第22話  10年後

 その機会はエリカとの離婚が正式に成立してから数えて十年目を前にしてようやく訪れた。離婚当時まだ小学二年生だった長女、麻奈美は市内の私立高校に通う一七歳、父親の大滝達也もすでに古希を過ぎていた。

 離れて暮らす麻奈美からのLINE通話呼び出し音が鳴り、応答したその電話口から聞こえてきたのは涙声だった。

 「パパ、私、退学させられるかもしれない、どうしよう!」

 LINEチャットで同時に送られてきた学校からの催告文書を写したスマホ画像からは、次のような内容が読み取れた。


授業料等納付金の納入及び除籍予告について

 「生徒様の授業料等納付金については毎月末納付状況をお知らせし、未納による除籍という事態は避けるよう努めてきたところです。

 しかし、これまでの催促にもかかわらず残念ながら未納月数は五ヶ月となりました。速やかに納入いただきますようお願い申し上げます。

 期日まで納入されない場合の措置として、未納月数六ヶ月に至った場合は除籍することを予めお知らせします。」


 達也は泣き声にしかならない電話の相手にこう伝えた。

 「パパは麻奈美が退学になるなんて絶対許さないから、あとは全部パパに任せて!」

 とにかく、この未納分の授業料を直ちに納めなければ麻奈美は本当に退学させられてしまう。

 エリカも学校からのこの催告通知は受け取って読んでいるはずであるが、果たしてどれ程深刻に受け止めているのか。そもそも「除籍」の意味するところを理解できているのか、その日本語能力からすれば甚だ疑問である。

 達也は差出人の学校の納付担当窓口に電話で代払いの意思を伝え、未納金を直接持参することにした。今まで実現してこなかった学校側と直接対話ができる絶好の機会と考えたからである。

 麻奈美にもその旨を伝えたのだが、早速エリカが反応したようである。

 「麻奈美にお金だけ渡してもらって、パパには学校に行かせないようにと言われたけどどうしよう。」

 達也が学校に行けば、今までの滞納状況などについて知られることになるためエリカはそれを警戒しているのであろう。

 達也はそんなエリカの思惑など無視することにして一人学校に出向いた。

納付窓口で十万円近くまで滞っていた未納金の支払いを済ませた後、カウンター越しに応対した担当の職員に話かけてみた。

 「実は、長女の母親とは親権をめぐる裁判で高裁まで争ったのち十年前に離婚が成立しました。不本意ながら親権は相手方に渡ってしまったのですが、その離婚理由というのは自己破産寸前にまで陥った元妻の多重債務でした。」

 相手は驚十たように達也の顔を見上げ、

 「立ち話も何ですからこちらへ。」

と別室に通してくれた。

 達也は、エリカの金銭管理能力の欠如は離婚前からのもので、当時はクレジットカード会社、サラ金などから次々と借金を重ね、返済のための資金を他からの借り入れで一時しのぎをするという、いわゆる自転車操業に陥っていたことを話した。

 しかし、裁判所は達也の訴えにも関わらず一貫して母子関係優先の原則を変えようとはせず、麻奈美の親権は相手方に渡ってしまい今日に至っていると言葉を継いだ。

 「十年に及ぶ母子家庭生活の暮らし中で、長女は母親から有形無形の精神支配を受けているようで、今回学校からの催告通知を自分で開封したことについてもひどく叱られたと言っています。」

 しかし、麻奈美が泣きながら達也に助けを求めていなければ授業料滞納の事実は伏せられたままとなり、そのまま除籍処分になっていたかもしれないのだ。 

 「麻奈美が中学生だった時分、こんなことがありました。」

 学年の中でも麻奈美の成績は下位グループの中にあり。それを案じた達也がせめて公立高校を受験させようと、毎月の養育費とは別に出費して学習塾に通わせていた。

しかし進学先について担任と相談しようと学校側に電話を入れたところ、教務担当と名乗る応対者に取次ぎを拒絶されてしまったのである。

 「仙台市教育委員会の方針として、学校は非親権者の親とは一切接触できない決まりになっており担任にはお取次ぎできません。」

 北朝鮮や、中東、アフリカなどのイスラム国以外、先進国の中では日本だけがいまだに固持し続けているという単独親権制度の理不尽さを改めて思い知らされた出来事だった。

 そして数か月後、麻奈美から聞かされたのは県内でも偏差値が最低ランクとみなされている私立高校への進学が決まったという結果だけであった。それも試験を受けなくても入学できる自己推薦枠だというのであるが、エリカからもその進学先の選択については一言の相談もなかったのである。

 何のために高い月謝を払ってまで学習塾に通わせたのか、達也の父親としての労苦は全く報われることがなかったのである。

 これまでの経緯をかいつまんで話すと、収納窓口の応対者は同情の表情を浮かべ達也にこう約束した。

 「麻奈美さんの将来に対するお父さんの想いは十分理解いたしました。必ず担任の先生に伝え、面談を実現できるように取り計らってもらいます。」

 幸いなことにここは私立高校である。公立高校のように県の教育委員会が横やりを入れるようなことはないだろう。

 達也はこれで麻奈美の高校卒業後の進路への関与について、一歩前進できたのではないかと思った。

 数日後、達也は麻奈美のクラス担任の先生と電話で直接話をすることができた。大学出間もない若い女性教諭のようであったが、収納担当者からの根回しがあったようですぐに本題に入ることができた。

 「麻奈美さんも同席の上での三者面談であれば可能ですが、教頭先生と相談したところ、事前にお母さんの了承を取り付けていただくことが前提となります。」

 やはりそうか。公立校で校長や教頭を務めた定年退職者が私立校に役職者として再就職するケースは珍しいことではない。

 これまでの経緯からしてもエリカが三者面談を快く了承することなどありえない。単独親権制度の下では、非親権者が教育権に関して同等に扱われることはないのだと悟るしかなかった。


 だとすれば残された手段はただ一つ、達也が取り掛かる決心をしたのは家庭裁判所への親権者変更申し立てである。

 一〇年前、高等裁判所まで争った親権をめぐるあの離婚裁判のなかで、麻奈美の将来を案じ最後までエリカに親権を委ねることに同意しなかった達也に対して、裁判官が何度も繰り返した言葉があった。それは、

 「親権者の変更は、後でいつでもできるのですよ。」

と和解を迫ってきたのである。

 「親権者変更はよほどの正当な理由がなければ認められず、これは裁判を早く終了させようとする裁判所側の方便だと思います。」

と、依頼した弁護士からは言い含められ達也もそう考えていた。

 しかし、もし変更が額面通り可能なものなのであれば、今回がその千載一遇の機会なのではないか。

 今回の論点は授業料滞納により、麻奈美が高校を退学させられる危機に陥ったことだけにはとどまらない。実は、麻奈美からは将来看護師として働くために高校卒業後、進学したいという相談を達也は受けていた。中学三年の時、達也に相談もなくレベルの低い私立校に進学を決めた時点で、これでもう将来の大学進学に心を砕く必要もないだろう、と内心は思っていた。

 しかし、本気で看護師を目指したいということなら話は別である。コロナ禍で医療従事者不足が改めて指摘されているように、社会的なニーズも高く、収入も安定している職業と達也は考えていた。

 いずれにしても看護師として働くためには、看護学科のある大学か専門学校に進学する必要がある。問題はその学資であるが、高校の納付金も払えないエリカに三年間でざっと数百万円と見積もられる額を工面できるはずもない。

 今回の高校からの催告通知は、エリカの金銭能力の欠如を証明する格好の材料となるはずである。達也はすぐ行動に移した。

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