第21話  離婚後の生活

 心の準備はしていたつもりでも、現実として我が家に愛娘がいない喪失感は想像以上のものだった。日常の中で当たり前だった麻奈美の笑い声が消え去り、家の中は一気に暗さが増したように感じられた。

 定年後の達也が日課としている散歩コースには麻奈美の通っていた小学校があり、初夏の日差しが降り注ぐ校庭では大勢の子どもたちが元気に走り回っている。

だが、あの中に麻奈美はもういない。卒業を迎えるその日まで、入学以来慣れ親しんだこの学校で学ばせたかった。

 母子で家を出てから二週間が過ぎ、麻奈美が新しく通い始めた小学校まで迎えに行く日がやってきた。約束の面会交流である。

 新しい小学校はエリカが借りたアパートのすぐそばだった。学校が近いことと、放課後に子どもを預かる児童クラブが学校敷地内にあり、その点では幾分安心はできる。担任の女性教諭と児童クラブの責任者に、これまでの事情を説明して丁寧な挨拶を済ませた後、達也は麻奈美と一緒に我が家へと向かう。車では三〇分ほどの距離である。

 やがて慣れ親しんだ町並みに入ると、麻奈美は食い入るようにその見慣れた光景を車窓越しに眺めている。そして我家に着き、達也が車を家の前に停めると、

「ただいま!」

 麻奈美は元気な声で、玄関先に出迎えたマサ子に声をかけた。

「おかえり、麻奈美!」

 マサ子も顔をくしゃくしゃにして可愛い孫娘を出迎える。麻奈美は、そのまままっすぐトイレの中に入り、

「パパ、これみて!」

 今まで気がつかなかったのだが、よく見るとアニメキャラクターの小さなシールがそこかしこに貼ってある。壁にも、手すりにも、そしてトイレットペーパーにも。

「これ、パパとバアちゃんに麻奈美のことを思い出してもらいたくて、引っ越した日の朝に貼ったんだよ!」


 その晩、麻奈美の大好きな宅配ピザの夕食のあと久しぶりに達也と一緒にお風呂で背中を流し合い、ベッドに入ると母子二人だけの生活の様子をぽつぽつと話しだす。アパートには、なんと洗濯機も冷蔵庫もない生活だという。それらは生活を始めるために最低限必要な家財ではないかと案じていた達也は、引っ越し時期を少し遅らせてでも、家財を買いそろえるためのお金を蓄えたらどうかと助言したのに対して、エリカが意地を張り耳を貸さなかった結果がこれである。

 最低限の生活家電さえそろえることができないほど困窮しているのだとすれば、家賃や光熱費、健康保険料など麻奈美の日常生活に直結する支払いは本当に大丈夫なのだろうか。判決文では、エリカのパート収入や公的扶助、達也から支払われる養育費などで生計を維持することは可能であるとしていた。

 もし四ヶ月毎にまとめて支給される児童扶養手当(母子家庭手当)をあて込んで、苦しい生活費の中から今もなお本国への送金を続けているのだとしたら。まさかではなく十分にあり得る話である。日本からの仕送りを受け続けてきた彼の国の親族たちは、離婚によってエリカの経済事情が変わったことなど理解しようとさえしないだろう。

 今更それが実証されたところで何の慰めにもならないが、達也が裁判を通じて訴え続けたにもかかわらず結論ありきの審理によってすべて退けられ、最も懸念してきた母子家庭の貧困問題が次第に顕在化しつつあるようだ。

 その後も麻奈美との定期的な面会交流は途切れることなく続けられた。そんな中でも普段の貧困生活をうかがわせる様子は、折に触れ見て取れた。例えば達也の家に一泊し、翌日の夕方車で送っていくようなときでも麻奈美は、

「家に帰っても夕食で食べるものなど何もないからどこかで食べてから帰りたい。」

とねだるのである。

 しかし急いで家に帰らなければ、達也が作る夕食を待っている母親もいる。そんな時は仕方なくコンビニで弁当を買い、車の中で食べさせてからアパートに送り届けた。その麻奈美の後姿を見ながら、普段、一体どのような食生活をしているのだろうかと不憫に思った。そのくせ、麻奈美からはよくママと二人で外食に行くような話を聞かされてもいた。街中のレストランや寿司店などの名前もよく知っていて、結構な頻度で食べに行っている様子がうかがえた。

 一度の外食に払うお金があれば、スーパーで一週間分の食材を買うことができると思うのだが、エリカはそのような経済観念も持ち合わせてはいないらしい。

 そんな母親と二人きりの生活で、この先、麻奈美の身にどのような苦難が待ち受けているのか。月二回の面会交流のほかに達也にできることといえば、ただ遠くから見守ることだけでしかない。

 長い歳月と多大な労力を費やした離婚裁判に何かしらの意味があったとすれば、達也からの毎月の養育費の支払いを含め、そこで取り決めた合意事項が約束通り履行されたということではなかろうか。もし定期的な宿泊付き面会交流が実現していなかったとしたなら父娘の関係は疎遠となり、次第に心も離れていったのではないだろうかと思う。

 

 一方で達也にとっては、今後の人生をどう生きるかがより切実な問題として感じられるようになってきた。麻奈美が我が家を去った時には、現役を離れてすでに二年が経過していたが、まだ隠居生活を決め込むような歳ではない。

 このまま無為に年月を重ねていったら、本当に社会とは疎遠になってしまうのではないか?定年退職者が、多かれ少なかれ味わうある種の焦りが達也の心を苛んだ。

 東北では東日本大震災後、様々な形のボランティア活動が行われ、その中に支援を必要とする被災者とボランティア志願者を、インターネット上でマッチングさせることを目的としたNPOのグループがあった。これなら体力のない達也でも、持て余す時間を生かして、何かの役に立つことができるのではないかと考え、取り組み始めてみた。しかし、ネット上でのやり取りだけで、相手の顔が見えない単調なパソコン作業に物足りなさを感じ、半年ほどでやめてしまった。

 自分の得意な分野を生かして打ち込めることは何かないものか、街中のいろいろな場に顔をのぞかせて探し回った。そんな達也の目にとまったのは仙台駅近くの市民センターで週一回の例会を開催しているある英語クラブの存在だった。早速登録されていた連絡先に、メールでコンタクトを取ってみたのだが、ちょうど年末の時期で、通常例会が再開するのは年明けからだという。ただ、クラブ恒例のクリスマスパーティがあるので、参加してみたらと誘いを受けた。

 達也は二つ返事で参加を決め、会場となっていた駅中のイタリアンレストランに足を運んだ。集まった人たちの顔ぶれを見ると、当然のことながら自分の年齢と比べて、年代的にみんな若いという印象が第一だった。外国人留学生などもメンバーとして加わっているらしいことも分かった。酒の席には目がない達也は、誘われるがまま初対面にもかかわらず二次会まで参加し、離婚騒動以来、鬱積していた心を久しぶりに開放することができた思いだった。

 

 年が明けて最初の例会にゲストとして参加した達也をまず驚かせたのは、メンバーの多様性だった。現役の大学生から達也のような定年退職者まで、また仙台を代表する最高学府、東北大学で学ぶ海外からの留学生なども集い、国際色豊かな雰囲気であった。

 次に驚いたのはメンバー各自の英語力の高さ、それもそのはず大学関係者、高校や中学で英語教師として教鞭をとっている人たち、また海外留学や海外勤務の経験者。それらの人たちが話す流ちょうな英語に達也は正直、気後れした。

 「果たして、若い時にお遊びでかじった程度の英語力で、この人たちのレベルについていくことができるのだろうか?」 

 しかし達也は、何としてもこのクラブに入会したいという強いモチベーションを感じていた。ここで自己研鑽に励んでいる人たちのレベルは、これまでの自身の人生の中では、巡り合うことがなかったと認めざるを得ないほど高次元であったからで、こんな機会は二度と巡ってこないと感じていた。

 例会の中では、お粗末な英語力ゆえに赤恥の書き通しだった達也にも、居場所は用意されていた。二時間ほどで終了する例会後には、決まって近くの飲食店で交流を楽しむグループが自然発生的に集まり、そこに紛れ込むことにしたのである。打ち解けて、アルコールも交えながら日本語だけでも気兼ねなく会話を楽しむことができるそのような場でなら、引け目を感じることはない。

 この英語クラブの目的はただの英会話の練習などではなく、英語によるスピーチやプレゼンテーション力を磨くことにあり、学生や英語教師が多く参加している理由がそこにあった。毎例会ごとに二~三名のメンバーが、独自に準備したテーマに沿って五~七分程度のスピーチを発表する。それに対して論評を行うのは、やはり他のメンバーであって特に先生がいるわけではない。英語を母国語とする外国人も、あくまでも対等のメンバーとして参加しているだけなのである。

 実はカリフォルニア州に本部を置くこの非営利団体は、世界中にクラブが作られそこで使われている言語も英語だけではなく多種多様である。年に一度のスピーチコンテストもあり、各エリアの予選を勝ち抜いた世界大会まで開催される。

 コロナ感染が世界中に蔓延してからは、直接顔を合わせる従来型の会場方式だけではなく、ビデオミーティングシステムZOOMを使ったオンライン形式の例会も盛んにおこなわれるようになった。その最大の利点は、場所を選ばず世界中どこからでも参加できるという点である。事実、達也が会員となっているクラブでもパンデミック後にはシドニーやシカゴ、その他のアジア諸国からと、従前にも増してより国際的なメンバー構成になっている。


 この英語クラブへの参加は、達也にとって思いがけない就労の機会を得ることにもつながった。メンバーの一人で不動産業を営む男性から、

「知り合いの不動産屋で、産休で職場を離れる女子社員の代替として臨時で働いてくれる宅地建物取引の有資格者を探しているんだけど、誰かご存じないですか?」

と打診されたのである。それなら達也にとってうってつけの役回りだった。

 現役時代は不動産関係の業界を渡り歩き、三〇年ほどの経験があったからだ。もちろん必要な資格も有している。

 二つ返事でこのチャンスに飛びついた達也は、個人の住居系賃貸を専門とする街中の不動産会社で、一年間の臨時雇用契約を結んだ。報酬は定年まで勤めたビル賃貸業務の会社とは、比べるべくもなかったがそんなことはどうでもよかった。

 達也にとっては、再び社会とのつながりが持てることが何よりの喜びだった。それに産休を経て、一年後にはまた元の職場に戻る希望を持っている女子社員にとっての恩恵は大きい。達也がピンチヒッターとして応募しなければ、おそらく会社は代わりの正社員を採用し、女性が職場復帰する機会はなかっただろう。公務員や大企業では当たり前の産休制度であるが、個人企業で働く労働者にとってはまだまだ手が届きにくい労働者の権利であった。


 それからの一年間、達也にとっては何年かぶりで充実した日々を送ることができた。通勤にはJRと地下鉄を乗り継いで小一時間ほどかかったが、久しぶりにスーツ姿で出勤できることが新鮮に感じられた。二週間に一度の麻奈美との面会交流の日は、駅で待ち合わせて一緒に夕食をとってから自宅に向かった。達也のスーツ姿は、麻奈美が幼稚園児の頃以来のことなので、記憶が薄れかけていた父親の働く姿を、我が子に改めて見せることができたのではないかと思った。

 街の不動産屋での臨時就業は二年間続いた。一年後には産休で職場を離れていた女子社員も職場復帰を果たしたのであったが、〇歳児を育てながらフルタイムでの就業は難しかった。そこで一週間のうち半分づつを、達也と仕事を分担することにしたのである。いわゆるワーク・シェアリングであるが、週二、三日程度の勤務は達也にとっても適度な働き方となった。

 一年続いたそんな不定期な働き方も、新米のワーキングマザーが完全復帰し、達也も職場を離れる時がやってきた。送別会も開いてもらい、その席ではその女子社員から感謝の手紙も渡された。定年後でも、人のために役立つことができてよかったと感じることができた瞬間だった。



 

 

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