで自分のうかつな行動を反省した、があんなに愛らしくお腹を見せられて触るなとは理不尽すぎるとも思い少し納得がいかなかった。

梅太郎は、今度は「アーオ」と鳴いてローザにアゴを突き出した。

(これは触っていいのだろうか)梅太郎に試されている。


「梅さん触ってもよろしいですか」

 どうしてよいかわからず聞いてみるともう一度「アーオ」と鳴いた。

 こ、これは(早く撫でよ)と言われているのだろうか。

 蓮の「まずは梅ちゃんあたりがハードル低いよ」に完全に騙された。初めての猫とのコミュニケーションはハードルが高すぎる。ローザは猫の理不尽さに翻弄されている。

ローザが梅太郎のやわらかい喉を壊れてしまうのではないかと恐る恐る撫でるように摩るとゴロゴロと喜びの低音が鳴り響いた。

(カ、カワイイイイイイイイ)

 猫パンチ三発からのゴロゴロのギャップでローザは梅太郎に完全に飲み込まれた。

「梅さんここはどうですか?こちらは?こんなところはいかがでしょうか?」その後は梅太郎の体のあちこちを触りながら学ばせてもらった。

 その度に梅太郎は「アーオ」と【バチン】と「ゴロゴロ」で答えてくれる。ローザの15分ほどの検証の結果、顔・背中は良し、お腹・尻尾はダメのようだ。

「もう二度とお腹や尻尾は触りませんので、梅さんの今後とも私をよろしくお願いします」

 額を指先でコリコリすると「ニャーオ」と声にならない鳴き声を出す。その時だった。

「ローザさん、はじめまして」

 ローザのすぐ後ろ至近距離に男は座っており急に話しかけられたことで驚き、寸前で何とか喉元に悲鳴を押しとどめた。


「昨日からここに来たローザさんですよね」

 男は生真面目にローザに問いかけた。男に菊乃さんが事前にローザのことを説明してあったとのだろうが、知らない相手から自分の名前を急に呼ばれたことが気味悪かった。


「僕は佐内啓太と申します。このシェアハウスへは1年半ほど前から住んでいて近くのコンビニに早朝から昼まで働いています。今日も仕事をしてきました。ローザさんは学生さんですか」


 唐突な問いかけにローザはどうしてよいか困惑して沈黙していると佐内啓太と名乗る男は話を続けた。


「僕は勉強を頑張って大学に行き、その後は公務員として区役所へ勤めました。働き出して二年目のことでした。鎧武者が僕を監視するようになったんです。最初は通勤の時に物陰から見ているだけでした。そのうち色んなところに現れるようになって職場の片隅から僕を監視していました。じっと見られていると仕事も手につかなくなってしまい職場の上司にも相談しましたが『気のせいだろ』と変な目で見られて取り合ってもらえませんでした。気味悪がられていたと思います。丁度その時に母が亡くなったんです。母が亡くなったあとは鎧武者が以前より頻繁に色々な場所に現れました。ローザさんは鎧武者に見られたことはありますか。僕は初めてみたときには珍しくてじっと見返してしまいました。皆さんが思い描くような金小札色々威銅丸のように立派な鎧ではなく、陣笠姿の足軽のそれです。けど陣笠は被っていないんですよ。戦に敗れたのだと思います。五体は満足なのですが銅丸は片方の紐が切れていました」


 なんのことを話されているか混乱したままローザは圧倒されていた。蓮のマシンガントークとは別の静かだが歩みを止めないローギアの力強さがあり止めることはできずに話はさらに続いた。


「母は僕のことをずっと心配してくれていました。病院へ行こうとも言ってくれていましたが僕はそれを拒み続けていました。母は癌でしたので亡くなったことは唐突ではありませんでしたが、母が亡くなってから全てのことがそれまで以上に上手くいかなくなりました。鎧武者は外にいるときには、常に僕を監視しました。僕はそれからしばらくして外に出られなくなってしまったのです。当然仕事も辞めざるおえませんでした。父は何も言いませんでしたが1日2回食事を運んでくれました。父はもともと無口であまり親子の会話はありませんでした。

 梅太郎は僕が飼っている猫なんです。家から出られなかったときの僕の話し相手は梅太郎だけでした。梅太郎は僕の膝にいつもいてくれました。いつもいつもです。僕は怖くて外に行きたくなかったんですが梅太郎のカリカリを買わないといけないので月に1回は買い物にでかけました。父に申し訳ないようで頼めなかったんです。

 亡くなった母が猫が好きだったので小さいころから近所の猫や自宅で飼っている猫が10匹前後家にいました。野良猫の中にはしばらくすると姿が見えなくなる子もいたので正確な頭数は把握できませんでした。今みたいに地域猫の概念などない時代でしたが母は自分でお金の出せる範囲で猫たちの避妊や餌の算段をしていました。

 母が病気になってからは梅太郎以外の猫は母の猫つながりの友人に引き取られていきました。自宅にずっといるようになってから1年半くらいが経ったころだと後から聞きました。

『啓ちゃんこんにちは。おばちゃんのこと覚えている』と母の友人だった菊乃さんが僕を訪ねて来てくれたのです。最初は僕はなぜか怖くて少し返事をして部屋のドアを開けることができませんでした。でも週に1~2回は来てくれるようになって部屋のドアを開けて少しですが話せるようになりました。菊乃さんも父も心配していることがわかりました。菊乃さんが安心してお願いできる先生がいるから一緒に病院へ行こうと言ってくれました。これは後から聞いた話で実はその時のことはあまり覚えていないんです。僕は病院へ行き、それから入院をしました。入院をして薬を飲みながら治療を続けたら鎧武者はいなくなりました。今も薬を飲み続けていますが鎧武者はいません。退院と同時に菊乃さんの勧めでこのシャアハウス『大切な花』に来たんです。

 父が『自分ではどうすることもできない』と菊乃さんに相談したようです。今では月に一回は実家に顔を出しています。母の仏壇にお線香を上げにいきます。

 仕事もできるになりました。

 僕は大好きだった母と同じように僕を好きでいてくれる猫たちの力になりたいと思っています。菊乃さんは僕をこのシェアハウスに住まわせてくれました。僕にとっての菊乃さんを猫にとっての僕でありたいとも思っています。今は猫の餌をコンビニで稼いだお金で買うことができます」

 

 啓太の話を聞いているうちに太陽は少し傾いてきた。


「啓太君、初対面の人に自分のことを話すときには少しずつお話しないと相手が驚いてしまうから気を付けてと言ったでしょ」


 町内会の用事から菊乃さんが帰って来た。


「ローザちゃん。啓太君は自分のことを話すことで理解してほしいと思っているのよ。決して悪気があってのことではないからね。啓太君は地域猫のためにボランティア活動もしているのよ」


 菊乃が啓太をファローしていることが良くわかった。


「はい。啓太さんのこれまでのどんな人生の歩んできたのかよくわかりました。初対面の私に大事なことを教えてくださり、ありがとうございました。私もこちらの『大切な花』の理念『シェアハウスの住人それぞれの大切なものを、同じように大切にする』ことが守れるのかとても心配です。啓太さん何かありましたらご指導宜しくお願い致します」

「ローザさん大丈夫ですよ。梅太郎も大丈夫と言っています」


 梅太郎はいつの間にか啓太の膝の上に乗り丸まっていた。啓太と梅太郎二人のだけの空間がそこにあり通じ合っているようだった。


「ローザさんにご相談があるのですがよろしいでしょうか」

「な、なんでしょうか」出会って初日に人から相談されたことがないのでローザは身構えてしまった。

「ちょっとここで待っていてください」啓太は梅太郎を膝から降ろすと自室の方に向かった。


 5分ほど菊乃と雑談しながら待っていると啓太は段ボール箱を抱えながら戻ってきた。


「近所に公園があり、昨日この子たちがミィミィ鳴いているところを見つけたんです。この子たちの毛並みから親は僕のしっている子だと思うのですが最近見かけなくなりました。もしかしたら何か事故にでも巻き込まれたのかもしれません」


 段ボール箱の中を覗くとそこには白黒の毛並みの小さな毛玉が二つあった。片方は活発に片方は静かに過ごしている。


「親が見つかるまでになるかもしれませんがローザさんが面倒を見てくれませんか。まだ三時間おきにミルクをあげる必要があり仕事もあり大変なんです」


 啓太はローザに二匹を手渡した。梅太郎よりも毛は柔らかく羽毛のようにその体も軽く感じる。活発な子には背中に黒毛の中に星形の白毛、静かな子にはお腹に白毛の中に星形の黒毛があった。

 ローザは実家で過ごした最後の夜に祈りを捧げた大曲線獅子座と流れ星を思い出した。


「啓太さん、この子たちの名前は決まっていますか」

「昨日の今日なので、まだどうするか決めていないんです。ローザさん名付け親になってください」


 ローザの気持ちが啓太に通じたように名付け親を指名してもらえた。


「元気な男の子はラサラ、大人しい女の子はアルテというお名前はいかがでしょうか。私に慰めと希望を与えてくれた星たちにあやかったお名前です」


 ローザは大曲線獅子座を構成する1等星のレグルスや2等星のデネボラではなく、ひっそりと小さく輝くラサラスとアルテルフを選んだ。


「素敵な名前ですね。二匹もきっと喜びますよ。梅太郎はどう思う」

「アーオ」と梅太郎は、はっきりと鳴くとそれが決定の合図となった。


 ローザは小さな二匹の命を引き受けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る