4/8
そして……
僕の目の前に、「安眠スイッチ」がある。
正真正銘、僕が自分で買ったスイッチだ。
ただ、その値段は安かった。
「こんなことなら、ちゃんと正規の料金を払っておけばよかった……」
だからと言って、100%安眠できる保証など、どこにもないのだが。
「あんなに希望に満ち溢れていたのに、今は死ぬのが怖くてたまらない……」
笑い話さ。
こんな風に悩んでいる人間が、たくさんいるんだろうな。
僕は芽の出ない脚本家だ。
毎日ファミレスでキーボードを打っては、積み上がるつまらない文章に嫌気が差す。
大小さまざまな賞に応募するも、最終選考まで残ったことはない。
バイトで貯めた金を切り崩し、それでもコツコツと脚本を書く。
たまに劇団やセミプロの映画監督に使われることもあるが、ほとんど金にはならない。
親に頼み込んで金を借りた。
できるだけ安く手術をしてくれるところを探し出して、「安眠スイッチ」を買った。
安心を買うつもりで手を出したのに、押す勇気もなくなった。
結局「不安」を買っただけだった。
「高い授業料だったな、はっはっは」
なんて、笑っていられればいいけれど。
だけどそんなことができる奴なら、「安眠スイッチ」なんて買わないだろう。
このことを脚本に生かそうと考えたこともある。
けれど結局、どうしたってつまらないストーリーにしかならなかった。
「安眠スイッチ」を題材にして、すでに成功している小説と、映画と、アニメがある。
二番煎じになるだけだ。
僕程度の力量では、それらを超えることなんて到底できない。
今日もPCをカバンに入れて、僕はファミレスへ自転車をこぐ。
安眠スイッチもカバンに入れてある。
怖くてとても手放せない。
「……眩しいなあ」
信号待ちに空を見上げてみると、雲一つないきれいな青色だった。
「気分がブルーだ」なんていう言葉には、青空の下で働きたくない黒人奴隷のつぶやきから始まったという説があるそうだ。
「雨が降れば休めるのに」なんてお気楽にも聞こえるが、彼らには重要なことだったのだろう。
確かに青空は、僕にとっても見上げているとブルーになるものだった。
信号が青に変わる。
交差点を、人の間を縫いながら自転車で渡る。
一瞬、意識が遠くへ行く。
ぼうっとする。
僕は風のにおいをかいでいたのだろうか。
遠く昔の黒人奴隷に思いをはせていたのだろうか。
それが悪かった。
右から来るもう一台の自転車に気づくのが、一瞬遅れたんだ。
ガチャン!
自転車から投げ出される。
地面に転がりそうになり、とっさに手を着く。
手のひらにざりっとしたアスファルトの感覚、そして痛み。
少し遅れて腰に痛み。足首に痛み。
数秒、動けなかった。
「いでで、くっそ、ついてない……」
はっとして、見渡す。
僕のそばに、僕と同じように倒れている女の人がいた。
しまった、彼女とぶつかってしまったんだ。
ケガはないだろうか。
「あ、あの、すみません、大丈夫ですか!?」
「……ええ……すみません……」
彼女も体を起こす。
小さな擦り傷が肘にあったが、それ以外に大きなケガはないようだった。
少しホッとする。
赤色の派手な自転車が転がっているが、そちらも壊れてはいない。
「すみません、不注意で」
「い、いえ、こちらこそ、すみません」
身体は少し痛いが、大したことはない。
PCを入れたカバンも落ちてはいるが、あれくらいの衝撃なら中身は大丈夫だろう。
安心したのも束の間。
「……え?」
僕は目の前の光景に目を見張った。
「安眠スイッチ」が地面に転がっている。
なぜか……二つ……
「……え? え?」
そのスイッチを見て、彼女の方も顔色を失っていた。
「うそ……うそ……」
そう言ってスイッチに飛びつく。
しかし、どちらを手に取っていいかわからないようだ。
僕もそうだ。
なんということだろう。
僕たちは二つのスイッチを前に、茫然と座り込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます