第5話 ニルス、移民街を訪れる


 <マルタ市場>を後にしたニルスは、袋いっぱいの商品を子供たちに渡すべく、<エンジェルズ・ハイドアウト>へ来ていた。

ニルスが「エンジェル」と呼ぶ子供たちに会うために。


道化師(ピエロ)たるや、”7つ道具”を持っているものである。

ピエロは、人が悲しんでいる時にふいにあらわれて、笑わせてから、その場を颯爽と後にする。ニルスは天才的なトリックを巧みにいかして、表の社会に存在し続けないようにしていた。建物の上を軽々と越えられる特殊なブーツや、あの日<スペース・ニードル>から姿を消すためにポケットから出した、白濁色のスモッグが現れる緑色の球体などは道具の一部で、ニルスの道具は、「人を楽しませる」ことを目的としていた。


 地上で、人々がニルスの姿をじかに見る者はほとんどいない。稀有な恰好をしていながら気配を消すことができる特別な才能と言うべきか、類まれなるトリックのおかげと言うべきか、ニルスの出没はほとんど予測が不可能なのだ。


ニルスが足を踏み入れた、<エンジェルズ・ハイドアウト>は、煌びやかな<メトロポリタン・エリア>のその先にある、通称「移民街」である。そこでは、年端もいかない少年少女たちや、「国民総幸福」到達寸前の日本の<メトロポリタン・エリア>の裏側を支えるブルーカラーの労働者が多く住んでいた。


 そして、この地域には「渇望の病」は発生しない。浴びせられるようにコンテンツや商品を消費し、際限なき欲望と満たされない絶望の囚人となった人民とは裏腹に、労働の喜びと節制によって人々のつながりが機能するこの地域では、人々の心が蝕まれることはなかった。ニルスが今日もはちきれそうな袋を抱え、<エンジェルズ・ハイドアウト>の住宅街に足を踏み入れると、子供たちの元気な笑い声が聞こえてくる。<Hole in the wall(ホール・イン・ザ・ウォール)>と呼ばれるその住宅街は、建付けの悪いバラックが列挙し、3階建ての経年劣化が激しいアパートが群をなしている。ほとんどのスペースが二つの建物に挟まれているため、声が上へそのまま突き抜ける。


「なあ、ライラック!ここの二つの建物の壁使って、このボールが何回弾むか勝負しようぜ!」


「い、いいよ!」


 住居の陰から、髪を短く刈り込んだ少年が勢いよく飛び出してくる。隣を走っているのは、紫色のショートヘアをした、小柄な少女だ。よく見ると、少年は両手に橙色のボールのようなものを持っており、走りながらそれを「ライラック」と呼ばれた少女に渡す。その途端、儚げな少女の表情が一瞬にして勝気な顔に変わる。建物の奥行きが50mほどに到達した位置で、二人はピタッと足を止めた。少年は、大きく深呼吸をする。


「じゃあ、俺から投げるよ!いけっ!」


少年はそう言って片手に握りしめていた球体を右手側の建物の壁に思い切りぶつける。建物はレンガ造りのため反発力はまずまずであるはずだが、球体は勢いよく弾んで何度も反射し、建物の終わりまであと数メートルといったところでスピードを失い、落下した。


「すっげ!俺が発明した<Attach & Releaseアタッチ&リリース>、人呼んで”アタリ”、大成功じゃん!」


少年は誇らしそうに遠くの地面に落ちた”アタリ”を見つめている。


「ほら、ライラック、次はお前の番!」


その少女は、大きく頷くと、思いっきり右肩を引いて左手側の建物の壁めがけて”アタリ”を投げつけた。それは勢いよく建物の壁にぶつかった、と思われたその時、くしゃっ、と情けない音を立てて潰れ、黄色のインクが壁に広がった。ライラックが、あれ、という顔をしてジュードを見る。

その場所に位置する部屋の窓から数センチのところで潰れたため、音を聞いた中の住民が何事かと窓から顔を出す。


「おい!お前たちか!これをやったのは!」


住民がかなり立腹の様子で怒鳴ってくる。あまりに予想外の出来事に血相を変えてライラックが少年を見る。


「ちょ、ちょっとジュード! あれ”アタリ”じゃなかったの?」


「へへっ、ライラック、また騙されたな!あれはただのインクボール。いたずらだよ、いたずら。」


「そ、そんなの聞いてないよ!どうしよう、あの人怒っちゃってるよ!」

 慌てるライラックに、ジュードと呼ばれたその少年は今にもその場から逃げようとライラックの手を取った。


 一連の様子を遠くから見守っていたニルスが、抱えていた荷物を降ろして二人のところへ近づいていこうとした、その時だった。建物の影から、長い黒髪をさらり、と揺らしながら真っ白なワンピースを着た少女が現れた。黒い髪に、ところどころ青色が輝いており、遠くからでも上品で、神秘的な雰囲気が伝わってくる。ジュードとライラックは、息を呑んでその少女を見る。


「二人とも、またいたずらをしてしまったの?」


鈴の音色のような声、決して大きくはないのに周りが自然と耳をそばだてるような凛とした声が響く。


「わ、私は悪くないよ!ジュードが私にインクボールを「いたずら」で渡してきたの!」

ライラックの必死な弁明に、ジュードは罰の悪そうな顔をしている。


「おい、聞いているのか!」

住民が再び声を荒げる。それを聞いた先ほどの少女は、その住民に向き合う形で前に出る。


「申し訳ありません。二人がしたことは、悪意のないいたずらだったんです。すぐに片づけますので、どうか今回は許してくださいませんか。二人の責任は、私が取ります。」


少女はそう言って、深々とお辞儀をした。少女の声は、まっすぐと住民へ届いた。


「ん、今回だけは許してやる。それでは、さっさと掃除をしなさい。次はこれだけじゃすまないからね。」


住民は、少女に誠意を見せられて良心の呵責に襲われたのか、それだけ言って部屋へ引っ込んでいった。


「もう、また迷惑かけちゃだめでしょ。」


少女は呆れたような、でも慈愛に満ちた厳しくも温かい眼差しで二人に話しかける。

「ごめんなさい…。」

ジュードがそっぽを向いて謝る。


「君は、本当に面倒見がいいんだね。」


いたずらがバレた二人のピンチを察知したかのように一人の少女が現れたとき、ニルスは思わず足を前に動かしていた。少女が深々と誤り、二人を叱ったあとに、最後には笑顔になって、帰ろうとしたその時だった。


「エンジェル…! 君たち!」


ニルスは、三人を呼び止める。ニルスの声に、「エンジェル」と呼ばれた少女が、反応して彼の方を見る。少女の顔がぱっと明るくなる。



「ニルスさん!」


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