第20話  親権喪失

 達也にとっては身を切り裂かれるような思いであったが、この忌々しい裁判沙汰に終止符を打つほかすべはなかった。

 時期はちょうど春休み。達也は気持ちの整理をつけるため別居前の麻奈美との最後の思い出づくりとして、あの蔵王の温泉プールにマサ子も連れての小旅行を思い立つ。麻奈美には、母親のほかにも家族として常に寄り添ってくれていた優しい父親や祖母がいたことを、しっかりと心の中に刻みこんでおいてもらいたいと願ったのである。

 温泉に着くと、もうすぐ四月というのに東北の山々はまだ厳冬下にあり、室内プールの大きな窓からは真っ白な山肌の蔵王の峰が、青空に雄大なシルエットを見せていた。なんとか辛い気持から逃れたいとここを訪れた達也のために、自然が見せてくれたとも思えるこのまばゆいばかりの背景のもと、父子で夕食までの時間をたっぷりとプールでの水遊びに興じ大いにはしゃぎ楽しんだ。

 だが、既にエリカから離婚後の別居のことを刷り込まれているらしく、麻奈美にしてみれば、なぜ今までどおりに家族で一緒に暮らせないのだろうかと小さな胸を痛めているに違いなかった。

 麻奈美なりに、これから家族はどうなってしまうのかとの不安を達也に打ち明けたのはベッドに入ってからである。部屋には三人分のベッドが用意されていたが、

「麻奈美は、パパと一緒に寝たい!」

と甘え、一人用のベッドに父子二人で寝ることにしたのである。

 枕を並べて横になると、麻奈美は達也の指を小さな手でしっかりと握りしめながら、

「パパはどこまで知っているの?ママが仕事のとき、麻奈美は誰と居ればいいの?」

達也の目を見つめて訴えた。

 今までは、エリカが仕事で夜遅くなるようなときでも、達也とマサ子が家にいたので何の心配もなかった。しかし母子二人だけの生活になれば、一人ぼっちでママの帰りを待たなくてはならないことに思いをめぐらせ、自分なりに不安を感じているに違いなかった。

「パパは、いつも麻奈美のことは見守っているから。なにも心配いらないからね。」

 麻奈美の指を強く握り返しながら答えたのだが、これまでの両親の諍いの狭間でさぞ辛かっただろう娘の、声にもできなかった懸命の訴えを痛く感じた。


 あくる日、小旅行から戻ったその足で、達也は最後の懸案事項となっていた父子の面会交流の方法等について、エリカ側との交渉を図るべく高裁へと向かった。

 達也にとって譲ることのできない最後の要求は、月二回、自宅での宿泊を伴う麻奈美との面会交流である。これに対してエリカ側は定期的な面会交流は認めたが、宿泊付きという条件については難色を示した。

 達也が宿泊付きにこだわったのは、面会交流の質を求めていたからである。我国では裁判所が面会交流を認める場合でも、自宅外で時間もせいぜい二、三時間というのが一般的らしい。

 達也が求めた要求に対して裁判長は、

「でも子どもさんが年頃になったら、お父さんとは会いたくないと言いだすのではありませんか?」

と否定的であったが、この裁判長は、強制的に一方の親と切り離される子どもの心理について、何も理解していないなと達也は思った。

 思春期の女の子が一時期、男性である父親を忌避する傾向があるのは普通の家庭でもよく聞く話である。だが、両親の離婚という、子どもにとってこの上ない深刻な状況に置かれた場合とではまったく事情が異なる。

 母子家庭の子どもで、父親とは会いたくないというようなことがあるとすれば、父親の我が子に対する愛情が日常的に薄かったため健全な父子の関係が築けていなかったか、または母親が離婚した元夫への嫌悪感をそのまま子どもに感情的に刷りこんでいるか、そのどちらかとしか考えられない。

 子どもの時分に親の離婚で受けた心の傷がトラウマとなり、大人になっても悩み続ける体験は数多く語られている。それを幾らかでも和らげてあげることができるのが、別れて暮らす親との面会交流なのだと思う。

 その点、たとえ両親が離婚したとしても、子どもが実親と触れあう権利は何にもまして優先されるべきと考えられている欧米などでは共同親権制度の下、年間一〇〇日間程度の定期的な宿泊付き面会交流は、最低限必要との認識が離婚する両親間にも共有されている。

 普段、離れて暮らす子どもが父親とたまにしか会うことができず、それも数時間だけでの面会では、ふれあいに慣れる前に時間があっという間に過ぎてしまい心の交流など到底、望むべくもない。

 やはり家で一緒に食事を共にしたり、打ち解けて会話を交わす十分な時間が与えられてこそ、子どもも自分は見捨てられたのではないとの安心感を得ることができ、普段は別れて暮らす父親との絆を確認できるのだと思う。達也がこのことを強く主張した結果、エリカ側も交渉の長期化を恐れたこともあったのだろうが、しぶしぶ宿泊を伴う面会交流の条件を飲むことになったのである。

 そのほか、新たに制度化された年金分割について、裁判官はまったく無知であった。妻側が申請しさえすれば、達也の年金額から婚姻期間に相当する部分が分割されることになるのであるが、それをすぐにでも受給できて、麻奈美の養育に役立てられるとの認識のようだった。

 だが、エリカがその分割された年金を受け取ることができるのは、自らが受給資格を得る年齢に達してからのことだ。つまり、これから三〇年も先の話であるから麻奈美の養育には何の恩恵もない。

 その一方で達也の側は、相手が分割申請の手続きをした翌月から受給する年金が減額されてしまう。そうなれば双方の収入を基礎とする養育費の算定根拠も変わってくるはずである。

 そのことを指摘すると、裁判官もようやく理解したようで、年金分割の相当分を養育費に上乗せする代わりにエリカ側は申請手続きを放棄する、との達也側の提案を認めることになった。

 だが、麻奈美にとって精神的負担の大きい小学校の転校を避けるためと、就労中のエリカが不在時に頼れる身内がいない不安を解消するために、達也がいつでも駆けつけられる現学区内での別居をとの提案についてはエリカが強硬に拒み、受け入れられることはなかった。

 こうして、双方が合意した内容に基づいて高裁の和解調書が作成され、離婚が確定した。最初の離婚調停の時から数えると、およそ六年間の長きに渡って続いた達也の闘いも、ついに力尽き、すべてが終わりを迎えるときがきたのである。

 エリカとの国際結婚について深く考えることもないままに足を踏み入れてしまったことが招いた結果については、自己責任として受け止めることはできる。

 しかし、生まれてきた麻奈美の将来を案じて事を起こしたつもりの離婚裁判が、我が子を守るどころか、結果としてその将来を危機に陥れることになってしまったことは、達也にとって悔やんでも悔やみきれない痛恨事にほかならなかった。

 それにしても、と達也は振り返ってみる。

 今回の裁判で何にもまして貫かれていなければならなかったのは、子どもの福祉を守るために何が最善かについて、客観性、合理性をもって審理を尽くすことではなかったのか。しかし、そのような姿勢はついぞ目にすることができなかった。国民の信頼に依って立つべきこの国の司法の現実が、そのあるべき姿とはあまりにもかけ離れた魑魅魍魎の世界であったとは…。


 二〇一三年四月、仙台高等裁判所が作成した和解調書により、区役所にて離婚届けが受理され、正式に離婚が成立する。

 達也が支払うことになる和解金は、相手側弁護士の口座に振り込まれた。エリカはこの中から、任意整理で返済が凍結されていた債務、約一〇〇万円を一括で支払うことになった。結果的に、エリカが滞納してきたすべての借金は、達也が肩代りをさせられたということである。

 法的な任意整理を行ったことにより、エリカは個人信用情報のいわゆるブラックリストに載ることになるため新たなローンやクレジットカードは利用できなくなる。

 それまでカードを使って手当たり次第に借金を重ねてきた本人のためを考えれば、打ち出の小槌を取り上げられたにも等しいものであり、更生していくための良い機会となるだろう。

 エリカが母子生活のスタートとして使える当座の資金は、借金整理をした和解金の残りだけであり、預貯金などの蓄えがあるはずもないエリカにとってアパートの敷金やら家財道具の購入、引っ越し費用などを考えればとても余裕が持てる額ではない。かといって当面の生活費を支援してくれるような身内もいない

 だがそんな達也の心配をよそに、庭のサツキが咲き誇る五月下旬、とうとうエリカは麻奈美を連れて引っ越しを強行する。その一週間前には小学校の運動会が催され、達也が参観する最後の学校行事となった。

 引っ越し当日の朝、先に荷物と一緒に家を出たエリカのあとを追うように、麻奈美は手伝いに駆けつけてくれた早田貴子の運転する車に乗せられた。

「麻奈美、また会えるからね、ハイタッチしてバイバイしよう!」

 明るく声をかけたが、麻奈美は動き出した車の窓から不安そうな表情を浮かべて達也の方を振り返る。

「ごめんね、麻奈美、一緒に暮らした今までの日々、パパは楽しかったよ。」

 言葉にならないが寂寥感が達也を襲い、心の中で叫んだ。











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