第2話 どうして死ななかったの?



 目が覚めると、温かな寝台の中にいた。


 儀式でルシアンと口づけした後の記憶がない。どうやらセリーヌはそのまま気絶して、ここに運び込まれたらしい。


 ぼうっと天井を見つめながら考える。


(私、生きてる……)


 あの大聖堂が自分の最期の場所になるのだと思っていた。

 こうして眠ることももう二度とないのだと。


 けれど、セリーヌはまだ生きている。

 そして魔王ルシアンも死ななかった。


(どうして魔王様は死ななかったの? ……口づけを交わしたのに)


 聖女であるセリーヌとの口づけは、魔王ルシアンにとって猛毒となるはずだ。


(まさか、軽い口づけだったから?)


 経験のないセリーヌでも、口づけにもっと深いものがあるということくらいは知っている。

 そこまで考えて、顔が熱くなるのを感じた。


(そうよ、私、初めて口づけを交わしたんだわ)


 あの時は死が目の前に迫っていると思っていたから、口づけそのものについて考える余裕もなかった。

 あったのは、これから魔王ルシアンが死ぬことと、自分の命もすぐに奪われるだろう、ということに対する緊張だけ。


 けれどこうして生きながらえた今、セリーヌは込み上げる恥ずかしさに身もだえる。


 そっと唇に指を伸ばす。

 あれだけ他のことで頭がいっぱいだったのに、こうして思い出してみると初めての感触が鮮明に蘇る。


(少し熱くて……思ったよりも、柔らかかったわ)



「セリーヌは目が覚めたのか」


 ふいに部屋の外から漏れ聴こえた声に、ハッと緊張が走る。

 魔王ルシアンの声だった。


「いいえ、まだ眠っておられます」

「そうか……」



 途端に頭が真っ白になる。

 儀式の最中のルシアンの冷たい視線と言葉を思い出し、身も凍る思いだった。


 それに儀式の口づけで全てが終わると思っていた。だから、これからどうすればいいのか、何が起こるのか、全く考えたことがないのだ。


(そもそも儀式自体はあれで終わりだったの?それならば、私の体は魔王様の魔力を馴染ませている最中ということよね? つまり今はどういう状態?)


 考えても答えは出ない。

 混乱している間にも、部屋の扉が静かに開いたのが分かった。


 コツコツと音を立ててルシアンが近づいてくる。


(ど、どうしよう)


 部屋は薄暗いが、近づけば顔が見える。

 セリーヌはとっさに固く目を閉じた。


 甘い匂いが漂い、ギシリ、と音がして、ベッドが少し沈む。

 ルシアンがすぐそばに手をついたらしい。


 何をされるのか。自分はどうすればいいのか。


「ああ、セリーヌ……よかった、顔色は悪くないようだ」


(え?)


 思いの外優しい声と言葉にこっそりと薄目を開けると、言葉以上に優しい表情のルシアンがこちらを見つめていた。

 まるで本当にセリーヌの身に何もなくて安堵しているように見える。


(……え?)


「……明日、またくる」


 ルシアンは囁くようにそうに言ってセリーヌの額にキスを落とすと、すぐに部屋を出ていった。

 残されたセリーヌはパタン、と閉じられた扉を呆然と見つめる。


「今の、なんだったの……」



 唇の触れた額が、ものすごく熱い。


(魔王様の、声とか表情とか、儀式のときとはまるで違って、優しくて……本当に私を心配してくださっているように見えたわ)


 違う。そんなわけがない。

 セリーヌは生贄なのだから、優しくされる理由がない。


「きっと、私を食べる時に美味しさとか、そういうのが変わってくるんだわ。うん、そうに違いない」


 だって、そうでもなければおかしい。


 ――少し冷静にならなくてはいけない。気持ちを落ち着かせよう。

 セリーヌは魔王ルシアンが死ななかったことについて、自分なりに考えてみることにした。





 ──セリーヌが生まれ育った国、ルグドゥナには「聖女の伝説」と「魔王様へ貢物を捧げる習慣」がある。


 人間は魔族に対抗する術を持たない。魔法は使えるものの人間の中でも特別に魔力の多い者でも魔族の足元にも及ばないし、普通の剣ではどれほど腕が良くても彼らに傷ひとつつけることはできないだろう。魔族に攻撃を通すには特別な力が必要なのだ。

 ただの人間が決して敵わない存在、それが魔族だった。


 そんな魔族に人間界を不可侵領域としてもらうため、毎年貢物として牛や豚などの家畜や、野菜や稲などの農作物、もしくは魔法石や宝石など、種類を問わず魔王様に捧げることになっていた。


 王宮のすぐ側に併設されている大神殿に、大きな水晶がある。年に一度、その水晶を媒体にゲートと言われる人間界と魔界をつなぐ道のようなものを作り出すのだ。水晶は王族と大神官が管理していて、王家お抱えの上級魔法士が魔法でゲートを通して貢物を送る。


 この国……この世界は、そうして平和を保ってきた。



 そしてもうひとつ、「聖女の伝説」。

 いつか現る聖女だけが、魔族に──ひいては魔王様に対抗する力を持つという、今ではおとぎ話のようになっている言い伝えだ。


 神殿に奉納されている聖書、街中に溢れる物語、小さな子供が親に読んでもらう絵本。あらゆるところに聖女の伝説は記されている。

 書かれ方は様々だけれど、内容は大体同じだった。


『聖女は、その身を賭して悪を滅する』


 聖女の血肉や体液が悪を浄化し、滅ぼすとされているのだ。


 吸血鬼として描かれる悪に、か弱き乙女のふりをして血を吸わせることで。

 人のふりをして紛れた悪魔に、愛を捧げる花嫁の顔をして口づけをすることで。

 ──魔王様に、無抵抗な生贄として、その血肉を食べられることで。

 そうして聖女は悪を滅する。


(だからこそ口づけで全ては終わると思っていたのだけど。やっぱり私のようななりたての聖女じゃ、魔王様を殺すには軽い口づけ程度ではダメだということ……?)



 ……今年、水晶に向かって魔王様から人間へ要求が与えられた。これは、少なくとも記録が残っている範囲では初めてのことだった。


 曰く、『今年の貢物には、とびきり美しく生命力の強い花を所望する』と。


 つまり、美しく若い乙女を生贄に捧げよということである。

 もちろん上級魔法士からそのことを聞かされた神殿や王宮は大騒ぎになった。


 国の重鎮たちによる議論の末、捧げられる乙女は十五歳以上で婚約者を持たない者、そして一定以上の美しさを持つ乙女を選ぶため、なおかつ生贄としての債務を確実に果たすように貴族令嬢と決められた。平民では国を背負う責任を負いきれず、逃げ出してしまう危険があるうえに、王家や神殿への反発につながりかねないと懸念された上での決定だった。

 そうなると今度は当然、国中の貴族たちが大騒ぎになった。


 乙女を選ぶまで数ヶ月という期間の中で、婚約者を持たない令嬢がいる家は、急いで婚約者を決めた。

 とりあえず生贄の乙女が選ばれるまでの間だけでもと、秘密裏に契約婚約が交わされることも横行した。


 けれど、なかには婚約者がなかなか決まらない者も出てくる。


 莫大な借金など家に大きな問題がある者や、令嬢自体の問題行動などにより、そもそも忌避されている者などがその最たる例だった。



(私は、そのどれにも当てはまらなかった。そもそも焦ることもなかった。だって、結婚を間近に控えた婚約者がいたんだもの──)


 実はセリーヌは、その頃まだ自身が聖女であることも知らなかった。

 この生贄騒動は彼女にとって、ある意味完全に他人事だったのだ。


 最近は死が迫る緊張感でそこまで深く考えることもなくなっていたが、やはり思い出すと今でも胸が苦しくなる。



 あれは、生贄の乙女がついに決まる、その直前のことだった。


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