第19話 控訴審
家裁判決に対して控訴の意志を固めた達也は、お盆休みをとっていた刈谷の休暇が明けるのを待って、改めて代理委任するために判決文を携えて事務所を訪れた。
刈谷としてはこれから判決文を精読することになるので、一週間後に迫った控訴期限までにはとりあえず控訴状のみを提出しておいて、詳細は追って控訴理由書として提出するという。刈谷が作成した控訴理由書の素案は一〇月に入ってからメールで送られてきた。九月中は取りかかっている事案への対応で忙殺されていると刈谷は言っていたので時間がかかったのは仕方がないにしても、内容を一読してみると、前回の即時抗告申立ての時の鋭い筆致に比べ歯切れが悪い。
そう思った達也は、刈谷から送られてきた素案に対して大幅な修正の手を加えることにした。ともすれば裁判所批判と取られかねない表現を、敢えて控えるべきではないと考えたからである。司法の権力を笠に着た不公正極まりない判決に対しては、徹底的に闘う意思を示す必要がある。
ただ達也にはひとつ気になっていることがあった。それは高裁で審理を行うのが、最初の監護者指定審判を家裁に差し戻した第二民事部ではなく、二度目となる即時抗告が受理された第三民事部となっていたことである。
その即時抗告では、審理に入る前にエリカ側が監護者指定申立を取り下げているので、第三民事部が双方にどのような心証を抱いているかについてはまったく読めない。同じ高裁でもそれを担務する裁判官によって、判断が一八〇度違ったものになることがあると刈谷は語っていた。
しかし今それを案じていても仕方がないのではないか、そう思うしかなかった。
そして十一月下旬、控訴審の初回となる審問は期日通りに開かれた。そこはテーブルを挟んで双方が相対するという家裁でも見慣れた光景だが、異なる点は席に着いた裁判官が一人から三人になっていたことである。家庭裁判所と異なり、高等裁判所は合議制であったことを達也に思い起こさせた。
審理は双方から提出された書面の確認と、次回の期日予定を決めただけでものの五分ほどで終了した。双方が口頭で主張し合うような場面を期待していた達也にとっては、拍子抜けのような印象であり、それが不安を更に増幅させた。
年が明けた平成二〇一二年一月、控訴審での二回目となる審問が開かれた。ここでも双方が主張を戦わすような場面は訪れず、やはり既に提出された書面の確認だけであった。
最後に、三人の中で中央の席に座っていた裁判長が告げた。
「次回で、本件の審理を終結とします。」
その期日は二月二四日と指定された。とすれば、その一ヶ月後の三月中には判決がでるのではないか。
それにしても、高裁で麻奈美の親権がいったいどちらに指定されるのか、まったく読めないままであった。
そして運命の二月二四日、達也は祈る様な気持で、事実上、控訴審での最終章となる審理の場に臨んだ。
テーブル席に着いた三人の裁判官の顔ぶれをみると、中央の裁判長が前回までと入れ替わっている。組織内の人事異動によるものだろうか?それにしては時期的に中途半端ではないか。
双方から新たに提出された資料を確認し終えると、新顔の裁判長が口を開いた。
「本控訴審は本日で結審します。判決言い渡しは四月二四日となりますが、その前に職権で和解勧告をいたします。最初に控訴人側から話を聞きますので、被控訴人は席をはずして下さい。」
和解勧告?達也はいやな予感がした。
その悪い予感は的中し、裁判長は部屋に残った刈谷と達也を見遣ると、
「当法廷の方針は決まっているのですが、こんなことを続けて何になるのですか?親権は、あとで変更することもできるのですよ。」
頭ごなしに、ばっさりと切り捨てるように言ってのけた。
それは、控訴審の場でこそ公正な判断がなされるものと大きな期待を持って臨んだ達也にとって、最悪の結末を意味する宣告にほかならなかった。
「こんなことを続けて…」とは達也側が家裁での和解勧告を拒んで控訴に持ち込んだ行為を意味するのであろうが、高裁に持ち込むような事案ではないとでも言うのか。子ども一人の将来が、この場で決定づけられようとしているというのに。
それにしても、「親権はあとで変更することもできる。」
との気休めにしか聞こえない台詞は、あの家裁での和解説得で、宮本の口から出た言葉と同じではないか。
もしかしたら、家裁と高裁第三民事部との間では最初から控訴審での落とし所については暗黙の了解が取りつけてあったのではないだろうか。この事案を、原審判を差し戻した第二民事部ではなく第三民事部に回すことでさえ、家裁裁判官の裁量で意のままにできたはずである。
外部からはうかがい知ることもできないが、同じ裁判所内での身内意識は当然あるだろうから、そう考えてもおかしくはない話しだと達也は疑心暗鬼に陥った。
「しかし、親権者の変更は家庭裁判所への申立てが必要であり、申立てをしてもそのほとんどは、変更する理由がないと退けられてしまい、稀にその変更が認められるのは、児童虐待の事実など、子どもが危機的な状況においこまれているような場合に限られるのではないのですか?そうなってからでは遅いのです。」
達也が反論すると、傍らの刈谷が言葉を継いだ。
「原告が最も心配しているのは、被控訴人には金銭管理能力がなく、長女を連れて別居しても生計が成り立たないのではないかという点です。
一年前の家裁による監護者指定審判を受けて、被告はアパートを借りましたが、結局、家賃を払えず解約されてしまいました。」
「だからその点については、被控訴人もこれからはちゃんとやると言っています。」
この裁判長のまったく根拠のない言葉に、達也も黙ってはいられなかった。
「それができる相手なら、私もとっくに親権を譲っています。
しかし、こちら側からの求めによって、今回、新たに開示された妻の預金口座記録からも明らかなように、月々わずか五千円に過ぎない法テラスへの返済も当初の三ヶ月分を最後に、ここ一年以上引落しされている形跡がありません。
一〇件以上もの借金返済が滞って多重債務に陥ったのも、妻には借りたものは約束通り返さなければならないという、大人として当たり前の常識が欠けているからにほかなりません。
別居後に家賃を滞納する、電気やガスも止められる、健康保険料の不払いにより医者にもかかれない、そんな中で長女の福祉がどう保証されるのですか?
そもそも、最初の抗告審で差し戻し理由となった妻の経済観念の欠如、長女の健康管理の問題、日本語能力の不足、これらは何一つ解消されていないではないですか。
抗告審が指摘したこれらの懸念を黙殺するかのように、差し戻し審で家裁が行ったのは調査官による再度の調査ですが、あれを実施したことに何の意味があったのですか?
その本当の目的は、家裁が自ら下した判断をもっともらしく正当化するためだったとしか思えないのですが。」
と、裁判所批判まで踏み込んだ発言をした。それが、更に裁判官の心証を悪くするかもしれないなどという冷静さは、達也の頭の中からどこかに吹き飛んでいた。
だが、離婚、親権争いなどにはあまり関心がなさそうなこの裁判長にとって、子どもの福祉などどうでもよいことのようであった。家裁が下した判決内容を検証することもなく、追認を前提に早く和解を成立させて事案を終了させたい。そのことしか頭の中にはないように思われた。
「次は被控訴人側の話を聞きますので、一旦、席をはずしていただけますか?」
達也と刈谷を部屋から追いやった。
エリカ側と入れ替わりに、ガランとした控室に戻った達也と刈谷の間に重苦しい空気が流れる。達也は、椅子の背もたれに体を預けて腕を組み、茫然自失として虚空を見上げていた。
二年前、家裁の審判を審理不十分として差し戻しをした高裁第二民事部の決定が下されたときには、この国の司法の良識を見た思いであったが、同じ高裁でもここまで違うのかとの現実をまざまざと見せつけられる結果となってしまった。
それは両者の見解の相違というよりも、原審が下した判断に対する第二審に求められるべきチェック機能を果たそうとするのか、または離婚、親権問題を扱う専門集団である家裁の判断に間違いなどあるはずがないとして追認ありきなのか、その取り組み姿勢の違いとしか受け止めることができなかった。
これが、これまでの人生の中で疑うことをしてもみなかったこの国の司法の実態なのかとの絶望感が、暗く達也の心を覆った。
和解勧告に従わず、高裁が下す判決に対して不服がある場合は、三審制というこの国の司法の建前上、最高裁への上告という途は残されている。しかし、上告を申立てるには憲法違反、憲法解釈の誤りなどの重大な事項を含むことが要件として求められ、申立てが受理されることさえ万分の一ほどの確率でしかないという。
達也はそれでも諦めきれず、一縷の望みを託して手は打ってみた。新聞紙上で、欧米など先進国と我国における、両親が離婚後の子どもの親権に対する考え方の違いについて論評していた東京の著名な弁護士に、これまでの裁判資料を郵送し、上告の価値があるかどうかについての判断を仰いでみることにしたのである。
資料が届いたと思われる数日後に、電話でその弁護士と直接、話をすることができた。弁護士は落ち着いた話し方で、つぶさに裁判資料を読み込んだ上での所見を述べた。
「結論からお話ししますと、たとえ上告しても受理される可能性はほとんどないと思われます。その最も大きな理由は、判決文で、あなたによる奥様の人格を否定するようなフィリピン人に対する蔑視や偏見が認定されていることです。
最高裁が受理するかどうかは書面でしか判断はしません。その背景にある事情を深読みするようなことはないのです。裁判官の心証を損ねたことは、あなたにとって残念なことでしたね。」
達也は、この裁判に完全に敗北したことを悟らざるを得なかった。
どのような事情があったにせよ、市民目線からは遠く隔絶された裁判の世界に親権争いの解決を委ねてしまったそのこと自体、達也が犯した取り返しのつかない過ちであった。
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