第2話「最初の夜」(第2筆者:加藤冬夏)
第二話 最初の夜
加藤冬夏
夢を見ていた。
それが夢だと分かったのは、足の下に地面がなかったからだ。ローザは宙に浮いていた。まるで水の上を漂うように、身体がふわふわと頼りなげに揺れている。周囲には何もなく、ただ夜空が広がっているだけ。上も下も、右も左も、静かな夜の闇と宝石のような星々が継ぎ目もなく連綿と繋がっている。
ああ、外に出たんだ、とローザは思った。十八年間、息を殺すようにして暮らしてきた世界からついに飛び出した。だからきっと、ここは天窓の向こうの世界。
意外にも、期待していたほどの歓喜はなかった。いや、まったくなかったと言ったらそれも嘘になる。喜びは確かにあった。しかし、それと同等か、それ以上の存在感を持つ何かがローザの胸を重苦しくさせていた。
ローザは宙をただよったまま胸に手を当てた。
ざわざわと胸の奥を焦がされるような、今すぐ声を上げたくなるような、息を止めてしまいたくなるような、不快な感覚。
これは不安だ。ローザは思う。そして同時に納得する。
不安になって当然だ。確かに目の前の光景はきれいだ。宝石箱みたいだ。だけどここには何もない。家族もいない。友達もいない。立つための地面すら見当たらない。
どうしたらいいんだろう?
無意識に、ローザは唇に力を込めた。そうでもしないと、うっかり涙を流してしまいそうだったからだ。泣いたとて誰が咎めるわけでもなかったが、それでも我慢したのはローザなりの矜持だった。
まだ何もしていない、とローザは思った。天窓の外の世界にようやく来れたというのに、来て早々めそめそと泣くだけなんて、何のために家を出たのか分からない。脳裏に黄色いリボンを巻いた屋形船弁当の姿が蘇った。ボソボソのクッキー、カタカナの手紙、何か言いたげな妹たちの目、父の横顔、弥助さんの顔に刻まれた深い皺……。
泣くくらいなら、あのままあそこにいればよかったんだ。何一つ捨てることなく、一生天窓を見上げて過ごしていたらよかった。
ローザは静かに深呼吸した。心を落ち着かせて、自分を取り囲む夜空に目を凝らす。
何もない、はずはない。『何か』はあるはず。道しるべになるような何かが、かならず……。
その瞬間、視界の隅で何かが光った。ローザがそちらに視線をやると、ひとつの星がすごいスピードでローザに近づいてくる。
流れ星だ。ローザは瞬時に理解した。これまでの人生で見てきた、他人事のように遠くを流れる星じゃない。一直線にこっちに向かってくる、弾丸のような星。
流れ星に当たったらどうなっちゃうんだろう? 変にのんびりとローザは考える。考えている間にも、その星はどんどん距離を詰めてくる。うすく黄味がかった、白い光が視界を埋め尽くす。
眩しい。熱い。何も見えない。何も聞こえない。
ローザは咄嗟に目を閉じる。
ぶつかる!
☆
「あ、目え覚めた?」
目覚めて最初にローザの視界に入ってきたのは、キラキラとした光だった。真っ白というより、わずかに黄色がかった優しい光。金色の繊細な輝き。それが、視界の中心で瞬いている。
「ながれぼし……」
「流れ星?」
はっとしてローザは起き上がった。急な動きに、ローザの顔を覗き込んでいた人物がわずかに身をのけぞらせる。
「あっ、すみません……」
「急に動くとまた倒れるよ~?」
「倒れる……?」
「覚えてない? うちの玄関まで来てぶっ倒れたの」
玄関? 倒れた? まだ頭が覚醒しきっていないのか、自分の置かれている状況がなかなか理解できない。ローザはゆっくりとあたりを見渡してみる。
畳の部屋だ。広さは六畳ほどだろうか。茶色い板張りの天井から垂れた電燈は、紐を引っ張ってつけたり消したりする昔ながらのもの……すなわち、ローザの実家と同じタイプのもの。畳の部屋だというのになぜかベッドが置いてあり、ローザはそこに横になっている。足側には障子戸があり、どうやら廊下に繋がっているらしい。障子戸の横の面は一面襖で仕切られている。構造から察するにその向こうの部屋もこちらと同じ六畳ほどの和室なのだろうが、わずかに開いた襖の隙間から見える向こう側は……なんといえばいいのやら、ローザにとっては異世界と言ってもいいほどサイケデリックな色合いで溢れていた。
一旦隣の部屋は見なかったことにして、ローザはベッドの横にいる人物に視線を移す。
金色だ。まずそう思った。横にいる彼女の髪は男性のように短く、サイドは刈り上げになっていて、わずかに長い中央の毛だけが軽くうねって立ち上がっている。寝起きに流れ星だと錯覚したのは、彼女のキラキラと輝くトサカのような金髪だったのだ。
「私、今日シェアハウスに引っ越す予定で……」
「知ってる。んで、それがこのシェアハウス『大切な花』。ここは二階で、ローザが使う予定の部屋。あんたは玄関で片瀬さんの顔を見るなりぶっ倒れて床でグースカ寝始めた。仕方ないから入居予定の部屋までかついで上がってそのまま寝かせて今、ってかんじ」
「……すみません、ご迷惑をおかけして」
「いいよ別に。疲れてたんでしょ。お隣のよしみ。困ったときはお互い様、ね?」
「お隣?」
ローザの問いに、トサカの彼女は親指だけで襖の方を示してみせる。つまり彼女はローザの隣人であり、つまりあのサイケデリックカラーな部屋の主ということらしい。
「普段はあそこ閉じてるから安心して。あとたまに変な匂いしたらゴメン。油絵具ってクッサいから」
訳も分からないままローザは頷く。あぶらえのぐ。絵を描くということだろうか?
「ローザ煙草は?」
「え?」
「たばこ。吸う? 吸うなら一階下りて外ね。室内禁煙」
「……吸わないです。未成年なので」
「ふふ」
トサカの彼女はなぜかそこで笑った。ローザには何がおもしろいのかさっぱり分からなかったが。
「荷物はそこ。見かけによらずクソ重いね、そのリュック。そんなの担いでたら倒れるよ」
「あっ、ありがとうご……」
「トイレは廊下出て右。一階にもあるけど男女共用ね。二階は女性専用だから。お風呂は一階にあるけどクソぼろいからたまには銭湯に行くのおススメ。根性坂上る方向に徒歩一分に松野湯。スーパーは駅前が一番近い。コンビニは銭湯からちょっと行ったとこにあるけど、夜中の12時から朝6時までは閉店してるから注意ね」
夜やってないコンビニってウケるよねー、とトサカの彼女がまた屈託なく笑う。ローザはやっぱり訳も分からず頷く。
「そんなとこかな。何か質問は?」
「あの、どうして私の名前……」
「あー、ゴメンゴメン。菊乃さんから聞いてたから」
分かった、とローザはそこでようやく理解した。彼女の言っていることがよく分からないのは、内容のせいというより話のテンポのせいだ。
トサカの彼女の話し方は、まるでマシンガンだ。口を挟む間もなく次々と弾丸が飛び出してくる。言葉の繰り出されるスピードもさることながら、話の移り変わりも早い。頭の回転もきっと速いのだろう。
こんな喋り方をする人は、ローザのふるさとにはいなかった。どんなにお喋り好きと言われるおばさんでも、ここまでせわしげではなかったはずだ。
これが東京。ローザは思わず生唾を飲みこんだ。このテンポについていかなくては……。そう内心で健気に決意した。
「いくつ?」
「えっ?」
決意した……ものの、さっそく第一歩目でトサカの彼女の話題についていけずに聞き返してしまう。
「歳。ローザいくつ?」
「十八です」
「やっぱそうだよねー! あたし十九。ほぼタメじゃん? 敬語使わなくていいよ。呼び捨てでいいし」
「呼び捨て、と言われても……」
「あー! 名前言ってなかった! あたし佐々木蓮ね。蓮根のレン」
「蓮さん」
「蓮でいいってば」
トサカの彼女改め蓮の姿を、ローザは改めて観察する。
トサカのような金髪に、耳についたたくさんのピアス。すらりと伸びた白い腕。線の細さに不釣り合いなだぼだぼの黒いTシャツと、ダメージの入ったこれまたオーバーサイズのジーンズ。あちこちがカラフルなしぶきで汚れているのは、さっきの話から察するに彼女が絵を描く人間だからだろう。
卒倒しちゃうかもしれないな。ぼんやりとローザは思う。もしも蓮のような人間が地元にいたとしたら、老人クラブの皆様は全員泡を吹いて倒れてしまうかもしれない。……それは言い過ぎとしても、理解できない生き物を見るような、取り扱いに困ったような、苦い顔はするだろう。村のおばさんたちは蓮のいないところで眉をひそめて噂をするだろうし、学校でも同級生たちから遠巻きにされる。
幼いころ、その目立つ名前故にローザがされたように。
ちょうどそんなことを考えていたから、次に蓮が口にした言葉に、ローザは内心すくみあがった。
「ねえ、ローザの名前ってさあ……」
その瞬間だった。
ぎゅるるるるるる、と恐竜の鳴き声のような音が響き渡った。
ぎゅるる、の時点でローザはそれが自分の腹による決死の訴えであることを理解したが、理解したところで止められるものでもない。ローザと蓮は顔を見合わせたまま、るるるる……と断末魔の悲鳴のごとく徐々に小さくなる腹の音をしっかり聞き届けた。それこそ、部屋の中が完全に静寂に包まれるまで。
先に沈黙をやぶったのは蓮だった。
「……ふふっ」
「すみません!!」
「いいよ別に。そりゃ腹減るよね。下いこ。菊乃さんも待ってるし」
そう言って立ち上がった蓮は、背丈もほとんどローザと同じだった。こっちこっち、と先導する蓮の後を追いながら、しかしローザは、その背中が自分よりもずっと大きなもののように感じていた。
何かが違う。ローザはほとんど直感的にそう思っていた。蓮とはほんの数分話しただけだが、それだけでも十分すぎるほど分かった。歳がひとつ上だから、なんて理由では片付かない。もっと根本的な違い。ローザが持っていないもの。そして、ふるさとにいた他の誰も持っていなかったもの。『しっかりしている』? 『世間を知っている』? ……そうだけど、そうじゃない。『強さ』や『自信』のような言葉で説明されるもの。でもそういうものより、もっと屈託がなくて明るく、押しつけがましくないもの。思わず目で追ってしまうような、天然自然の魅力みたいなもの。例えるなら――……。
狭い階段を降りる蓮の頭を見下ろしながら、ローザは考える。視界の真ん中で、金色のこぶりな頭が揺れる。そうか、とローザは思う。
例えるなら、星の輝きのようなもの。
☆
菊乃さん、という名前が何度か蓮の口から出ていた。
ローザは最初誰のことか分かっておらず、かといって蓮のマシンガンのような話しぶりを止めて質問することもできなかったので分からないまま放置していたのだが、最後の『菊乃さんも待ってるし』という一言でようやく記憶の中の存在と結びついた。
上京するにあたり、ローザは住む場所も自分で探していた。設備へのこだわりはまったくなく、大学への交通の便さえよければあとはとにかく安いところがよかった。そこで見つけたのがこのシェアハウス『大切な花』で、おっかなびっくり電話をかけてみると、大家だというおばあさんは、穏やかな口調で丁寧にいろいろなことを教えてくれた。シェアハウス、という形態がどういうものなのかを知ったのもそのときだ。
その後、ローザは一般的な不動産会社にも連絡して話を聞いたが、結局最初に電話をかけたシェアハウスに入居することに決めた。通常の一人暮らし用の部屋より大幅に家賃が安かったのも理由のひとつではあるが、何よりも大家のおばあさんの穏やかな口調に好感を持ったからだった。その人が管理している場所でなら、初めての東京、初めての一人暮らしでもやっていける気がした。逆に言えば、そこ以外に住んだらくじけてしまいそうな気がした。
大家のおばあさんの名前は、片瀬菊乃という。
「ああよかった。大分顔色がよくなりましたねぇ」
ダイニングのテーブルで本を開いていた菊乃さんは、ローザの顔を見るなりそう言った。
テーブルは八人が座れるような大きなもので、横にはこれまた大きな食器棚、奥にはコンロや流しが見える。しゃれた言い方をすればダイニングキッチン、というのだろうが、キッチンというよりは台所と言った方が正しい印象だ。
「すみません、着いて早々ご迷惑をおかけして……」
「いいんですよ。到着して気が抜けちゃったんでしょう」
初めて見る菊乃さんは、電話口の声の印象の通り上品な人だった。
左右に流したグレーの髪はきちんと整えられており、落ち着いた緑色のカーディガンを羽織った背中は年齢を感じさせないほどしゃんと伸びている。老眼鏡だろうか、ノンフレームの眼鏡から覗く目はつぶらで、そこだけいたずら好きの子どものような若々しさを感じさせる。
「菊乃さん、お腹すいた」
入口で立ち止まったローザをよそに、蓮は早速冷蔵庫からお茶を取り出してひとりで飲み始めている。
「ちゃんとふたりの分はとってありますよ」
「今日のご飯なに?」
「豚の生姜焼きです」
いいでしょう、と言わんばかりの菊乃さんの声に、ヤッター、と蓮が無邪気に喜ぶ。
コンロに向かう菊乃さんと、慣れた様子で冷蔵庫から小さなタッパーをいくつかとりだす蓮を前にして、ローザは途方にくれた。挨拶もろくにしてないのにどうやら夕ご飯を食べる流れらしい。蓮はともかく、自分まで食べてしまっていいのだろうか? 確か、シェアハウスの住人は希望すれば夕食だけは用意してもらえるという話だったが……。
そんな内心の戸惑いと裏腹に、ローザの身体は実に正直だった。
次の瞬間、ぎゅるるるる、と、先刻聞いたばかりの恐竜の断末魔が再び響き渡ったのだ。
「あらあら」
「ふふっ」
ローザは顔を真っ赤にしながら、「スープよそって」と蓮から押し付けられたお椀を素直に受け取った。
果たして、三人だけの食卓は和やかに終わった。三人と言っても、菊乃さんはすでにほかの入居者と夕食をとっていたらしく、ローザと蓮が食べるのをお茶を飲みつつ眺めているだけだったが。
食べながらだと集中できないだろうから、と、入居の説明などは食後にすることになり、食事中は当り障りのない話題に終始した。例えばローザの故郷の話や、東京までの道のりの話。携帯が使いこなせないから紙の地図を頼りにここまで来た、と言うと、蓮は信じられないという顔をして「逆に紙の地図が読めない」と言い出し、ローザは大いに困惑した。後日、お互いに教え合うという約束をしたが、蓮が当たり前のように言ってきたその約束が、ローザにはとてもくすぐったく思えた。
「さて、入居にあたっての説明ですが」
温かいお茶の入った湯呑を前に、ローザは居住まいを正す。流しでは蓮が二人分の食器を洗っている。「初回サービス」とのことで、今回は蓮が洗ってくれているが、基本は自分が使ったものは自分で洗うというシステムなのだそうだ。
「もうあんまり話すこともないんですよねえ」
菊乃さんは頬に片手をあて、悩まし気に首を傾げる。ローザは拍子抜けしたような気持ちになった。
「蓮さんがもう大方説明してくれたみたいですし」
ローザは頷く。蓮が説明した、というのは、二階でマシンガンの如く浴びせられた諸々の情報のことを言っているのだろう。
「書類は事前に送ってもらいましたし、お部屋ももう知っているでしょう? 蓮さんとも顔合わせがすんでいて、トイレとお風呂の話もした……。煙草の話も聞きましたよね?」
ローザは頷く。煙草に関しては関係がなかったが。
すると、洗い物をしていた蓮がふいに振り向いて言った。
「夕飯の話は?」
「ああ、そうでした。電話でもお話したと思いますが、希望する方に夕食をお出ししています。いらない日は前日までにあそこのカレンダーにバツをつけてくださいね。月末に食べた分だけ請求しますので」
欲しい日にマルをつけるのではなく、いらない日にバツをつける形だ。ということは、基本食べる人が多いのだろう。
「菊乃さんの料理おいしいし、栄養バランスも考えてくれるし、量多いからコスパいいよ。夜めいっぱい食べたら朝と昼抜いても大丈夫だし」
「大丈夫じゃありませんよ。ちゃんと三食食べましょうね」
「はーい」
全然響いてない返事だ。同じように感じたのか、菊乃さんも呆れた顔でため息をついた。まるで本当の親子のようだな、とローザは思う。
「あとは……分からないことがあれば都度聞いてください。私は大体いつも家のどこかにはいますから」
「あたしに聞いてくれてもいいし」
ローザはまた頷いた。
「何か質問はありますか?」
「あの……『シェアハウスの理念に従えない場合は退去をお願いする場合がある』、というのは、よくあることなんでしょうか?」
菊乃さんは不思議そうな顔をする。
「事前に頂いた入居の手引きに書いてあったので。……私は、自分で言うのもなんですが、世間知らずだし、親元を離れることも、東京に住むことも初めてで……精一杯努力しようと思ってはおりますが、皆様にご迷惑をおかけしてしまうこともあるかもしれません。ですが、もしここを追い出されてしまったら、東京では金銭的に他の場所でやっていけるとも思えず……」
もしそうなったら、ローザが選ぶ道は一つしかない。学校を休むなりやめるなりして、地元に戻る、ということだ。
最終的には戻ってもいい。大学を卒業した後のことは、具体的には話していないが両親ともに帰ってきて欲しそうにしていた。それはそれでいい。しかし、覚悟して地元を出たからには少なくとも卒業までは立派にひとりでやり遂げたい。それが、送り出してくれた家族に報いるということでもある。
「大丈夫ですよ。あれは何かあったときの為に形式として書いているだけです。退去を勧告した方が過去にいないとはいいませんが、滅多にあることではありません」
菊乃さんの言葉に、ローザはほっと胸を撫でおろす。
「それに、他の方に迷惑をかけたら退去をお願いする、というものでもありません。……ローザさんは、このシェアハウスの理念を覚えていますか?」
「『シェアハウスの住人それぞれの大切なものを、同じように大切にする』」
「その通りです。ローザさんはとても真面目な方なんですね」
褒められて、ローザはこそばゆい気持ちになる。新生活への期待と、失礼があってはならないという緊張から、入居の手引きを何度も読み返していたために自然と覚えてしまったのだ。
「退去をお願いするのは、その理念にどうしてもそぐわないと思われる方です。知識や経験が不足しているために結果的に他の方に迷惑をかけてしまった人をとやかく言うことはありません。仮にローザさんが慣れない故にトラブルを起こしてしまっても、それはうまくサポートができなかった私の瑕疵であると考えます」
ローザは頷く。それもそれで菊乃さんに迷惑をかけるようで緊張するな、と思ったが黙っている。
「まあ、そうは言っても、ここには十八歳の女の子が何かしたところで怒るような人はいませんから安心してください。そもそもトラブルなんて起きないと思いますよ」
「そうそう。基本みんないい人だよ。変なヤツばっかりだけど」
再び蓮が振り向いて口を挟む。
「変な人ばっかりなんですか?」
「んー……元ヒキコモリのおっさんとか、常に追い詰められてる漫画家とか?」
「あとは、不健康な美大生とかもいますね」
健康だってば! と言いながら、蓮が乱暴に椅子を引いて座る。洗い物は終わったらしい。菊乃さんは「そうですかねぇ?」と言ってとぼけた顔をしている。
なるほど、蓮は美大生だったのだ。絵具がどうとか言っていたのも、奇抜で派手な髪型も、そう言われたらしっくりくる。
「他の方にご挨拶する場を改めて設けることはしません。暮らしているうちに自然と顔を合わせることになると思いますので、成り行きに任せてください。新しい人が入ってきたことはみなさんご存じですし、受け入れにも慣れていますから心配しなくても大丈夫ですよ」
ローザは素直に頷いたが、心配するなと言われると心配してしまうのが人間というものだ。
ローザの顔がわずかに曇ったことに気づいたのか、蓮が励ますように明るい声で言う。
「まずは梅ちゃんあたりがハードル低いよ」
「そうですねえ、梅さんはこの家の主みたいなものですからねえ」
「菊乃さんの他に、主がいらっしゃるんですか?」
それは大変だ、失礼にならないよう最初に挨拶に行かねば……などと考えていたローザの目の前に、ずい、とスマートフォンの画面が差し出される。
そこには、一匹の猫の画像が表示されていた。日向の縁側で香箱座りをしている。今しも眠りに落ちる寸前、といったとろけた表情。
「梅太郎。サバトラのオス。好物はマグロの刺し身」
「……猫、ですね?」
「猫ですね~。梅ちゃんに認められたらもう一人前よ」
蓮のもっともらしい言い方に菊乃さんが笑う。どうやら冗談の一種だったようだ。猫か、とローザは思う。確かに、仲良くなりたい存在ではある。
ひとしきり笑ったあと、菊乃さんがつぶらな瞳を細めてローザを見た。
「梅さんはもちろんですが、他の方にもハードルを感じる必要はありませんよ。確かに変わっていると感じることもあるかもしれませんが、ここの住人があなたの大切なものを害することは決してありません。それが形のあるものであっても、形のないものであってもです。……ここの理念は覚えていますね?」
ああそうか、とローザは思う。自然と覚えてしまったこのシェアハウスの理念が、頭の中に浮かんでくる。
『シェアハウスの住人それぞれの大切なものを、同じように大切にする』
ローザは今までそれを、自分の他者へ対する義務として受け取っていた。しかしよく考えれば、この理念は双方向で成立する。
すなわち、ローザがそうしようと努めるのと同じように、ここに住む他の住人も、同じようにローザの大切なものを大切にしてくれる。
なぜなら、ローザ自身もまた、このシェアハウスの一員なのだから。
菊乃さんが愛しいものを見るような目で微笑んだ。
「ようこそ、シェアハウス『大切な花』へ」
☆
「菊乃さんって不思議な人でさ」
狭い階段を上っている途中、前を行く蓮がふいにそんなことを話しだした。
「何も話さなくても、こっちのいろんなことを分かってくれるんだよね。察しがいいっていうか、見透かしてるっていうか」
お茶も飲み終わり、話もひと段落して、蓮と連れ立って二階にある各自の部屋へ戻っている途中だ。菊乃さんは「念のため今日は早めに休んだ方がいいですよ」と台所で見送ってくれた。
蓮の話を聞きながら、なんとなく分かるな、とローザは思う。電話で最初に話したときからそうだった。こちらの事情を詳しく説明したわけでもないのに、ローザが聞きたいと思うことを自然と丁寧に教えてくれた。
言ってもいないことをピタリと言い当てるような超能力的な不思議な力、というわけではない。むしろもっと当たり前の力。相手を思いやる心とか、いたわり、受容……誰もが持っている、けれどもしばしば忘れがちになるそんな美徳を、菊乃さんは常に高い水準で保ち続けているだけなのだろう。ローザは思う。
「だから前に聞いたことがあるんだ。『入居する人を選んでるんですか?』って。つまり、菊乃さんは人を見る目があるから、うまくいきそうな人を選んでるのかなって思って。そしたら菊乃さん何て言ったと思う?」
階段を登り切った蓮が振り向く。少し遅れてローザも登り切り、蓮の隣に立つ。
二人分の体重で板張りの廊下がかすかにきしむ。窓の外はもう暗く、星が光っている。つけっ放しにしてきた、ローザの部屋の光が暗い廊下にさしこみ、蓮の直線的な顎のラインを白く縁どる。
「なんて言ったんですか?」
「『私じゃなくて、みなさんが選んでいるんです』って。……まあ、普通は住みたい人が問い合わせるからそりゃそうだなって思ったんだけど、そういうことじゃないんだって。この場所を必要としている人が、自然と集まってくるんだって。意味わかる?」
ローザはしばし考えた。考えたが、分からなかったので素直に首を横に振る。
「つまり、あたしもローザも、この場所が必要だったからここに来たってこと。もちろん、最初は家賃に惹かれたけどさ、この場所に合わない人は、どんなに家賃が安くてもはなっから候補に入れないか、例え入居してもすぐに出て行くんだって。……言われたときはあたしもよく分かんなかったけど、今はその意味がすごくよく分かる。家賃のことがなくても、ここじゃなきゃいけないって思う。そんで、多分ローザも分かる日がくると思う。そんな気がする」
「……その前に、私もいなくなっちゃうかもしれませんよ?」
菊乃さんも蓮も大丈夫だと言ってくれたが、ローザはどうしても自信が持てなかった。ここで頑張っていこう、絶対に戻れない……そう決意する心の一方で、新しい生活、未知の場所に打ちのめされ、思うようにいかず、ふるさとに逃げ帰るイメージがどうしても消えない。
しかし、そんなローザの心配とは裏腹に、蓮はあっけらかんと言い放った。
「ローザは大丈夫だよ」
「……どうして?」
「あたしの髪、褒めてくれたじゃん」
髪? 確かによく見てはいたが、口に出して褒めただろうか。いぶかしむローザを前に、蓮はサイドの毛を摘まんでくりくりといじった。
「起きたとき、『流れ星』って言ったの、これのことでしょ? すごい口説き文句だよね。これにそういうことを言える人は大丈夫。ここに向いてる人」
あっ、とローザは思った。思うと同時に、照れくさいのと気恥ずかしいのとで、頬が熱くなってしまう。確かに言った。言ったけれども、『流れ星』が何を指しているかは蓮には伝わっていないと思っていたのに。この様子だと、もしかしたらその後何度も蓮の髪を凝視していたことまでバレているのかもしれない。
「す、すみません、思わず……」
「なんで謝るの? めちゃくちゃうれしいよ。綺麗に染まってるでしょ? ここまで色抜くの結構大変なんだよ~。あとこの髪型ね、ソフモヒって言うんだけど」
「そふもひ?」
「ソフトモヒカン」
蓮はうすい唇の両端を持ち上げてニイッと笑った。
「似合うでしょ?」
かっこいい。
ローザは素直にそう思った。
かっこいい。髪型それ自体はもちろんだが、堂々と自分に似合っていると言ってしまえるところが、何よりもかっこいい。
そして、なんだか眩しい。
「すごく、似合っています。かっこいいです」
「ありがと。そう言ってくれると思った」
ローザの頭の片隅に居座っていた故郷の光景が、急に色をなくしていく。村の老人たちの、理解できない生き物を見るような、取り扱いに困ったような、苦い顔。眉をひそめたおばさんたちのひそひそ声。遠巻きに様子を窺ってくる同級生たち……。
そんなもの、なんでもないんだ、本当は。ローザは思う。蓮みたいに堂々としていれば、そんなもの、なんでもなかったんだ。
……そんなことを考えていたから、続く言葉に咄嗟に反応できなかった。
「そういえば、さっきご飯の前に言いかけたんだけど、ローザの名前ってさ……」
いつもなら、もっと身構えて聞いただろう。次に投げかけられる疑問や当惑の声を、身体をわずかに緊張させて受け止めただろう。
不意打ちのように投げかけられた言葉は、しかしローザが今まで聞いたどれとも違っていた。
「ちょーかわいいね」
「……え?」
「誰がつけたの?」
ローザは自分のシャツの胸元を軽く握った。なぜだか、ドキドキして仕方がなかったからだ。
「祖母が……つけてくれました」
「おばあさんなんだ。センスいいね。ローザにぴったり」
ドキドキする。ローザは思った。
ドキドキして、仕方がない。
蓮とおやすみを言い合い、各々の部屋へ別れたあとも、胸の鼓動は収まる様子を見せなかった。それどころか、時間が経つにつれより大きくなっていくような気さえした。
荷ほどきをしている場合ではない。ローザはベッドに腰かけて枕を抱えた。それでも胸の鼓動は収まらない。頭の中をぐるぐると、蓮の言った言葉が巡っていた。
――ローザにぴったり。
そうか、それでよかったんだ。ローザは思う。そうやって、堂々としていればいい。ここは、そういう場所なんだ。
ベッドの横の高い位置には、カーテンがかかっていた。カーテンを開くと、四角を敷き詰めたような模様の入ったガラス窓があり、その窓を開くとひんやりとした夜の空気が部屋の中に入り込んできた。しかし、期待していた夜空は見えない。隣にあるアパートが邪魔をしている。
諦めて窓とカーテンを閉め、仕方なくローザは枕を抱いたまま目を閉じた。
例え、実際に星が見えなくても問題はない。ローザは思う。見えなくても、ちゃんと見えている。
一向に収まる様子を見せない胸の鼓動を感じながら、ローザはただ静かに、これから始まる生活への期待と希望を味わう。
シェアハウス『大切な花』での最初の夜は、そうして更けていった。
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