第10話 その頃のクラウド-1
時は少し遡る。
バレンス侯爵家では、執事が深々と頭を下げ、待ち望んでいた知らせを届けていた。
「クラウド様、無事に生贄は魔界に送られたと、先ほど神殿から通達がありました」
「そうか」
ゆったりと一人掛けのソファに座り、報告を聞きながらクラウドは安堵した。
まだ昼にもなっていない時間だが、その手にはお気に入りの果実酒の入ったグラスが握られている。
勝利の美酒だ。
――これで、やっと全てが終わった。
生贄が誰であるかは、公には知らされない。
人一人いなくなるわけだから、すぐに知られることにはなるのだが、生贄の名誉のためと銘打って正式な公表はないのである。
しかし、クラウドは誰が生贄になったかをよく知っていた。
クラウドは自らのことを愛に生きる男だと自負している。
守るべき愛の為ならば、どんな非道なこともできると。
それでも、微塵も気持ちのない相手に優しく機嫌を取って、気のあるふりをして、嫌悪を顔に出さずにいるのはなかなか骨が折れることだった。
(だが、それもついに終わったんだ)
なかなか思惑通りに事が運ばず、最近は忙しかった。
なるべき人間が生贄になるよう、裏から手を回し続け、それとなく誘導し、やっと手筈が完全に整ったのはギリギリのタイミングだった。
そのせいでここしばらくは愛する彼女ともなかなか会えずやきもきしていたのだ。
本当は神殿が生贄を迎える時間が過ぎた後、すぐに彼女の元へ会いに行きたかったが、さすがにそれは自重した。
クラウドが内心はどう思っていようが、表面的にはそれなりに良好な関係を続けていたのだから、少しぐらいは悲しみのポーズをとる必要があるだろう。
(今からでも行きたいところだが、明日までは耐えるか……)
まだ細々とした問題は残っているが、一番の懸念は消えた。あとはどうにでもなるだろう。
――本当に長かった。
本来のクラウドは別に悪人というわけではない。
ただ、守るべきもののためには手段を選べなかっただけだ。
もう心を鬼にする必要もなくなり、解放感に溢れていた。
(すぐにこの別邸に移って、彼女を迎え入れようか。そうだ、そうしよう。もうひとときも離れていたくはない)
愛しい人の喜ぶ顔を思い浮かべて、クラウドはこれからの幸せに思いを馳せる。
しばらくすると、屋敷の中がにわかに騒がしいのに気づいた。
(なんだ? 来客か? それにしては騒がしいな。もめているのか?)
面倒な客ならば、自分が出た方がいいだろう。
そう思い、エントランスへ向かおうと立ち上がった時だった。
部屋の扉がノックもなしに開かれ、無作法に驚いた瞬間、クラウドの胸には一人の女性が飛び込んできた。
「クラウド! ああ、私うれしいっ!」
甘えを含んだ声。淡いミルクティー色の髪が揺れ、クラウドの頬を撫でる。
――エリザだ。
「エ、エリザ……!? どうしてここに」
少し前のことだ。
今は皆が敏感になっているだろうからしばらくは会わない方がいい。
生贄が魔界に送られ、ほとぼりが冷めた頃に正式に婚約を申し込みに行く。
クラウドはそうエリザに告げていた。
「来ちゃってごめんなさいっ! でも、どうしてもクラウドに会いたくて、私っ我慢できなくて……」
しかしクラウドが動揺しているのはエリザが自分に会いに来たせいなどではない。
「クラウドのことは信じていたけど、私やっぱりずっと不安で……でもこうして約束を守ってくれて本当に嬉しいわ!」
エリザは嬉しそうに何か話し続けているが、全く聞こえない。
なぜならば、エリザがここにいるわけがないのだから。
クラウドは、確かにエリザが──生贄に選ばれるようにした。
クラウドは、婚約者であり恋人であるセリーヌのことを心から愛していた。
その愛は時間が経つにつれどんどん大きくなるばかりだ。
それこそ、セリーヌを守るためなら、真綿に包むように大事に、平穏に過ごせるようにするためならば、どれほどひどいこともできるほど。
そんなクラウドが誰よりも非道になれる相手、それがエリザである。
生まれた時からの幼馴染。互いの母親が知り合いで、特にエリザの母親がクラウドの母を慕っていた。
その縁で確かに小さな頃から両家を行き来し、共に過ごすことが多かった。
クラウドにとってはただそれだけだ。しかしエリザは違う。
見目麗しく、優しく王子様のようなクラウドと自分。その関係は運命で結ばれているのだと思うようになった。
ただ夢を見ているだけならばいい。
エリザとの出会いよりは後だったが、クラウドとセリーヌもまた子供の頃に出会い、婚約は結ばれた。
だからエリザもいつかは現実に気づく時が来るはずだ。
しかしエリザは夢が覚めることを絶対に許さず、現実と夢の齟齬を排除しようとした。
あちこちで意味ありげにクラウドのことを含みのある話し方で語って見たり、セリーヌの悪評を流そうとして見たり。
愛するセリーヌの前でまるで自分が恋人であるかのようにべたべたと触れてきたり、親しげに振る舞ってきたりしたときには殺意すら湧いた。
(俺の愛するセリーヌを少しでも傷つけるならば、幼馴染だからという情けも何もない)
だから両親にも自分の思いを打ち明け、それを聞いた母も不快に感じエリザの母との付き合いをやめた。元々自分をあまりに慕うから受け入れていただけの関係だった。
それで少しは自重するかと思ったが、エリザはエスカレートした。たくさんの男に女として色目を使い、自分にも媚を売りながら隙あらばセリーヌを傷つけようとする。
いつのまにか嫌悪を超えて憎悪すら抱くようになっていた。
逃れられない醜悪な執着。
――魔王が生贄に乙女を望んだのを聞いて、これしかないと思った。
だから、最後にひと芝居を打ったのだ。
エリザが油断して、自分の思惑通りに動くように。
それはとても簡単なことだった。
エリザが決して生贄の対象外にならないように、言葉だけで期待させ、抜け道のために仮の婚約も結ばないように約束を与え、自らも手をまわしエリザの信望者である馬鹿な男が無理にでも婚約できないように阻止した。
(セリーヌに会えないことは辛かったが、少しの辛抱だ。その後にはなんの憂いも残らないのだから)
あとは時を待つだけで良かった。
今頃エリザは自分を恨みながら生贄として魔界に降り立った頃だろう。
そう思っていたのに――エリザはここにいる。
(待て。それなら、誰が生贄になった……?)
「きゃっ! クラウドっ!?」
嫌な予感がする。
クラウドはエリザを突き放し、急いで屋敷を飛び出した。
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