第3話 ニルス、市場を訪れる
翌日、ニルスは<シビル・ボーダーライン>の<マルタ市場>で大きな紙袋を抱え、一週間分の買い出しを行っていた。袋いっぱいに詰まった食料は、明らかに一人分の食事の量ではない。
<シビル・ボーダーライン>の隣、<ウェスト・ディストリクト>から東の商業施設では「欧米」の香が著しい一方、様々な国の文化が混ざった製品が手に入るこの市場は、遠方から多くの人民がショッピングに訪れる人気の地域となっていた。いつもと変わらぬ漆黒の外套とシルクハットに身を包み、お決まりの分厚い白のマスクで街へ繰り出したニルスは、その奇異な恰好だけでも十分目を引くが、すらりとした189cmの高身長、大半がマスクの内側に隠れていても分かる真っ白で端麗な顔立ちが、注目を集めないはずがなかった。そのため、毎回同じ店、同じ店主が働く時間を3軒回り、10分もしないうちに引き上げることにしていた。
三軒目は、<ルミナス 紅茶専門店>と決まっており、今日もちょうど足を踏み入れた途端、奥から聞きなじみのある、弾むような声がした。
「ああ、いらっしゃい。げっ。あんた、今日もその恰好かい?」
店主のルミナス・ダリアが、紫がかった黒髪をまとめ上げながら、店の奥から出てくる。ルミナスは、政府の「移民優遇政策」以前より、母国のサウジアラビアから日本に単身で赴任して開業した、かなりのビジネスのやり手である。
「嫌だなあ、ルミナスさんはいつもその質問を聞く。いつものセット、お願いね。」
「何だって、今日は真夏日のように暑いじゃないか。」
ルミナスは呆れた顔をしながらも、手際よく茶葉を袋に入れていく。腰に手を当ててしばらくその様子を見ていたニルスは、急に思い出したように我に返って、ルミナスの目を見てこう言った。
「今日、実はね、<両世界の情報屋>のルミナスさんなら知ってるかなと思って、聞きたいことがあるんだよ。」
いきなり、ルミナスの手が止まった。
「この前、<メトロポリタン・エリア>で、僕の目の前で男の人が自殺したのを見たんだ。自殺なんて、ここ数年めったに聞かないでしょ。ルミナスさん、何か知ってる?」
ルミナスの顔は暗がりに隠れ、その全貌は窺えなかったが、人の表情から心情を推測することをを得意とするニルスは、彼女の少しの感情の揺れを読み取った。しばらくしてから、ルミナスが口を開く。
「やはり、あれは偶然じゃなかったのか…。全く、恐ろしいことが起きてるね。実は数日前に、あっちの地域から越してきたばかりの女性が、この店の目の前で、向かいの薬品店から薬ひっつかんで、焼身自殺をしたんだよ。でもあたしが知ってるのはそれだけさ。不思議なことに、<エンジェルズ・ハイドアウト>では一切そんなことは聞かないけどね。」
「やっぱりそうなんだね…。」
ルミナスの発言を聞き、ニルスはマスクの下で口をきっと結びなおす。
「その女性も、きっと<メトロポリタン・エリア>出身だろうね。そしてこの現象には原因があるんだ。僕には、ある程度推測が立っていてね…。」
ニルスはそういうと、少しの間沈黙をして、顎に片手を添え、考えるような仕草をした。
「「アノミー的自殺」が起き始めているのかもしれない。」
「アノミー…? 聞いたことない言葉だね。」
ルミナスはきょとん、としてニルスを見る。
「うん、大分昔の説でね。19世紀に活躍した「エミール・デュルケーム」という社会学者がいたんだけど、その学者は、近代社会特有の無規範や無秩序のことを「アノミー」と名付けて、社会の「無規制状態」が際限なき欲望を生み出し、自殺が起きるとしたんだ。それが「アノミー的自殺」だよ。」
「…。あんたが言いたいのは、<メトロポリタン・エリア>が際限のない欲望を生み出しているってことかい。」
「その通り。僕はよく、<スペース・ニードル>から東京の中心地を観察するんだけどね、毎日毎日、目が眩んでしまいそうな数の広告に、踊らされるように、我を忘れたように消費をしていく人たちばかりなんだ。今「国民総幸福」なんていわれてるでしょ。東京に住む人達に、物質的に手に入らないものなんてないんだよ。だけどその結果、何が起きると思う?」
「そうだねえ…。あたしが、欲しいものが簡単にぜーんぶ手に入るってわかっちゃったら、もっと、もっと欲しくなって、終わりはないだろうね…。だけど、なんというか、心は全然満たされないんだよね。きっと。」
「その通りだよ、ルミナスさん。この街には、今「渇望の病」が発生しているんだ。」「いつまでも満たされない心に支配され続ける、「渇望の病」ってとこかね…。あんた、それは、“あっちの地域”、にしか起きてないんだろうね。」
「ああ、<エンジェルズ・ハイドアウト>の子供たちに、この病魔は及ばないはずだよ。だから、僕はある実験をしたいんだ。ちょっと、ルミナスさんに手伝ってほしい。」
「あたしが手伝う?」
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