第16話  裁判再開


 大地震の恐怖から人々がようやく平静さを取り戻し始めた五月下旬、離婚訴訟において初めてとなる口頭弁論が開かれた。

 これまでは準備書面や証拠説明書などでお互いが主張し合ってきたが、今回ようやく、原告、被告とそれぞれの代理人である弁護士が法廷の場に会し、裁判官の面前で論戦を交わすという誰もがイメージする裁判の光景が繰り広げられることになるのである。開廷時には、調書を作成する裁判所書記官も所定の机についていた。

 尋問の順番からすれば、原告である達也の方が先に証言台に立つことになる。最初に原告代理人が行う原告本人尋問、そして被告代理人による反対尋問、その後に、被告が証言台に立つ被告本人尋問に移り、最後は原告代理人による反対尋問で終了する。

 達也が宣誓書を読み上げると代理人の花沢が立ちあがり、エリカとの離婚を決断するに至った経緯、父親としてのこれまでの麻奈美とのかかわり状況、そして、なぜ達也を親権者としなければならないと考えるのか等について、事前に打ち合わせたとおりの質問を行った。

 次は、いよいよ金谷弁護士による反対尋問である。金谷が冒頭に質問したのは、達也が仙台地検に送った告訴状についてであった。

 達也は前年暮れ、あの高木裁判官よる和解説得があった裁判所からの帰途、失意のどん底にありながら、その足で仙台地方検察庁を訪れている。エリカが五年前に永住資格の申請をした時に提出した身元保証書が、偽造されたものではないかどうかを、時効が成立する前に明らかにしたいと考えたためである。

 だがその時の事務官が対応した相談では、二通の身元保証書の写ししかない物的証拠だけで起訴に持ち込むことなど、無理ではないかと取り合ってもらえなかったのである。

 その後、差し戻し審において家裁の監護者指定審判が再び下されたことにより絶体絶命の窮地に立たされた達也が、だめで元々のつもりで告訴状を自署し地検に郵送しておいたのである。そうしたら意外な展開となった。

 人事異動により着任したばかりの検事の指示によると思われる、事務官からの連絡を受けて達也は地検に呼ばれた。見るからに切れそうな新任の検事を前に、達也は当時のいきさつなどについて話し始めた。

「その時は、一回目の離婚調停で和解した直後でもあり、妻を全面的に信用できるような状況ではありませんでした。

 三年間の在留資格更新には同意のうえ身元保証書を書いたのは確かですが、永住資格の取得に使われたもう一通の身元保証書は、署名した覚えはなく偽造された疑いがあります。」

 そして、その後の麻奈美のパスポート紛失届から再交付申請も、すべてエリカの虚偽の届出によって行われたものであり、こんなことを見過ごしていたのでは法治国家であるはずの日本が、三等国家と同等になり下がってしまうではないかと訴えた。

 数日後に当該検事から電話があった。起訴に持ち込むかどうかの判断のために被告訴人であるエリカから任意で事情を訊きたいが、それについて同意するか否か達也に確認してきたのである。

 検事と直接、相対して事情を訊かれるようなことになれば、刑事事件の被疑者に近い扱いを受けることになる。これまで、この国の役所の窓口を欺くことなど、いとも容易いことだと舐めてかかってきたエリカも少しは身にこたえるのではないか。今すぐにでも麻奈美を連れて別居しようとしている行動への、牽制の意味ぐらいはあるかもしれない。そう考えた達也は、迷うことなく同意する旨を伝えた。

 こうしてエリカは地検からの呼び出しを受けたのである。恐らく金谷にも相談したはずであったが、くだんの検事は、事情聴取の場に弁護士を立ち会わせることはないと電話で話していた。その時のエリカの心細さが如何ばかりだったのか、達也は想像をめぐらせた。

 そうした達也の行動が、金谷の神経を逆なでしたものであろう。それは、エリカの代理人となった裁判とは関係のない余計な対応に心を砕かなければならなかったのであるから、当然の怒りであった。

「原告のこのような行動は、家庭裁判所の審判により窮地に追い込まれたことから、被告の永住資格取り消しという、万に一つもない可能性に賭けた悪あがきであり、原告が親権者となった暁には被告と未成年者の面会交流を最大限認めるとした陳述と相反するものですが、どちらが本心なのですか?」

と金谷は、舌蜂鋭く迫ってきた。

 達也にとっては想定になかった質問であったが、落ち着き払って答えた。

「その件については永住資格申請に際して、被告が不正を行ったのかどうか真相を明らかにしたいという、法治国家であるこの国の一市民としての正義感から発したものであり、離婚訴訟とはまったく関係はありません。

 身元保証書の保証事項にも、非保証人が国内滞在中の法令順守が記されています。」

「しかし、永住資格が取り消されれば被告は日本からいなくなる、原告はそれを望んだのではないのですか?」

「永住資格を取り消すかどうかの判断を行うのは入国管理局であって、検察ではありません。検察は、身元保証書に係る有印私文書偽造、同行使の事実があったかどうかを調べるだけです。

 なお、確かに告訴はいたしましが、地検からはすでに不起訴処分に処すとの通知を受け取っています。」

 仙台地検は、唯一の証拠となる二通の身元保証書を県警の筆跡鑑定に回したが、結局、起訴に持ち込むほどの証拠とはなり得ないと判断したのであった。

 通知はエリカに対してはなされなかったらしく、

「それはいつのことですか?」

と金谷が質したのに対して、

「有印私文書偽造、同行使が五年の公訴時効を経過する一日前となる先週です。」

 達也がそう答えると、金谷は安堵の表情を浮かべてこの質問を打ち切った。

金谷の次の質問は、二〇〇八年にエリカが麻奈美を連れて三週間ほど家出するきっかけとなったDVに関してのことであった。

 これは、エリカが被害にあったと主張するその翌日に警察に相談に行き、その時の相談・苦情処理表の写しが家裁にも提出されているので否定はできない。

 しかし達也にしてみれば身に覚えのない浮気の件で、妻からしつこく迫られたので、それを止めさせるためにやむを得ず平手打ちをしたと答弁した。

 昨今の離婚紛争ではDVがあったかどうかも大きなファクターとなる。だが、それにも程度というものがあるだろう。達也の場合は後にも先にも一度だけ、言い争いの延長線上で思わず手が出てしまったものであり、警察に届けなければならないほどひどいものではなかったはずだ。

 しかし離婚裁判ともなれば、それが取るに足らない程度のものであってもDVの有無がことさらに誇張されてしまう。それをいやというほど思い知らされてきた達也は、その後は、度重なるエリカの暴言にもじっと耐えるしかなかった。

 妻からの言葉によるDVを受けてきたのは逆に達也の方だ、と言葉を返した。

そのほかには外国人妻であるエリカを慮り、精神面でサポートするような心づかいがあったのか、普段からフィリピン人に対する偏見があったのではないか、エリカが本国に送金することは婚姻当初からの合意事項だったのではないか、などについて質問を受け、およそ三十分に及んだ反対尋問が打ち切られた。

 最後に、財産分与算定の根拠とするための達也の定年退職前の給与所得について、壇上の高木裁判官が質問を行い、達也はようやく証言台から解放された。

 地検への告訴の件を除けば、ほとんどがこれまで書面で反論済みのことであったので、達也にとって返答に窮するようなものはなかった。


 替わって、エリカが証言台に立つ。金谷からの本人尋問は、一〇年間の結婚生活の中で、外国人妻としてエリカがいかに辛い立場にあったか。また、これまでの麻奈美の監護はエリカが中心になって行ってきたことなど、被告にとって有利な答えを導き出すための質問で占められた。

 次に、花沢弁護士による被告反対尋問に移った。

花沢はまず、婚姻期間中のエリカの借金について質問を始めた。達也がエリカの借金癖に危惧を抱いて申立てた一回目の離婚調停の際、それまでの借金を反省し、今後、そのようなことは厳に慎むことを約束して和解したにもかかわらず、その後もサラ金などから次々と借金を続けていた事実を、本人の口からようやく認めさせた。

 エリカ側はこれまでの反訴陳述の中で、サラ金などから借り入れをしている事実はなく、また離婚調停の時は日本語の意味がよく理解できないまま調停員から促されて和解させられたのであり、反省などした覚えはないと書面では主張してきた。

 それが今回の口頭尋問によって、陳述が虚偽であったとの印象を与えたのであるから、達也側にとって大きなポイントとなるはずであった。

 次に花沢は、麻奈美が小学校に入学して間もない時期に、エリカの私的な旅行で学校を休ませたことについて質問した。

 エリカは、その質問に対してうっかり本音が出てしまい、

「学校を休ませてはいけないのですか?」

と、麻奈美の教育に関しての意識の低さを印象付けてしまった。

 そのほかにも花沢は、抗告審で高裁が指摘した麻奈美の健康管理に関する懸念について、多重債務に陥るほどの経済観念のなさから、片親となって麻奈美を養育していけるのかについて、要点を絞り質問を行った。

 それら矢継ぎ早の質問に、エリカは返答に窮したり、これまで提出してきた陳述書の内容と矛盾するような答弁を行うなど、事前に金谷との入念な打ち合わせを行ってきたにしてはミスが多いと達也には映った。公平な眼で見れば、今回の口頭弁論は達也側にとって有利なものになるはずであった。

 しかし、これまで事実の誤認定どころか、黒を白と言いくるめるかのような事実の歪曲を行ってきた家裁が、この弁論調書が出たうえで最終的にどのような判断を下すのか、達也は決して楽観的に考える気にはなれなかったのである。


 口頭弁論から一ヵ月ほど経ってから送られてきた書記官による調書を読んだとき、案じていたことが杞憂ではなかったことを思い知らされる。改めて活字にされたものを読んでみると、当日、手ごたえがあったと感じていた印象とは随分、異なる部分も見えてきたのである。

 明らかに特徴的なことは、花沢弁護士が鋭く切り込んだ質問に対してエリカが返答に窮すると、高木裁判官が割り込んで焦点をぼかしてしまうという場面が随所に見られることである。

 また、達也側を不利にするためとしか思えない誘導尋問も公正なはずの裁判官の口から発せられている。

 例えば、金谷弁護士からの反対尋問で、

「長女は率直に言って、お母さん、被告にはとてもなついているというふうにあなたは思いますか?」

との質問に対して、

「はい、なついているというか、母親からはかなり精神的支配を受けているな、とは思っています。」

 麻奈美の目の前で達也やマサ子に怒鳴り散らすなどの恐怖を植え付け、一方では我がペットでもあるかのごとく寵愛するなど、畏怖と懐柔を使い分けてマインドコントロールしているのではないかと、達也が普段から感じていたことを述べたのに対して、高木が居丈高に訊ねている。

「精神的に支配を受けているというのは、原告のたぶん主観が入っていると思うのですが、客観的に見てどうなのですか。なついているのではありませんか?」

 これを主観的と断じるのなら、調査報告書に記された過度に情緒的な表現に偏った調査官の意見、また、宮本判事の手による審判文の中で、

「この時期に愛着の対象である母親と無理な母子分離がなされたりすることになれば、新しい興味を抱くところか、不安や恐れから立ちすくんでしまったりしていろいろなことを学ぶこともできず、長女麻奈美の健全な成長を阻害する恐れがある。」

などの表現は、合理的な根拠の薄い主観に過ぎないのではないのか。

 あの大震災では、多くの子どもたちが両親や片親を失うという極限の状況に置かれた。だが一時的には立ちすくむことがあっても悲しみを乗り越え、周りの人たちに温かく見守られながら、やがては未来に向けて懸命に生きていこうとしているではないか。子どもの順能力は、大人が考えているほどひ弱なものではない。

 離婚先進国でもある欧米では、現在のような離婚後共同親権が制度化される以前から、両親の離婚が子どもの精神面に与える影響について様々な研究がなされ、統計的にみて片親家庭で育った子どもは、両親の愛を受けてきた子供と比べ精神的な問題を抱えることが多いと認識されるようになっていた。

 特に母親からの過度な精神支配を受けて育った子どもには、本来、父親から学ぶべき集団生活の中でのルール、協力、競争、努力といった、社会で生きていくために不可欠な精神的自立が、両親が揃った家庭の子どもに比べて、未発達である傾向が強いことが注目されるようになったのである。

 そのことから、子どもの発育過程における父親が果たす役割の重要性が認識されるようになり、両親の離婚による子どもの不利益を最小化すべきとの観点から、離婚後も両親が養育に関わる共同親権制度を促す動機づけになったといわれている。

 達也が主張したかったのは、子どもの健全な成長にとって母親による過度な精神支配が妨げとなる、主観などではない極めて一般的な懸念についてであったが、高木の横やりによって口を封じられた格好となってしまったのである。

 まるで第二の相手側代理人といった印象であり、そこから導き出される判決に公平性を期待することは無理だと思った。先の監護者指定審判との整合性から考えても親権者は母親との家裁判決になるのではないかと、悲観的にならざるを得なかった。


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