代償スピリット

higan

精霊との商談

 金は力だ。かの小説フィクションの中のロックスター、ジャッククリスピン曰く「金と力、それさえあれば世界だって変えられる」とのことだ。ならこの世界を生きる人にとって、金は絶対の権威となる。


 力を金で買い取る。こんな世界じゃ大切なものを守るためにも金が要った。物言わぬ精霊たちに貨幣をベットし、その代価として精霊の力を借り受ける。精霊は気まぐれだが、その価値観は一致している。より多くの金をくれる人間にはより有用な力を与える。精霊によりけり、代価として与えられる異能は異なるが、金額の多寡によってふるまいを変えるのは共通の性質らしかった。


 どんな精霊が、誰に対して助力するのかは誰も知らない。もしかしたら精霊は大いなる存在として一人いるだけなのかもしれない。または、いないのかもしれない。精霊がいると言ってはいるものの、精霊を見たことがあるものはいなかった。ただそこに、現象として存在する。硬貨を、紙幣を差し出し、支払ペイアウトう。その瞬間にどこからか力が与えられる。


 絶体絶命の危機に、人々が祈りを捧げるのは神様仏様ではなくなった。信じられるのは金と、金を求める精霊様だけ。稼ぎのない人間はゴミだ。


 愛さえあれば他には何もいらない。そんなきれいごとを口にする人間なんて、いなくなって久しい。


 こんな世界は不健全だ。加藤は常にナナシにそう言い聞かせていた。自分のだらしなさと不甲斐なさなど棚上げにして、だ。


 加藤がどれだけみっともない人間なのかは、例を挙げようとすれば枚挙に暇がない。しかし、過去の事例を持ち出す必要も無く、彼の現在がよほど雄弁に物語ることだろう。加藤という男の甲斐性の無さは。



加藤かとー! いい加減にその借金、臓器からだで払いやがれ!」

「まあまあ待ってよお兄さん、あと三日、三日待ってくれよ。そしたらその間に一千万くらいごろっと入ってくる予定だからさ」

「うるせえ、そう言ってのらりくらりと三か月は滞納してんじゃねえか!」



 そもそも街の便風情がそんな急に荒稼ぎができる訳もないだろうと、いい加減な加藤の言葉に青筋を浮かべる。別に未来を知ることができる訳でもないのに、どうして彼の言葉を信用できるというのだろうか。浮気調査で数万から十万少々、壁紙の張替えやビルの壁面掃除で小銭稼ぎ。それが便利屋加藤の主な収入源だ。どうやって三日という短時間で一千万も稼げるというのか。責任感のない彼の言葉に、金貸しの取り立てはご立腹である。


 治安も悪ければ空気も悪い。時代が時代ならば加藤の生きるこの街はスラム街と呼ばれるような場所だった。少しばかりましな住民が暮らす大通り、通称平民通りに居を構える人間だけが健全な生活を営み、細い路地の隙間ではその日暮らしさえ困難な民が残飯を漁るようにして暮らしている。


 加藤は辛うじて平民通りの人間だった。しかし、本人の浮雲のような生き方のせいで、年々借金は嵩み、その返済はぎりぎりになっていく。臓器を抜かれるのは、遠い海に沈められるのは、果たして明日か来年か。一度でも加藤と話したことのある人間はそのような事を言う。



「ナナシちゃんも大変ね」



 毎日のようにそんなことも言われたりする。大変なんてものではないと、加藤の助手である少女がぼやいた数は、きっと両手では数えきれないだろう。


 支払いをただ待つだけならば取り立ては困難。そう判断した場合、金貸しどもは実力行使を厭わない。こんな荒れた街の金貸しが合法的でクリーンな営業をしているはずがない。そもそも大して金遣いの荒くない加藤が借りたのは当面の生活費としての二〇万程度のものだ。それが法外な利子のせいで風船みたいにぱんぱんに膨らんで今や三〇〇万である。


 とうとう破裂寸前。結果、金貸しの方も実力行使に出ることにしたのだ。当然彼らの利子のかけ方は出るところに出れば咎められることだろう。しかし、この街にそんな法治の正義は存在しない。金がない奴がゴミならば、借りた金を返さない奴はとっとと死んだ方がいい。だって生きているだけマイナスなのだから。それがこの世界の常識だった。


 冷や冷やとした様子で平民通りの住民はその追っかけっこを眺めていた。だが、誰も止めようとはしなかった。加藤のことが嫌いではないから、捕まらないでくれと願いつつ、金貸しは怖いから助けてやることができない。だから何とか逃げ切ってほしいと、精神を憔悴でじりじりと擦り減らし、固唾をのんで見守るのだ。



「止まれ加藤、止まらなかったら分かってんだろうな!」



 紙幣を取り出し、取り立ての男は振り返った加藤に見せつけるようにちらつかせる。この世界においてそれはただの通貨を露出させる以上の意味を持つ。ただの紙切れなどではない。今この瞬間においては、銃やナイフを街中で掲げているのと同じ、あるいはそれ以上の脅迫の意味を持っていた。



「分かってるよ! でも捕まっても同じなんだから逃げるしかないだろ! てか金回収しようとしてる奴が無駄遣いしようとしてんなよ、その金くれ!」

「開き直ってんじゃねぇ! それに見せしめだから無駄じゃねえよ」



 ただ街中のごろつきが勢い任せに怒鳴りつけていただけの声だったのに、不意に金貸しの男の声が研ぎ澄まされる。鬼ごっこに付き合ってやるのは終わりだと言わんばかりに冷酷な声に、流石の加藤も背筋に冷たいものを感じた。不味い、早いところナナシと合流しなければ。なけなしの金で夕食の買い出しを頼んだナナシの下へと走る。多分この時間なら、平民通り最奥のスーパーマーケットにいるはずだ。


 しかし、過去に二度ほど実力行使に走った金貸し業者を助手の少女ナナシは撃退していた。その報告があるため、金貸しの男の方も合流を警戒する。今度こそ組織のために加藤の身柄を拘束する必要がある。そろそろ精霊の力を借りて仕事を済ませてしまおう。決断を済ませた取り立ての男は、代償を支払った。


 男の手の中で一枚の紙幣が青い光に包まれていく。ゆらゆらと炎のように揺れる青い光はたちまち紙幣全体を包み込んだ。しかし正しくは炎ではない。燃えることもなく、灰になることもなく、指先でただ陽炎のように揺れている。


 この男が加藤のところに遣わされたのは初めてのことだった。これまで二回失敗した取り立て員ではナナシに対し力不足と判断されたのだろう。より遂行能力の高いエージェントが派遣されたと見るべきだ。要するに、より強力な力を宿した精霊が派遣されている。


 何が起こるか分かったものではない。今にも膝から崩れ落ちそうな体に鞭を打ち、逃げるピッチを上げようとしたが、もう遅かった。



「一千クレジット支払ペイアウト



 加藤の体が小さく震えた。それは何も冷酷な殺気にてられただけが理由ではなかった。瞬間、背後から忍び寄ってきた大寒波に、凍てつきそうになる肉体が出した救難信号だった。顔を傾け、横目で後方の様子を確認する。


 そこには小さな吹雪が渦巻いていた。千円札一枚を代償として支払った代価である。たかだか千円でこの規模の冷気が扱えるとなると、冷蔵庫やエアコンが馬鹿馬鹿しく感じてくる。とはいえ自分の利用可能な精霊のサービスは選べないのだからそんな考えはナンセンスなのだが。


 冷気の塊は加藤を追い抜き、前方に回り込んでその場で氷の壁を形成した。危ない、そう判断した加藤は急減速したものの、ブレーキが中々利かなかった。スケートリンクのようになった足元には上手く力が伝わらない。勢いを殺しきれず、氷の壁に肩から衝突した。辛うじて受け身を取ったため、致命的な怪我はしていないようだが、こぶや打ち身はできてそうに思える。半身を打ち付けた痛みに呻き、凍り付いた路面上で加藤はもがいた。


 その隙にも男は加藤捕縛の手を緩めない。前だけでなく後方、左右、上方と氷の壁を増築し、氷製の箱の中に身柄を拘束した。



「嬢ちゃんと合流しなけりゃこんなもんだろ」



 仕事を遂行しきった安堵のため息さえ見せることなく、気怠そうに横柄な態度で男は首を鳴らした。凱旋の余裕程度は多少持ち合わせているようである。強大な力を持っているが故の自信、そのような本質が男の態度から滲んでいると加藤は痛みにあえぎながらも分析した。


 すぐに精霊に代償を支払えるように、ある程度の通貨をリストバンドに仕込んでいるのだろう。袖のあたりに指を差した男は再び千円札を取り出した。閉じ込めただけではなく、確実に抵抗のできない状態で加藤を処理施設に連れて行こうとのことだろう。


 落胆や恐怖といった、冷たい負の感情が入り混じった視線を向けて、通行人や住民はただ黙っていた。顔見知りがとうとう闇金に捕まってどこかへ売りさばかれようとしている。そんな場面に直面しているのだから。だが、誰も止めることはできない。法外とはいえ金を借りたのは加藤である。そして金貸しは他人に貸すだけの金を持っている。いわば今の時代における力の温床そのものだ。


 それに抗えるほど人々は勇敢でも無謀でも命知らずでもない。一人のだらしなくて愉快で、なぜだか人から好かれる男の人生が閉ざされようとしたとき。ピンと小さく何かが打ち上げられる音がした。


 緊張が場を包み、静けさが満ちた中、小さな金属が弾き出された音に注目は集まる。茶色い円盤状の何かが回転しながら宙を舞っている。それの正体を金貸しの男が見定めるよりも先に、宙を舞うコインはたちまち、青い光に包まれた。炎のように揺れるが、熱を孕まない光。


 それはすなわち、精霊への代償支払いを示していた。


 青銅製の硬貨が青い光に飲み込まれるようにどこかへと消えた。瞬時に警戒と緊張が男の脳裏を支配する。たとえ少額でも精霊に金を与えた時点で力の行使は決定している。


 これは小さな戦争の幕開けだ。精霊使い同士の衝突は、単なる喧嘩に留まらない。



「一〇クレジット支払ペイアウト



 いつの間にか加藤を閉じ込めた氷の牢獄の隣に立っていた少女は、まるでノックするかのように手の甲で二度その氷壁を叩いた。涼しげな表情で優雅な所作で振る舞うものだから誰もがすぐには気づけなかった。それは他愛のない所作ではなく、精霊の寵愛を受けた紛れもない敵意攻撃だということに。


 ノックの後に氷の壁一面に日々が走った。蜘蛛の巣が伸びるようなひびが、少女と向き合っている側の面全体に。次の瞬間、大声をあげて壁は砕け散る。ガラスの破片のように舞い散る氷の欠片たちが地面にぶつかり大合唱を奏でた。きらりきらりと瞬き舞い散り、プリズムのような働きをする欠片に紛れて、虹を浴びたような少女は澄ました顔の上で眉一つ動かそうとしない。


 端正な顔を少しも乱すことなくその少女は加藤に呼びかける。ただし、その声には紛れもなく強い呆れが乗っていた。



加藤ジョー、君はアラサーにもなって留守番一つまともにできないのか」

「ナイスタイミングだ、ナナシ」



 その呆れた声音に気づいていないのか気にしていないのか、救世主である助手、ナナシに向けるように加藤はガッツポーズを作った。

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