楽しい水祭りの間、日々はあっという間に過ぎゆき、夏季の40日、エレナは予定通りクタヴェート領地に帰ることに──ならなかった。

「けほっ、けほっ」

 昨日は水祭り中にまさかの気温降下があった。例年この時期はうだるほど暑くなるのだが、稀にこういうことが起こる。そして、その気温の急激な温度差で風邪を引く、ということも、勿論よくある。

「お嬢様、起き上がれますか? お薬をお持ちしましたよ」

「う、ん……ありがとう、ジェシー……」

 焦点の定まっていない目ではあったが、ジェシーの手を借りながら何とかエレナは起き上がり、薬を飲んで息を吐き出した。

「グランツ様とスレイド様には既にお伝えしていますので、ゆっくりお休みになってください」

「えぇ、そうするわ……」

 ジェシーは微笑んで部屋から出ていった。向かうのはルゼルトのもとだ。今日は水祭り中中だが政治会議があるとのことで、祖父のヤーフェについて行くらしい。勤勉なことで喜ばしい反面、エレナの傍にいて欲しい気持ちもある。絶対的にルゼルトが出るべき会議ではないとアザンツから聞いているため、頼みに行こうと思っていた。

 ルゼルトは基本、食事や睡眠の時、そしてエレナとのティータイムや市街観察など以外は魔法の練習のため、魔法防壁の張られた地下の書斎にいる。入ることは特に誰も禁じられていないため、ジェシーはシエラヴェールのメイドにそこまで案内してもらった。

 地下通路はロウソクの灯りがポツポツとあるだけの薄暗いところだった。きっとルゼルトが居る部屋も暗いのだろう。

「ここです」

 その声に反応して、転ばないよう注意して下に向けていた視線を上にあげる。扉の前に辿り着いていた。こんこんと案内した彼女が扉を叩く。

「ルゼルト様、練習中申し訳ありません。お願いしたいことがあるとの事で、エレナ様の従者様を連れてまいりました」

「…………どうぞ、入ってください」

 中から返事があり、メイドに頷かれたジェシーはドアノブを握って遠慮気味に戸を開いた。……緊張する。魔法の練習中に、エレナのいない状態で会うのは初めてだ。

「……どうかしましたか、ジェシー?」

「突然申し訳ございません」

 ルゼルトは髪を整えていた。おそらく練習で乱れていたのだろう。まだ朝の10時だが、かなり疲れている様子だった。眼帯は外れていたが、髪で左目を隠している。

「今朝お伝えしたとおり、お嬢様は風邪をひいてしまわれています……できるだけお傍にいたいとは思いますが、私にも仕事があります。……会議を、お休みして頂くことは出来ませんでしょうか……」

 半ば予想通りの言葉だったのか、ルゼルトは眼帯をつけ直しながら話を聞いていた。そうは言われても、と思っているのだろう。

「……こちらもそうしたいのは山々ですし、貴女の事情も理解しています。何もかもシエラヴェールうちのメイドに頼っているわけには行きませんよね」

「…………」

 彼には感謝している。偉い人の中にはメイドの事情など知らないと話を聞いてくれない人も多いが、ルゼルトはさすが大賢者の孫、しっかり気持ちを汲んでくれている。……しかし、それはそれ。ルゼルトに今日の会議を休むつもりはないらしい。

「……だめ、ですか……」

「……そうですね。……会議が終わり次第エレナの側にはいましょう。恐らく数時間もすれば終わる会議ですから」

「……分かりました。ありがとうございます」

 ジェシーはぺこりと頭を下げると、意気消沈といった様子で部屋から出ていった。

 分かっている。だがルゼルトにも事情がある。彼自身と、祖父のヤーフェと、従者のアザンツ、祖父の従者のイーサン、そして担当の魔法医療師しか知らない。エレナは若い自分が大賢者の跡を継がねばならないプレッシャーを感じているのでは、と考えているようだし、それについては外れてはいないのだが、厳密にはそれだけではない。

 ルゼルトは眼帯を再び外し、返事のために解いた防音結界を張り直したた。左目は、怪我をしている訳では無い。普段から人前に晒すべきではないのだ。その瞳は、ダイヤモンドをはめ込んだようないろに、様々な光が乱反射しているような色をしていた。

 先程は詠唱の途中でメイドに遮られたため、もう一度唱える。左目に魔力を集中させた。


「──聖なるものよ、天上に在りしものよ、我がに応えよ! これなるはルゼルト・シエラヴェールの名のもとに行う召喚である! いでよ、その力を貸し給う精霊!」

 ──何の反応もない。ルゼルトはガクりと項垂れ、その場に座り込んだ。

「っ……なぜ、何故だ……何故なんだ!?」

 悲痛な声が地下に響く。思ったより大きく響いた声にハッとして、慌てて防音結界を張ってあるか確認した。……問題ない、稼働している。安堵して溜息を吐き出した。

 彼が行っていたのは精霊召喚だ。精霊は、人間よりずっと上位の生命。神に近い存在だ。それを召喚、使役を行えるのはシエラヴェールだけであり、その由来はシエラヴェールを作った先祖が、精霊の谷と呼ばれる伝説上の場所へ赴き、自分の子孫に力を貸すことを頼み、それを承諾されたことと聞いている。もっとも、精霊の住む谷と言われる場所は確かにあるが、ここから遠く離れた場所であるため、それは伝説の話であって本当の理由は違うのだろうが。

 ともあれ、以来、シエラヴェールでは精霊召喚と使役が行えてこそ1人前であり、それが出来る者が正当後継者になるべきと言われている。才能によりけりではあるが、召喚なら成人する頃には誰にでもできるし、それから数年もすれば使役もできるようになる。……それが、ルゼルトはこのザマだ。成人して一年も経つのに、召喚できる気配すらない。──魔力の量や質ではなく、精霊が彼の召喚に応じないのだ。ルゼルトの最大の焦りはそこにあった。

 大賢者としての座につく際、貴族たちの前で精霊召喚と使役を見せなければならない。それが出来ないなど笑いものなんてレベルではない。ヤーフェの跡を継げるのは自分しかいないのに、精霊はいつまで経っても彼を認めようとはしない。……理由なんて本当は分かっているのだが。




 エレナは夜になって目を覚ました。ベッドの脇に誰かがいる気配を感じて顔を動かすと、椅子に座ったルゼルトが寝息を立てていた。膝の上にエレナから貰った本を大切に抱えるような姿勢だ。時間はまだ11時を少し回ったくらいだが、会議に参加すると昨日言っていたのを覚えている。疲れているのだろう。

 喉はまだ少しだけ痛いが、熱は下がったような気がして起き上がる。彼女は彼の手に自分の手を重ね、魔力を回した。クタヴェートの女性は有能ではない、しかし元来騎士団に治癒と占星を目的として使われる一族だ。相手の魔力の量だとか、疲れだとか、そういったことを知る程度はエレナにもできる。

 ルゼルトはかなり疲れているようだった。魔力も多く消費している。そして……精神的にも弱っている。起こしたくないが、ここで寝ていては彼まで風邪をひいてしまいそうだ。誰かに伝えた方がいいと思いつつも、彼女は彼を見つめた。

 まだあどけない寝顔が可愛らしい。本を大切に持ってるところも、会議後直ぐにここに来たのかマントをつけっぱなしのところも。

「大丈夫、ちゃんと支えます」

 言いながら、彼の額に口付けを落とす。単なるキスではなく、精神を落ち着けるための簡単な応急処置の魔法だ。エレナは部屋から出て、ちょうどよく見つけたアザンツに、ルゼルトを部屋に運ぶよう頼んだ。アザンツはやれやれと言うように笑っていた。

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