Ⅶ
夜になって、エレナは渡す予定だった本を食後にルゼルトに渡してみた。生まれてこの方、本と言えば魔導書か教育本しか手にしたことのないルゼルトにとっては初めての娯楽の本だ。
「作者は……マルレナ・カーター? エレナが好きな作者ではありませんでしたか?」
「あら、覚えていてくださったのですね」
「その作者の本をなぜ?」
「旦那様はご存知ないかもしれませんが……」
ずいっとエレナは、ルゼルトに顔を寄せた。目を丸くしたルゼルトに笑みを浮かべる。
「旦那様、以前仰っていましたよね。これといった趣味がないって。でも私から延々話し続けるのも、正直どうなのかと思うのです」
「私は気にしませんが……」
「旦那様は気にしないでしょうが、私が旦那様の話を聞きたいのです」
……ルゼルトに趣味がないのは、趣味に使えるような時間がなかったからだ。娯楽のための本も、散歩も、運動も、そのために使える環境で育たず、その楽しさを知らないまま成長してしまったのは、エレナも知っている。幼い頃父に連れられこの城へ来た時の最初の記憶──4歳の冬。その頃には彼はすでに、魔導書を片手に城の地下で魔法の練習をしていた。今でこそエレナとの時間を多く取るようにしてくれているが、それまではティータイムに会話をそこそこ、といった風で、今のように長い時間を取るようにしてくれたのは、彼が数年前の水祭りの最中、両親を失ったときからだった。
人と過ごす時間の大切さは十分に思い知った。だが、その過ごし方を──自分の好きなことを相手に話すことは知らない。だからこそ、最初に触れる娯楽が楽しいものであれば、きっと彼はその魅力に気づいてくれるだろう。そのために持ってきた本が女性の同性愛というのはどうなんだという話だが、そこはまぁエレナのような女性の思考回路の末のためツッコんではいけない。
「…………」
ルゼルトはパラパラと適当に本を捲った。文字、文字、文字、たまに句読点、文字、文字、たまに感嘆符、文字、文字……普段読んでる魔導書に出てくる魔法陣の模様や儀式の様子を示した絵などは一切出てこない。小説とはこんなに、滝のように文字が降りてくるのかと唖然とする顔は、気が乗るとは言えない様子だ。
「気が乗りませんか?」
「あ、いや……そうではないのです。ただ、慣れなくて……」
苦笑いを零す顔に、エレナは少し残念そうな顔をした。読んでみれば面白いのに、その一歩が踏み出せない。小説が好きな人にはその気持ちなんてちっともわかるまい。小説が嫌いな人にもまた、その感覚は掴めない。そもそも小説を読んでみようなんていう方向の好奇心は余程のことがないと芽生えないのだから。エレナは前者だが、できるだけ彼の気持ちに寄添おうと、彼がその少し骨ばった手でページを捲るのを待った。数秒して、ルゼルトはほんの表紙を開いた。一枚、表紙と同じようにタイトルと作者名が記されたページを捲れば、そこからは文字の洪水だ。ルゼルトは何も言わずに目を通した。
少しふせられた目は長い睫毛に隠れ、その隙間から宝石のような青い瞳が右へ左へ動くのが見て取れる。……綺麗な人だ。ある時に、そう思った。
それは、まだ恋という感情も知らない頃の話。好意を表すのに、好きという単語しか知らない頃の話。恋愛、家族愛、慈愛、博愛、その違いすらもわからない頃の話。生まれたときに決まって、何度も会ってきた婚約者を見て、あぁ、この人は綺麗な人だと認識した。大賢者たる父方の祖父とは似ていないので、母親に似たのだろう。彼とともにいる大人は大体両親ではなく大賢者の方だった故に、ルゼルトの父母の顔についてあまり記憶はないため、推測の話でしかないが。
自分の夫が綺麗な人であることに関して、文句などありようもない。むしろ幸福な話だが──なんとも不遜なことに、自分はある意味では男性に興味を持ち、ある意味では男性への興味を失ったので、意味のあるなしで言えばなしの方に近いのだが。
気がつけば、彼は数ページ読み進めていた。遅いなぁとエレナは苦笑しそうになる。あんなに難解そうな魔導書はぱぱっと読んでサクサクと理解して、魔法式をものにしてしまうのに。彼に言わせてしまえば、人間の感情心理やら行動やら、更には風景のことまで書いてある小説をすらすらと読むほうが難しいのだろうけれど。
「……エレナ、この本は──」
ルゼルトが言いかけたところで、部屋の隅にあった時計がボーンという音を立てた。見てみればもう11時。そろそろ寝ないとメイドに怒られる時間だった。時計が鳴った瞬間、集中していただけに、普段冷静なルゼルトの肩がビクリと跳ね上がったのを見たエレナは笑いそうになったのをとっさに隠したが、当のルゼルトが少し睨むような視線を向けているということはバレたのだろう。
「エレナ……」
「ふふ、ごめんなさい旦那様。それで……その本がどうかしまして?」
「え、あぁ……」
ルゼルトは表紙を見て少し躊躇ったあと口を開いた。
「……これも同性愛の本なんですか……?」
「はい。……あ、でもおわかりかと思いますがこれは男性同士ではなく女性同士のものですよ」
そもそも同性愛を嗜んだことのない人間からすればだからなんだという話だが、ルゼルトは黙った。言わなくてもエレナには十分彼のそんなことを言われてもと言いたげな顔は伝わっている。
「殿方というのは男性同士よりも女性同士のほうがお好きという噂を聞いたことがあります。さすれば旦那様も読めば好きになるのでは、という考えのもと持参した次第です」
「……なるほど……? いや、しかし……それは噂話なんですよね」
「しかしながらルゼルト様!!」
「うわぁっ!?」
バンっと開かれた扉に、二人は椅子から落ちそうな勢いで驚いた。そこにいたのはアザンツ・パージー、ルゼルトの従者で、彼にはアズと呼ばれている。一体いつから話を聞いていたのか。もちろん彼とルゼルトが一緒にいてもエレナは嬉しい。特に、誰にでも敬語を使うルゼルトが彼を相手するとなると……。
「ちょっと……驚かせるなアズ」
……と、敬語体でなくなり少し幼くなったように感じるのがなおのこと嬉しい。
「これはこれは失礼しました。しかし、少し話を聞いていたところ、いても立ってもいられず……」
あと数分話しているようであれば、早く寝るよう促そうとしていたらしい。
「立ち聞きは感心しないな。あまりそうするようだったらその双眼を潰すぞ」
「ええっ!? そんな! 生きていけないではないですか!」
「……あの、ところでアザンツ。しかしながら、ということは……」
おずおずとエレナが口を開くと、パアッと太陽のような笑みを浮かべてアザンツはエレナを見て頷いた。
「はい、エレナ様! 不肖ながらこのアザンツ、エレナ様と同じように同性愛を好き好んでおります……!」
「そうだったのですか!」
「初耳なんだが……」
「いえ、その……バレるのが少し恥ずかしくて……しかしルゼルト様が今後好きになるかもしれないとならば無用な心配かと思いカミングアウトも合わせて魅力を紹介しようかと」
「紹介されても……」
「アザンツ、
「はっ……し、失礼いたしました……」
彼は失敗した、というように頭を下げた。……この前向きで明るい従者には助けられることもあるが、困ることも非常にある。
「本は明日も読みますね。今日は寝ましょう」
「はい。おやすみなさいませ旦那様」
「えぇ、また明日」
手を降ってエレナを見送るルゼルトの袖を、アザンツがエレナにバレないようにクイッと引っ張る。エレナが部屋から出ていくのを確認したあと、アザンツとルゼルトも部屋から出た。
エレナとルゼルトの寝室は隣り合っているが、二人は寝室へと向かわない。二人が向かうのは城の地下だった。
「教会は」
「まだ嗅ぎ付けていませんが、お早く」
この城の地下深く。シエラヴェール家の人間と、その人々から厚く信頼を置かれている一部の従者しか知らない開かずの扉の奥の鉄格子の嵌められた部屋にそれはいる。ルゼルトは鉄格子の向こうで、横たわったままこちらを見るものに顔を歪ませた。
「……お前のせいだぞ」
そう言いながら、その部屋に気配遮断と音声遮断の魔法をかける。冷たくそれを見下ろしたあと、ルゼルトはアザンツを引き連れて地上へと戻っていった。
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