ⅩⅠ
翌日には風邪は治っていたが、その日も大事をとって帰ることはやめ、その次の日にすっかり良くなったエレナはいよいよ帰ることになった。水祭りの最中であるため、普段邪魔してくるカルブは市街警備でここにはいない。
「伸びてしまって申し訳ありません」
「気にしないでください。私もほとんど貴方の側についていられなかったのですし」
苦笑するルゼルトに微笑む。それこそ気にすることもない案件だ。
「次は秋季の19日ですから、少し間がありますね。70日くらいですか」
「えぇ、そうなりますね」
「では……元気で。また風邪ひいたりしないでくださいね、心配になるので」
「ふふ。はい、旦那様。……その、旦那様も……あまり無理をなさらないでくださいね」
「……えぇ」
「ルゼルト様が風邪で寝ていたお嬢様を気遣うのは分かるのですが……お嬢様からそういった言葉をかけるのは珍しいですね」
「……そうね、あまり体調についてそういう言葉をかけるのは……言われたくないみたいだったもの。まぁ仕方ないわよね、シエラヴェールだもの」
風邪をはじめ、病というのは悪魔の仕業だ。シエラヴェールなどの高貴で神聖な家の人間に体を大切にと言うのは、時折その神聖さを疑いにかかっていると思われることが時たま起こる。故に、エレナはルゼルトにそう言ったことがなかった。言われたところで気にした素振りは基本的に見せないが、ルゼルトは牛乳が飲めないのを気にしていることもあって、言われるのが全く嫌ではないということは無いだろう。
「でも言わなければならなかったの。……一昨日夜に起きたら、旦那様は椅子に座って寝ていて……少し魔法を使って調べたら心身ともに酷く疲れていたから」
「そうだったのですか……申し訳ありません、私がルゼルト様にお側にいらしてほしいとお願いしたので……」
「気にしなくていいのに。私はまだ成人してないけど、風邪で心細くなるほど子供でもないのよ?」
「ふふ、そうですね。余計なことを致しました」
エレナはジェシーの言葉を聞いて微笑んだ。そういえばルゼルトに本の感想を聞き忘れたが、まだ読み終えていないかもしれないし、聞くのは次に会う時にしよう。
「さて、私も帰ったら魔法の練習をするわよ!」
「えっ?」
「癒しの魔法なら騎士団に仕えるクタヴェートの領分よ! お疲れの旦那様はちゃんと癒せるようにならないと!」
エレナはニコニコと笑っている。クタヴェート家の矜恃以上に、妻として自分にできることを夢見ているのだろう。エレナにとって、ルゼルトは大切な人に違いない。それが恋愛的な意味であるか否かは兎に角として。
「そういえば王家への挨拶に行った帰り、サピュルス様に会ったわ」
練習の休憩中にエレナは思い出したように口に出した。ジェシーは目を丸くして聞いている。
「サピュルス様に? 珍しいですね」
それは、水祭り中は川の方にいるため、市街地で会うことは滅多にないのに、という意味ではない。騎士団と関わりの深いこの家の人間なら知っているが、サピュルスは人前に出るのが苦手なのだ。もちろん騎士としての仕事や挨拶にはこなすが、カルブが(邪魔をしに)シエラヴェールに来る時も、サピュルスが来ることはない。王家に挨拶に行っていたのだから当たり前──と言いたいところだが、彼は川に戻る時もあまり大通りを歩くことはないため、珍しいのだ。
「私も凄く久々に会ったわ。しかも向こうの方から声をかけてきたの」
私だったからかもしれないけど、とエレナは付け足した。クタヴェートの娘を、しかも婚約者たるシエラヴェールの跡取りをも見かけたのに声をかけずに無視するのは気が引けたのかもしれない。
「相変わらずカルブ様に顔は激似だったわ……髪とか瞳は旦那様のと似てるけど」
「なるほど、どちらとも組ませづらいですね」
「いっその事お兄様と──」
「以前妄想していたのがバレて怒られていらっしゃいませんでした?」
「バレなきゃいいのよ」
またバレるほど馬鹿ではないわ、とエレナは笑った。
水祭りは終わり、国のお祝いムードも過ぎ去って、季節は太陽が燦々と照りつける夏季から、涼風が吹き付け肌寒く感じる秋季へと移り変わっていった。といっても秋季の10日くらいまではまだ残暑も厳しい季節だ。そして、その残暑に終わりを告げるように、この国を含む周辺諸国では、長く暖かい雨が3日ほど降り続け、雨が止むと突然涼しくなる……それがこの辺の国の気候だ。この季節の変わり目を呼ぶ雨を、人々は──。
「ウメラの雨だ」
そう呼んでいる。
これは神話に由来する呼称だ。ある年の夏、あまりの暑さと降雨量の少なさで作物は育たず、井戸は枯れ、そのために老若男女問わず死にゆく人々を見たある老人は、飲まず食わずで神に祈り続け──そして今で言う秋季の初め頃、まさに今の季節、ようやく雨が降った……という伝説がこの国と周辺諸国に残っている。その老人の名前がウメラというのだ。
窓の外を眺めながら言うルゼルトにアザンツが頷く。秋季の12日、今日は明け方から雨だ。これから3日ほど雨が続くだろう。
「……ルゼルト様、今日はさすがに何もやる気が起きませんよね? 雨ですし。雨の日は人間眠いですよね?」
「アズ、私には時間がない」
アザンツの問に、ルゼルトは眼帯を着けながら答えた。精霊召喚が出来ないと言うのは確かに大問題だが、このところルゼルトは会議と練習に使う地下を往復する生活をしている。エレナがいればティータイムに時間を使うが、逆に言えばエレナがいなければティータイムなど彼には存在しないのだ。
「時間がないのは理解してます、しかし今日は休んでいただきます。これから気温が下がる時に休まないと体調を崩しやすいですし、そうなるとエレナ様のお誕生日に一緒に過ごせませんよ」
「……」
ぐ、とルゼルトが言葉に詰まった。従者の言うことは至極真っ当、正論だ。妖精召喚はただでさえ多量の魔力を消費する。消費した魔力は休息をとる以外で回復させる方法などない。正直もう魔力量は限界だった。
「……はぁ。わかったよ。今日だけだ」
「うんうん、それが正しいです。朝食お持ちしますね」
「部屋出るついでに、地下室に置いてある白い魔導書も頼む」
「ついでにも程がありますよ……朝食持ってきたら取りに行きますから」
そう言いながらアザンツはルゼルトの部屋の扉を閉めた。部屋に残ったルゼルトは、1度大きく伸びをする。全く過保護な従者だと思いながらふと鏡を見ると、そこに写った男の顔は血色が悪く隈も厚い。こんなに酷い顔をしていたとは。
自分の顔から目を背けたくて少し下を見ると、鏡の傍に置いてある棚の上にある本が目に入った。魔導書の類は地下か書斎にあり、この部屋にはない。この部屋にある本はたった1冊……エレナがくれたものだけ。忙しくてまだ読み終わっておらず、栞を挟んだページから読み始めたものの、そこに至るまでの話を思い出せなかった。詠唱は忘れないのに。
「…………」
おそらく己の読書スピードでは今日だけでは読み終わるまい。しかし本の内容は忘れがちだ。どうしたものかと考え、彼は思い立ち、机に向かった。紙とペンを取りだし、日付と文章をを記入する。
秋季12日。本は少しずつしか読めない、しかも内容を覚えるのが苦手なため、栞の代わりにこの紙を挟んでみる。
頑張って一から読み直そう……としたところで、アザンツが朝食を持ってきた。本を持っている主を見て、彼がにっこりしていたので、ルゼルトは思わず従者をどつきそうになったのだった。
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