第20話:ふいー。いい湯だナ……


 ナグルファル領と魔境を隔てる山脈。今でこそただの休火山だが、そこはかつて強大な火竜の縄張りだったとされる。その影響なのか麓の一帯には温泉が湧き、街道にも温泉付きの宿駅が連立。すっかり領地の名物と化していた。

 この温泉宿だけを目当てに、山脈沿いの街道を渡り歩く冒険者もいるほどだ。


「ふいー。いい湯だナ……」


 乳白色のお湯に浸り、なんともいえぬ心地良さにリュカはぐぐぅっと背筋を伸ばす。

 ここ数日間の疲れが温泉の湯に溶け、体が軽くなったような気分だ。

 尤もそれは、お湯にプカプカ浮かんだ双子山とも無関係ではあるまいが。


「ハッハッハッハ。リュカ、お主もしばらく見ぬうちに、また一段と別嬪になったのではないか? どれ、お姉さんにそのやわもちメロンの成長ぶりを――あいっだぁ!?」


 角から放たれた微小の雷撃が、不埒者の魔手を的確に打ち据える。

 相手は、麗しい美貌をスケベオヤジのそれに崩壊させたチヅルだ。

 この女武者、男より女にモテる上、そこらの男よりも女好きなのだ。同性であるのをいいことにセクハラ三昧で、噂では各地に愛人がいるとか。


 少しも電撃に応えた様子がなく、チヅルはカラカラと笑う。


「おー、痛い痛い。相変わらず手厳しいな」

「フン。他に入浴客がいなけりゃ、黒コゲでも済まさないところだゼ」

「やれやれ。女同士だというのに相変わらず身持ちが固いな。肌を許すのはただ一人、愛しい愛しい【冒険者】だけ、ということか」

「なっ、ザックは関係な――くは、ねえけど。あいつがあたしの電撃を喰らっても平気なのは、つまりその、そーいうことだし?」


 顔から火が出そうな思いをしながら、リュカはどうにか言い切る。

 それを聞いて、チヅルは意外そうに目を見開いた。スケベオヤジの顔が、今度はお節介で噂好きな親戚のおばさんと化す。


「おやおやあ? なんだお主ら、二人きりでもしやと思ったが、なるほどついにというかようやくというか。今はさしずめ、婚前旅行の真っ最中というところか?」

「そ、そういうんじゃねーヨッ。その、今はまだ」

「あらま。本当にどうした? 素直になれない態度を売りにするのはやめたのか?」


 ますます目を丸くしたチヅルに、リュカは憂いを帯びた声で独り言のように呟く。


「……あたしが突き放した言い方すると、今のザックはそのまま真に受けて、あたしから離れていっちまいそうだからナ。なるべく、言いたいことを素直にぶつけるようにはしているヨ。ちょっと、ヤケクソみたいな勢い任せになってる気もするけどサ」

「ふむ。確かにザックのヤツ、すっかり人が変わってしまったかのようだな。私の知るあいつは、どんな状況も『冒険』だと楽しむ不敵な笑顔の似合う男だった。それが今は別人のように大人しくなったというか、暗くなったというか。さっきの酒宴も以前なら誰より率先して大騒ぎするのに、片隅でチビチビと一人酒していたし」


 そうとも。いつでも明るく騒がしく、宴となれば一層喧しくなる。

 ご機嫌に酔っぱらい、下手くそな歌で踊り、自分の仲間が如何に勇敢で素晴らしいかを夜通し語り尽くす。それがチヅルもよく知る、ザックという男だ。

 しかし今のザックには、かつての明るさなど見る影もない。


「それでいて――あの魔力も闘気も伴わない、しかし私まで寒気を覚えるほどの殺気。なによりあの凄まじい形相、只事ではない。あやつに一体なにがあった?」


 チヅルの問いに、リュカは魔王のことだけは伏せて語った。


 魔王討伐の旅路で、霊格を理由にザックだけが不当な扱いを受け続けたこと。

 過酷さを増し続ける上級魔族との戦いで、ザックの体は最早限界だったこと。

 これ以上は命に関わると、苦渋の決断でザックをパーティーから離脱させたこと。

 結果、ザックは最後まで勇者パーティーに「いないもの」として扱われたこと。


「……ふむ。なぜか勇者パーティーは六人扱い。ザックの名だけが頑ななまでに挙がらないから、なにかあるとは思っていたが。そこまでの不遇を被っていたとはな。それだけの仕打ちを受ければ、人が変わってしまってもおかしくないか」

「変わった、っていうのもきっと違う。ザックは小さい頃からずっと傷ついてきた。あたしたちに明るく振る舞う裏では、痛みや苦しみ、怒りと憎しみがずっとずっと山よりも高く降り積もって。ザックはそれを一人で抱え込んで、自分を押し殺していたんだ」


 ガストーへの容赦ない報復も言わば噴火の前兆、ほんの一端に過ぎまい。

 旅の中であれだけの理不尽に踏みつけられ、ザックの中に蓄積し続けた怒りが、あの程度で治まるはずがないのだ。


「あたしたちに気を遣ったとか、そういうのもあるだろうけどサ。ザックがそれを億尾にも出さなかった一番の理由は……ただ、周りにやり返す力がなかっただけ。力がないから、仕方なく泣き寝入りしてただけ」


 一体いくつの眠れぬ夜、枕を涙で濡らしたのだろう。

 人を憎み世を呪い、昏く淀んだ感情を瞳に渦巻かせながら。


「だけど、旅が終わった今更になって、ザックは手に入れちまったんだヨ。憎い連中に対して思う存分にやり返せる、よくない力を」


 それがどれほどの歓喜と快感か、リュカには覚えがあった。

 幼少の頃。闘気の才能が一向に芽生えないリュカは、大人からも子供からも蔑まれていた。同年代の少年少女から、訓練とは名ばかりのリンチを受ける毎日。


 そして思春期に入り、身体が同年代に先んじて女性のふくらみを帯び始めると……自分を見る男どもの目に、おぞましい劣情の火が灯った。人気のない場所で囲われ、服を剥がされそうになり、恐怖と絶望と憎悪が頂点に達する。

 そのときの死に物狂いの抵抗が、秘められた【精霊術】の才能を開花させた。


 閉鎖的な里で育った龍人たちからすれば、精霊術はまるで未知の力だ。子供も大人も翻弄される様を嘲笑い、リュカは思う存分報復の限りを尽くした。結果として孤立を深め、里の外れで一人暮らすことになったが、今も後悔など全くない。


 ……それでも所詮は子供の争いだ。人死にが出るほどの事態には発展しなかった。

 しかしリュカのときと、今のザックでは状況も規模もまるで違う。受けた仕打ちの理不尽さも。手に入れた力の強大さも。その心に渦巻く憤怒と憎悪の密度も。それこそ、第二の魔王となって人族を滅ぼしても不思議ではない。


 そして夢に破れ、魔王討伐の旅が終わった今、我慢する理由がザックにはない。

 共に旅した輝かしい思い出も、今のザックにとってなんの慰めにもならないのだ。


「ザックが傷ついてることは、知ってるつもりだった。だけどその傷がどれほど深いか、あたしたちはちっともわかっていなかった。ザックがどんな暴挙に走ったとしても、あたしはそれを責められないし止められない。その資格も権利もない」


 理由がどうあれ、ザックをパーティーから追い出した、あの日。

 虚ろな目で去っていくザックの背に、リュカはかける言葉が見つからなかった。

 そんな自分が今更なにを言っても、彼の心に届くとは到底思えない。


「それでも、あたしはザックにあんな酷い顔をさせたくない。ザックにはいつだって、馬鹿みたいに楽しく笑いながら、一緒に冒険をして欲しいんだヨ。だけど、どうすればザックをいつもみたいに笑わせてやれるのか、あたしにはわからねえ」

「なんだ。そんなこと、簡単ではないか」

「なにか妙案があるのカ!?」

「うむ。お主には、その立派なやわもちメロンがあるではないガガガガ!?」


 先程より強めの電撃。

 他の入浴客も軽く感電したかもしれないが、これはチヅルが悪い。


「あたしは真面目に悩んでるんだヨ! それをセクハラ発言で返すか、普通!?」

「いやいや、これでも割と真面目に言っているのだぞ? 考えるに、ザックは心にポッカリ空いた穴を、暴力の快感で埋め合わせようとしているのだろう。しかし人などというのは案外、三大欲求さえ満たされれば大体幸せになれるもの。それすなわち飯! 布団! 女だ! ――特に、好き合った女を抱くのに勝る幸福はないとも」


 力説するチヅルに、リュカはモジモジと太ももの龍鱗を擦り合わせた。


「だけどヨォ……あたしの体、ザックの趣味じゃないかもしれねえし。ウサギの指導受けて鍛えてるけど、どうしても肉がこうムチッとしちまってるし。ウサギやチヅルみたいに、もっとスラリとしたスタイルの方がザックは好みなのかも」

「いやいやいやいや。確かにウサギは黄金比とも言うべき、素晴らしく均整の取れたスタイルだったが。ザックは間違いなく巨乳好きだから、むしろリュカが有利ビビビビ!?」


 三度目の電撃。このオヤジ女傑は本当に懲りることを知らない。

 肩の力が抜けると同時、リュカは一番の不安を口にしていた。


「それに――ザックは、勇者パーティーのことを過去の話にしたがってる。自分にはもう関係ない、どうでもいいって。あたしが一緒に旅した頃の話をすると、嫌そうな顔になるんだヨ。あたしが傍にいても、ザックにとっては邪魔なだけなんじゃねえかって」


 震える声で俯いたリュカに、しかしチヅルは快活な笑いを返す。


「確かにザックは多くが変わったように見えて、なにも変わったわけではないのかもしれぬ。それはお主たち、勇者パーティーの仲間をなにより大切に想っていることもそうだ。リュカを見るザックの目は、昔となんら変わらぬ。優しくも熱い目だった。ザックが本当に必要としているのは、力でなくお主の存在だよ」


 だからリュカが傍にいる限り、ザックはきっと大丈夫だ。

 そう太鼓判を押すチヅルに、リュカは首まで湯に沈んで夜空を仰ぐ。


 故郷にいた頃、夜空の星に感慨を抱いたことなんてなかった。

 漠然と外の世界に憧れ、けれど怯えるばかりでどこにも踏み出せず、ただ周りを憎むことで心の穴を埋めていた。そうして閉じこもっていた自分を、心躍る冒険の日々へ連れ出してくれたのがザックだ。


 だから今度は自分が、暗闇から彼の手を引いてあげることができたなら。


「そうだったら、いいナ」


 今夜は一際輝いて見える双子狼の星に向けて、リュカはそっと祈りを捧げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る