Ⅷ
水にびしょ濡れになって遊ぶというのはこの年ではしないが、アナスタシアが去ったあと、二人は子どもたちに声をかけられ、結局びしょ濡れになり、夕方帰って風呂に入って夕飯をして……と過ごしていた。エレナは少し疲れがあり、ベッドに入ると、ルゼルトが部屋に戻ってこないことに気づかないまま眠りに落ちた。
地下に行っていたルゼルトが寝室へ入ったのは、エレナが眠りについてから暫くしてからのことだ。この時期は暑く夜も窓を開けているため、部屋のカーテンが風に揺れている。遠くの月は青く
これでまた暫くは教会の目は誤魔化すことができるだろう。大丈夫、大丈夫、己の名はルゼルト・シエラヴェール。大賢者の跡取り。大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫でなければならないのだ。
幾分か落ち着いて、彼はようやくベッドに潜った。考えるのはやめよう。今は水祭り。この国で最も大きな祝祭で、他国の人々も楽しみに来るほどの時期なのだから。
瞼が落ちてきて、ルゼルトも眠りに落ちた。
……アナスタシアの声がする。
──神は今ならあなたをお許しになります。
許すも何も、何もしてない。
──あなたは……あなた方は、妻となる方にまで、何を隠しているのですか?
それを彼女に言う必要はない。
──それは神の教えに背くことですか。
──殺しを悪とする、騙すことを悪とする、不誠実を悪とする、嘘を悪とする、悪を匿うこともまた悪とする。
──あなたの行為は悪ですか。
違う、違う違う違う違う違う違う違う違う!
悪じゃない、背いてない、殺してない、騙してない、不誠実じゃない、嘘じゃない!
ただ、そうするように言われたからそうしてるだけ。嘘ついてまで隠してない、聞かれないから言わないだけ、嘘なんてついてない、それは不誠実じゃない!
ただそうするように頼まれてるだけ! 私だってやりたくてやってない! 私は悪くない!!
木霊する。頭の中で悪を問う声が乱反射する。違うと否定する声が掻き消される。悪いのは大人たちだ、自分じゃない。自分に全て押し付けた大人たちが悪いと、思うことはできるのに、もはや何を言っているのかわからないほど脳内で響く修道女の声に反発する気力もなく、代わりに謝罪を口に仕掛けたとき、別の声が聞こえた。
「──様、旦那様」
「…………あ……」
目を覚ます。まだ暗い部屋の中で、まだ寝間着姿のエレナが心配そうに顔を覗いていた。……夢だったのか、そう安堵して、溜息を吐き出しながら目を瞑った。
「ごめんなさい、勝手に入って……酷く魘されていましたが大丈夫ですか?」
「……はい……」
もうすっかり眠っているエレナを起こすほどの声だったことに少し恥じながらも、それを謝罪するほどの気力はない。
心は、通じているようで離れている。エレナだって、本当は理解している。彼自身気丈に見せているが、大丈夫なはずが無い。大賢者であるヤーフェはあと数年もすれば平均寿命へ到達する。周辺諸国よりやや高いが、それでも70がこの国の平均寿命だ。きっと、不安なはずだ。大賢者は国から魔法が認められている人ではなく、家が代々継ぐ役職──不安だろう、まだ18歳なのに、と。なんとか励ましたい気持ちはあるし、彼に体を差し出して彼がそれで落ち着くなら構いやしないが、成人していない未婚の男女が性的な触れ合いをするのは法で禁じられている。もっとも一般庶民は割と無視しているらしいが、貴族はそうも行かない。
ルゼルトが自分に何か隠しているのもわかっている。それを言わないのは、エレナが信用ならないからか、それとも彼女はあくまでクタヴェートの人間であり、シエラヴェールの話に巻き込むのを好まないからか。エレナから聞いたところで、彼が言いたくなければ答えないのだろうし、答えてほしいという権利すらない。相手は天下のシエラヴェールなのだから。
だから、何も言わずに、何もせずに、ただ心配そうに見つめるしかできないのだ。
「……戻って大丈夫ですよ。もう起こしたりしませんから」
「わかりました。……お休みない、旦那様。良い夢を」
エレナは一度頭を下げて、部屋から出ていった。良い夢、そんなものが見れればいいが。……期待はしないでおこうと、ルゼルトは目を閉じた。
翌日になって、ルゼルトは午前は魔法の訓練があるということで、二人が出かけるのはいつもはティータイムに使う時間になった。ルゼルトがまだ未成年だった頃はもう少し長く出掛けることが許されたし、今も別に咎められるわけではないのだが、ルゼルトとしても勉強の時間が少し惜しいのだろう。
今日は二人は噴水を避け、大通りに立ち並ぶ屋台の方へ歩みを進めた。この場所はこの時期、人の波でごった返している。逸れないように手を繋いで、二人は色々な店を見て回った。肉や野菜の串焼きにポテトなどの軽食、雨やクッキーの甘いもの、青果を売ってるような店もあった。
何かほしいといえば店の方から来るような家だし、出かけるのが好きなエレナでも流石に人混みは苦手だが、こうして二人が出かけるのは遊びに来ただけではなく、エレナはクタヴェートの人間として騎士の様子を見に、ルゼルトはシエラヴェールの人間として街全体の様子を見る必要があるのだ。シエラヴェールのみが使える最上級魔法──精霊召喚が使えれば星見や千里眼なんかよりもきっちりと様子を見ることが可能だが、ルゼルトの精霊召喚はまだ未熟だ。
「凄い人ですね……」
「ええ、活気があるのは何よりですが、ここまでとは……去年とは比べ物になりません」
毎年ここは賑わう、だが今年は格別だった。それもこれも、今年はミルガラという名前のケーキ屋が野外販売をするという話のためだ。人気のはずだ、何しろミルガラは王室御用達のケーキ屋なのだから。去年までは水祭りなど関係なかったその店が、今年始めて一般向けへの販売だ。他の甘いものなど目もくれず、みんながみんなそこへ向かっていることだろう。田舎住みのエレナも知ったときには興奮していたし、それは勿論ルゼルトも知っている。従者のアザンツが、エレナのメイドのジェシーから聞いたらしい。二人は従者同士で仲良しだ。
「エレナどうしましょう、ミルガラへ向かいますか?」
「は、はい! できれば……! 自分の足で……!」
そうというのなら仕方ない、お姫様の願いを叶えるのは王子様の役目だ。
「では行きましょうか。しっかり捕まっていてください」
ルゼルトは笑って繋いでいた手の力を少し強めにした。早く行かないとおそらく売り切れる。ただでさえ出たのは午後の3時前なのに。
販売所は大通りの端、王宮に一番近い場所だ。ようやく店の看板が見えたところで、カランカランと鐘の音が聞こえた。それとほぼ同時に、人が次々とその場から散っていく。…………売り切れたのだろう。
「……見に行くだけ行ってみますか?」
「……そうですね、何があるのか知らないと、明日迷ってしまいそうですもの」
残念、食べたかったなどの言葉を溢しながら去っていったり向かいにある屋台を覗いたりする人々と逆の方向に足を進め、二人はミルガラの屋台の前に辿り着いた。
「……あ」
さっきのは商品完売の合図ではなかったらしい。『ケーキの完売』だったのだろう。まだプリンが2つだけ残っていた。甘党のエレナが期待を込めた目でルゼルトを見ると、ルゼルトは懐から財布を取り出した。
「プリンを、ええと……」
「……あぁ。2つ頂きましょう」
牛乳が苦手なことはあまり知られたくないため、こういうときにエレナが買うときはルゼルトも買う。プリンは後でアザンツにでも上げるのだろう。ルゼルトはプリン2つ分の硬貨を払い、紙袋を持った。
「早く帰りましょう、旦那様!」
「ふふ、はいはい」
二人は城へと戻っていった。
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