ⅩⅡ

 今朝から降っている冷たい雨に打たれて声まで冷たくなったのかと思った。

「単刀直入に言います、エレナ」




「貴女との婚約を破棄させていただきます」




 ウメラの雨も過ぎ去り、秋季の20日、エレナの誕生日。シエラヴェールに来た時、何故かいた事のない兄と父が神妙な顔つきで待っていた。エレナはキョトンとしていて、何が起こっているのか分からないままルゼルトと対面し、誕生日を言葉で祝われたその直後──これだ。

「……どう、いう……ことです、か……」

「…………言葉の通りです」

「……どうして……」

 問う度に呼吸が荒くなる。わからない。わからない。訳が分からない。

「私に……至らぬ点があるのなら……教えてください……」

「そういうことではっ……、……」

 心外だ、と言うふうに少し伏せていた目をルゼルトはバッと上げたが、婚約破棄を申し出た自分にそんな顔をする権利はないと思い直したのか、また少し俯いた。

「そ、そもそも……私たちの婚約は政略の上のものです。……政治の点で都合が悪くなった、それが理由です」

 エレナとルゼルトに挟まれる机の下で、ルゼルトはぎゅっと拳を握った。エレナがどういう反応をするのか様子を伺ってみると、彼女の体は細かく震えていた。

「……み」

「……」

「認めません!!」

 エレナはバンッと机を叩いて立ち上がった。いつもルゼルトの前では控えめでお淑やかで、ちょっと興奮すると子供らしい部分が顔を出すが、それでもエレナは優しい人だ。予想してなかったような、予想していたような、曖昧な境界線での感情が疼いた。

「これはシエラヴェールが16年前にクタヴェートの血が欲しいと言ってきた婚約だったはずです! それなのに……! せめて、それを覆す理由を言ってください!」

「やめなさいエレナ!」

「止めないでくださいお父様! 納得できません!」

「相手はシエラヴェールなのだぞ!!」

「ッ……」

 そう、身近すぎて忘れてしまうが、相手の名前はルゼルト・シエラヴェール。国で王家に次ぐ権力を持つ大賢者の血筋で、クタヴェートなど足元にも及ばない存在。だがルゼルトは、薄く笑いグランツを見た。

「止めなくてもいいですよ。エレナの怒りは至極真っ当です。むしろ理由を聞かれてよかった。相手に権力があったとして、理由を聞こうとするのは聡明な証です。……ですが……グランツ殿とスレイド殿にも既に申し上げたのですが、理由はお話できません」

「そんな……!」

 父兄の方を振り向くも、2人とも気まずそうに顔を背けるだけだった。

「……絶対ですか」

「……はい」

「そんなにクタヴェートが信用なりませんか」

「それは、違……」

「そういうことでしょう!?」

 ぐるり、と思考が逆回転する。言うなと祖父に言われている。自分も言わない方が得策だと考えた。だが、それは誠実さなのか?それとも自己保身?信用がないから?わからない。とにかく、言えないとしか頭にない。返事に詰まっていると、息を荒らげて泣きそうだったエレナが、ぽつりと呟いた。

「……もういいです」

 彼女は後ろを向いて走って部屋から出ていく。エレナ、とスレイドが後を追って行った。

 部屋の外ではジェシーが待っていた。だが、エレナが部屋から飛び出して逃げていくのを見て、驚いたあとにハッとして追うように玄関へ向かう。スレイドが直ぐに追いかけてきて、ジェシーは咄嗟に尋ねた。

「スレイド様、一体何が……」

「説明はあとだ! とにかくお前は着替えとタオルを持ってきてくれ!」

「は、はい!」




 ルゼルトとグランツは部屋でしばらくそのままでいたが、やがてグランツは頭を下げて部屋から出ていった。残されたルゼルトは、テーブルの引き戸を開け、エレナから貰った小説を眺めた。結局、色々と問題が起こって、あまり厚くない本なのに半分くらいしか読むことが出来なかった。

「…………」

 ……泣かせてしまった。だが、仕方ないことだ。そうだ、仕方ないのだ。これは、自分のため、そして家のため、国のためだ。王家にはなんて説明したのだろう。諸貴族を納得させられる理由はあったのだろうか。また祖父に迷惑をかけてしまった。あぁもう、自分が嫌になる。

「追わなかったのですね」

 聞こえた女の声に振り向こうかと思って、やめた。誰だかは分かっているし、顔を向けるような気分ではない。

「無視ですの? 悲しいですわね」

 そんなこと思ってもいないくせに、言葉に出さない代わりに溜息を吐き出した。女は彼の肩から腕を回し、優しく抱きしめるような姿勢をとった。胸に首が押されて少し痛い。

「離れてください。エレナとはあくまで政略のための婚約破棄で、貴女との婚約も同じことです。不要な触れ合いはしないと言ったでしょう──アナスタシア」

「……ふふ」

 女──アナスタシアは、正しく聖女の顔で優しく微笑んでいる。だが、どこか挑発的だ。

「貴方は確かに、あの子──エレナ・クタヴェートとの結婚を望んでいましたわ。けれど、貴方のそれは恋でも愛でもなく……執着であったこと、気づいてない、なんてことは……ありませんわよね?」

 鋭く睨んで怒鳴りそうになるのをぐっと耐え、ルゼルトは無言のまま立ち上がった。アナスタシアの手も自然と離れる。

 アナスタシアは、今回の婚約で教会からシエラヴェールに移り住むことになった。その先祖が神の声を聞いた聖人であることに変わりはないが、彼女は普段見るような聖女の服ではなく、ドレス姿だった。それも、夏にエレナが着てきたような胸元と肩が大きく開いているドレスだ。アナスタシアは発育がいいため、この姿を見ればときめく男性はかなり多いだろう。だが、意気消沈していることもあってルゼルトは何も感じなかった。

「貴女との間に男児が生まれればそれまでだと思っていますので、そのつもりで」

「まぁ。冷たいこと。えぇでも、いいでしょう。それでも私が母親であること──そして、貴方と性交した事実は変わりませんので」

 それだけ聞くと、ルゼルトは部屋から出ていった。きっと地下へ行くのだろう。アナスタシアはその背を見送り、妖艶に微笑んだ。


 まさかの展開だった。常々ルゼルトのことを美しいと思っていた、愛人でもいいから繋がりが欲しいと思っていたが──まさか妻になれるとは思わなかった。クタヴェートのお嬢様には申し訳ないが、これでルゼルトは自分のもの。どうせ彼女は彼に恋をしていたわけではないのだし、今回ショックを受けたのも婚約破棄そのものと言うよりは、シエラヴェールがクタヴェートを、ひいてはルゼルトが自分を信じていないことに対するショックだっただろうから、そう大した問題でもなかろう。全く子供だ。ルゼルトとて苦渋の決断だっただろうに、その責任と怒りのぶつけ先を彼一人に求めるなど──貴族のすべきことではない。その点、己の方が彼のことは理解している自信が彼女にはあった。

 分かっている、彼にとって自分は子供さえ出来ればいい存在。その子がちゃんと大きくなればあとはどうだっていい存在であることは。だが──。

 アナスタシアも部屋から出て、自室へ戻った。姿見の前に立ち、胸とウエストを撫でる。シエラヴェールの跡取りで、今の立ち位置は賢者で、一見しただけでは分からなかったがエレナに執着を持っていたルゼルトでも、所詮男だ。1度体を重ねてしまえばきっと落ちる。きっと大賢者ももう歳で焦っているだろう、1週間もすればその時は来る──その時が楽しみでならなかった。

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