名前の無い女

 ナナシとは、かつて名前すら持たなかった一人の少女のことで、加藤の営む便利屋に住み込みで働く世話係兼ボディーガードだ。平民通りの中でも特にぎりぎりの生活を営む程度の加藤に世話係なんて、日銭の余裕はあるのかと当時の知人はみな不安を感じたものだ。


 そもそもこの少女自体、得体が知れない存在だった。平民通りでは見かけたことがない人間となれば、どこか他所の貧民街から流れ着いた者だと考えられる。しかし、ナナシが常に身に纏っている黒いワンピースは、貧しい人間に手に入るような代物ではなさそうだった。今の世界にハイブランドという概念は無くなってしまったが、上等な召し物であることは見るだけで分かった。


 流浪の民か、はたまた没落した名家の者か。外の街の情報なんて知ろうともしないし知る由もない住民たちにとって、不意に住み着くこととなったナナシは得体のしれない不気味な存在でしかなかった。


 ただしその疑いの目は初めの三日程度だけのものだった。加藤はそれまで便利屋の仕事絡みで危ない人間の諍いに巻き込まれるのも日常茶飯事で、生傷の絶えない生活をしていた。しかし世話係として現れた彼女が、護衛としても働くようになってから一変した。ナナシが傍にいる限り、加藤は傷一つ負わなくなった。


 それに金の使い方も大分ましになった。スロットにお金をつぎ込み、懐を寒くして帰るようなことも減った。食事も健康的になったようで血色もよくなったようだ。ふらふらと街中を歩いていれば、どこからか犬のごとく嗅ぎつけてきたナナシが首根っこを掴んで便利屋の事務所に連れ帰る。


 礼儀も加藤以外には正しいナナシは、いつの間にか平民通りの人間に受け入れられていた。加藤の保護者として、雇い主の加藤以上の信頼を獲得していた。そしてその信頼は世話係としてだけではない、用心棒としてもだ。



「黒い髪、黒いワンピースのガキ。そうか、お前が」

「おや、私を知っているのにナナシと呼ばないのか。さては君は加藤ジョーから金を巻き上げようとする悪い大人といったところか」



 子供らしからぬ言葉遣いに、氷使いの男は辟易とした。まるで豆鉄砲を食ったようである。それもそうだろう、見た目は華奢で麗しい乙女がまるで大人顔負けの毅然とした態度で立ちはだかるのだ。紡ぐ言の葉はどこか演劇じみており、本当に少女なのかと疑うほどだ。


 この特徴は紛れもなく、前任者の報告にあった厄介な護衛と一致していた。かつて加藤のところへ借金の返済のために向かった別の男が、二度もこの女にやりこめられたというではないか。


 人は誰しも精霊の力を利用する潜在能力を秘めている。だが、実際に使いこなすことができるのは稀だ。だからこそ、どうしても金を出さない債務者がいる時に、確実な取り立て役としてこの男がいる。自由自在に精霊の力を行使できる人間の懐にはより多くの金が転がり込む。入ってきた金でまた精霊を使役し、より多くの財を築く。そのインフレのサイクルで巨万の富を得るのが、高度な精霊使いの歩むレッドカーペット。


 その整備された出世街道を歩むためにも、この女は確実に始末せねばならない。本来金を貸した相手でもない、成人もしていないような女を手にかけるのはプライドに障るような気がした。良心の呵責など欠片としてないが、己の価値に絶対の自信を持つ男にとって、こんな華奢な子供一人捻ることなどみっともないように思えた。


 それも、使用できる代償クレジットにも大きな違いがある。こちらの資金は加藤たちと比べるとあまりに潤沢だ。日々の生活に困窮し、かつては男の雇い主から金を借りなくては食うにも困っていたのが加藤である。


 女子供に対し、精霊に支払う資金の量にものを言わせて始末する。その大人げないとも評せる方法に、中々納得できそうにない。しかし、これは仕事だ。万が一その条件で敗走しようものならそれこそ沽券にかかわるというものだ。


 だから万全を期す。二枚目の千円札を取り出し、精霊に食わせる。



「一千クレジット」



 金は虚空へと消え、代わりに自在に操作できる冷気の塊を手に入れる。掌の中には支払った額に値する小さな吹雪。この力でどん底から這い上がってきた。金がなかった頃は人間製氷機の真似事がいいところだった。だが、今や氷雪は全て己の自由自在である。


 いつかはこんな街さえ捨てて、より大きな舞台で高みへと登り詰める。その道の上にある躓きかねない小石はダンプカーでいてでもどけてやらねばならない。



「……本気のようだ。だがすまない、私の手持ちは生憎ほとんど無くてね」



 がま口の財布をナナシは取り出し、口を開けてひっくり返す。見せつけるように大げさに振ってはみたものの、転がり出てきたのは一〇円玉が二枚と一円玉が二枚のみ。先ほど既に使った一〇円と合わせて三二さんじゅうに円が加藤とナナシの残された資金であった。



「君の本気に応えるには少々心もとないが、気を悪くしないでくれ」

「別にスポーツマンシップなんて求めちゃいねえよ。仕事が楽でせいせいするぜ」



 仕事が楽に超したことはない。だが、気を悪くしているのではないかというところは合っていた。金が足りていないことそのものではない。それだけ精霊に支払う代償クレジットに違いがあるというのに、まるで少女からは不安を感じないことが不快だった。


 少し難易度は高いが、何とかなるだろうと。少し難易度の高いゲームに手を出すような緊張感の無さが勘に障った。


 だが彼は、先ほどの加藤救出劇をもう忘れてしまっていた。己の支払った一〇〇〇クレジットとナナシの一〇クレジット、単純計算で百倍もの代償のレート差があるというのにナナシは打ち破っていた。


 金は力だ。それはこの世の中において覆ることはない。だが、それと同時に金は使い道が肝心というのもまた事実だ。金をどぶに捨てるようなこともあれば、少額の投資が後に金のる木になることもある。


 道具は使い道が肝心。精霊がもたらす異能もそれは同じことが言えた。



「すまない加藤ジョー、食材を頼む」



 金だけ手元に残し、夕飯の材料の入った買い物袋とすっからかんのがま口を加藤の方に投げつけた。卵も入っているのに危ないなと、パックの中身が無事なことに加藤は安堵した。


 荷物の心配が無くなったナナシは手慣れた動きで硬貨を両手に二、三枚ずつ振り分けた。左手の人差し指と中指とで挟んだ一円玉が青い光に包まれる。精霊に支払う代償、にしては少々心もとない額が虚空へと消えていった。


 何をしかけてくるか。取り立ての男は身構えるが、情報が無い。先ほど素手でノックをするような動作だけで氷の壁を打ち砕いたが、それだけでは異能は特定できそうもない。


 精霊の力の正体が一方的に割れているのは好ましくない状況だ。手札が割れている側は一方的に対策され、相手の何を警戒すればいいのか分からない。


 クレジットの差は大きい。距離を置いて時間と手数を稼ぎ、相手の金が尽きてしまえば、自分だけが一方的に精霊の能力を利用できる。そのため一歩二歩と後ずさったところだった。ナナシが空いた右手の側で、別のコインを構えていた。手を銃に見立て、親指で弾くことができるように構えているのが見えた。


 コイントスを行う構え。理解すると同時に意図を察する。あの女ナナシは、十円玉を精霊の代償としてではなく、敵を撃ち抜く弾丸として使うつもりだと。



「一クレジット支払ペイアウト



 精霊への投資はたったの一円。だが、ナナシは能力を利用する時間を一瞬に絞った。


 人ならざる者の力に押し出され、弾き出された金属の欠片が宙を駆けた。空を切る音が場を貫き、瞬き一つする余裕も無いまま、男の眼前に銀の弾丸ならぬ銅の弾丸が迫る。


 男の眉間に衝撃が走った。目の前がチカチカする程の痛みが次の瞬間に襲い掛かってきた。たかだか一円分の力だったからこそその程度で済んだというべきか、たかだか一円でこれだけの力をというべきか。目の前が白黒するのに耐えながら、自分の額にぶち当たった衝撃で真上に打ちあがった青銅の硬貨を見つけた。重力に引かれて落ちてくる。落ちたかと思えば、撃ち出した張本人のナナシの掌の内に回収された。


 握りしめた掌の中、今度は回収した十円玉が精霊へ支払われる。握りしめた拳の指の隙間、青い光が漏れだしていた。



「一〇クレジット」



 もはや判断の材料は理性ではなかった。規格外の女がまたしても精霊の力を行使する。目の前で代償が支払われる様子に男は戦慄した。恐怖それがすべてだった。先ほど男が氷雪の精霊に支払った一千クレジット、その全てを吐き出す。


 精霊に与えられた吹雪の塊を、己の目の前に全て展開する。相手の拳を無力化するための透明な防壁が現れる。結晶にひびが入るのに似た、小気味よい音を奏でながら、厚い板を男は錬成した。漂うように周囲へと広がっていく、肌を撫でる冷気に、集まった群衆は頬を強張らせた。


 不安の象徴のような氷のオブジェクト。だが、頼もしい正義の味方のような乙女は次の瞬間、その不安ごと目の前の壁を打ち砕いた。目にもとまらぬ早業で、彼女の右手が目の前の壁を打ち砕く。貫き、壊し、道を切り開く。


 一拍置いて歓声が沸く。先ほど加藤の窮地を救ったのと同じように、氷壁の残骸がアスファルトの地面を打ち鳴らす。舞い散る氷の欠片さえも、彼女への喝采を送るようであった。


 容易く自分の力がいなされることに、男は焦燥を覚え始めていた。今まで自分は生まれが悪いだけで、搾取する側へ成り上がるだけの資質は持ち合わせていると信じ、疑っていなかった。


 だが今、男の世界は塗り替えられた。価値観は塗り替えられた。小銭しか持ち合わせていない女に圧倒されている。その事実に自尊心はへし折れ、闘争本能の刃はもはやなまくらになっていた。


 男の意識を何とか現実に繋ぎとめたのは、これが仕事だということだ。負け犬になりたくないという想いもあるが、もうとっくに心の根っこが敗北に染まっていた。だが依頼を受けた以上やり遂げねばならない。力を持つ人間が正義の世界では、敗者は全てを奪われる。自分が奪う側だったからこそそれは熟知していた。このままでは依頼主の金貸しからどんな目に遭わされるか分かったものではない。


 彼のプライドをへし折ったのが少女ナナシに叶わないという絶望だったならば、今ここに男を繋ぎとめているのもまた、この後待ち構えているであろう別の絶望だった。


 そんな逃げ腰の男には勝利の女神も、精霊も微笑むことはない。彼と精霊との間に交わされた取引はいつしか、取引ですらなくただの搾取になっていた。


 後、たった一一じゅういち円ぶんのクレジットさえ吐かせてしまえばナナシは何もできなくなるというのに。そんな簡単なことでさえ、成し遂げるビジョンがもう見えなかった。



「一千クレジット、追加だ」



 もはや声すらも震えていた。縋るように精霊にまた代償かねを渡す。虚空へと消えていく紙切れは、何だか今はやけに虚しく見えた。


 それに比べナナシはというと、金額の多寡に関わらず神々しく青い炎を浴びている。彼女が代償を支払う精霊は、単なる腕力の精霊だ。金を払えば額に比例した一定時間、肉体が生き物に許される埒外らちがいまで活性化される。



「一〇クレジット」



 残るはたったの一円。それなのに、焦る素振りすら少女は見せない。吐息のリズム一つ乱すことなく、直後に放たれるであろう冷気の襲来に備える。


 彼女を囲うように並んだ氷の槍が、四方から彼女を同時に襲った。ただの力技ではどれか一つは必ずナナシの体を貫くことができる、その算段だったというのに。


 目の前で、黒い衣装が大きく揺れた。空を自由に踊る蝶のように、少女の体が旋回する。次の瞬間、氷の槍を彼女の靴が蹴り飛ばし、踏み砕く音が幾重にも重なり、トレモロのように鳴り響いた。


 地を蹴り飛び上がったナナシが、氷上の妖精スケーターのようにそのまま回転、全方位から迫る凶刃をまとめて足技で薙ぎ払ったのだ。もはや人間業ではない。それでも、精霊と息を合わせれば可能な芸当だ。


 宙を舞う少女の姿に、美しさを覚えた。息を呑み、思考も、警戒も、全て忘れてしまう。何も見目麗しいという訳ではない、その戦い方が、生き方が、まるで運命に導かれているようにまっすぐだったから。



「一クレジット」



 だから、防御も回避も迎撃もできなかった。

 加藤の護衛をしてきた経験上、普通の人間は多少頑強でも、多少貧弱でも、顎を指で多少弾いてやれば軽い脳震盪を起こすと理解していた。ちょっと弾いてやる程度でも、精霊の力を借りている状態ならばボクサーのジャブ以上の力はある。


 顎に綺麗に拳を入れられた格闘選手と同じように、取り立ての男はその場でノックダウンした。ゴングは必要ないだろう。



「助かったぁ……」



 華奢な少女の後ろ側。三十路手前の大の大人が大げさに胸をなでおろし、安堵の余韻に浸っていた。その様子に街を行く人々は途端に苦い顔をする。元はと言えば全部加藤が原因ではないかと。あまりに法外な利子をかけてきた金貸しも法を犯していると聞いてはいるものの、そんなところからしか借りられなかった加藤にも問題がある。


 だが、ご近所さんたちの白い目など、加藤はまるで歯牙にもかけない。食材の無事を確認し、一先ず帰路につこうとしたところだった。飄々としていた加藤の表情がとうとう強張る。立ちはだかったのは当然、世話係のナナシだ。



加藤ジョー、私は事務所から絶対に出るな、誰が来ても居留守を使えと言ったはずだが、どういうことだ」


「待てナナシ、これには色々と訳があるんだ。いつもと違ってマジなやつが……」


「君の言い訳はいつもマジなやつで、いつも実質を伴っていないはずだが」



 一応主ではある以上、精霊の力を使う訳にはいかない。生身で一発痛い目を見せてやろうかとしたところだった。ナナシと加藤の間に割って入るように、小さな男の子が姿を見せた。必死で走ってきたのだろうか、大粒の汗を顔じゅうに浮かべ、息を切らしている。この小さな子供は誰だろうか、振り上げた拳をナナシは下ろす。


 息も絶え絶えなまま、男の子は語りだす。半分ボロ布のようになってしまったTシャツを着た、瘦せこけた少年はナナシに頭を下げた。



「ごめんなさい! 僕のせいなんです」



 初めて加藤の言い訳が本気マジなやつだったことにやや面食らったナナシは、一旦事務所に戻って彼らの話を聞いてみることに決めたのだった。

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