第15話  東日本大震災


 二〇一一年三月十一日午後二時四六分、史上最悪の被害をもたらすことになる巨大地震が、東北から北関東にかけての太平洋側一帯を襲った。

 ちょうど麻奈美が幼稚園から戻ったときである。二階の自室にいた達也は、突然感じたただならぬ揺れに階下に降りようとしたのだが、大波にもまれる小舟に乗ったように歩くことさえままならない。

「麻奈美!地震だ!早くテーブルの下に隠れて!」

と叫ぶのが精一杯であった。

 階段の手摺につかまりながらやっとの思いで一階に下りていくと、麻奈美は居間に置いてある低いセンターテーブルの下に身を潜めていた。毎日通う幼稚園でも避難訓練は日頃から実施しており、それが身についていたのであろう。

「麻奈美!こっちにきて!」

 麻奈美とマサ子を頑丈な食卓テーブルの下に避難させた達也は、自らもそこに潜りこみ激しい揺れに耐えた。これまでに経験したこともない、長い恐怖の時間が過ぎた。

 ようやく揺れが収まりテーブルの下から這い出た麻奈美の顔は、まだ怯えたように青ざめている。幸い、達也の家は地震にも備えた耐震工法で建てられており、造り付け食器棚の皿一枚割れる被害もなかった。

 もちろん、家に居合わせた三人ともかすり傷ひとつ負っていない。だだ朝からホテルの仕事で街に出ていたエリカの安否は確認できなかった。家の電話も携帯も、地震発生から間もなく不通となってしまったのである。

 電気や水道、ガスのライフラインも地震直後に途絶したため、その夜は薄暗い蝋燭の明かりの下、残りご飯でつくったおにぎりを食べて夕食とした。そして暖房も使えないため、七時前にはベッドにもぐりこんで寒さをしのいだ。

 麻奈美はベッドの中で大きな余震が来るたびに達也の胸にひしとしがみつき、なかなか寝付けない様子である。夜八時過ぎ、枕元に置いた達也の携帯が鳴り、エリカからの連絡が入る。仙台駅近くの公衆電話からかけているようであった。

 電話でママの声を聞いて安心したのか、麻奈美はやがて小さな寝息を立てて眠りに就いたようだ。結局エリカはその晩、そのまま家に戻ることはできなかった。

 翌朝、達也が情報を得ようと近くの区役所総合支所に行ってみると、職員たちが総出で炊き出しのおにぎりを配給していた。これからしばらくは、食糧を手に入れることもままならなくなることを考えれば有難かった。達也は家族四人分のおにぎりを受け取るとすぐ家に取って返し、三人で朝食を摂った。

 昼前になってようやくエリカが家に戻ってきた。昨夜は電車もバスも不通となり、帰宅困難者が街にあふれていたため、仙台駅近くにある病院が避難所を開設していて、そこで一晩明かしたという。寒くて眠れなかったと言い、すぐに二階の和室で布団にもぐりこんだようであった。

 ライフラインのうち電気が最も早く、地震から四日目の朝に復旧し、これでようやくテレビ映像により、視覚的に地震被害の全容がつかめるようになった。

 想像を絶する未曾有の大災害であった。特に三陸地方からから関東太平洋沿岸部にかけて襲った大津波の破壊力はすさまじく、数千人規模の街ごと家も車も、そして恐らく人々も、無慈悲に津波にのまれる残酷なシーンがテレビの映像に生々しく映し出された。

 そして今回の地震はもう一つ、世界を震撼させることになる重大な事故を誘発させる。福島県の沿岸部に配置された東京電力の原子力発電所群が軒並み津波被害のため制御不能に陥り、メルトダウンによる放射能汚染が深刻な事態となったのである。

事故の全容が次第に明らかになるにつれ、それまで最悪と言われていたあのチェルノブイリ事故をも凌駕するほどの被害規模となることが専門家の間から指摘され、日本中、いや世界中がその行方を、かたずをのんで見守った。


 地震被害は進行中の裁判にも影響を及ぼすこととなった。仙台の裁判所はすべて業務停止状態に陥り、それらが本来の機能を取り戻すまでしばらくの期間を要するという。そのため三月中旬に予定されていた口頭弁論期日は延期を余儀なくされる。

 エリカにとっては、更に悪い事態が追い打ちをかけた。働いていたホテルが、外壁や内部の施設に大きな被害を受け再開のめどが立たなくなったのである。そのため、地震前まで就労により得ていた月一〇万円程の主要な収入源が断たれることになった。

 収入の無い状態で別居生活などできるはずもなく、結局、麻奈美の小学校入学前のできるだけ早い時期に達也の家から出るという、家裁主導による企図は頓挫した。

 地震から数日後、達也家族は車で山形の大石田温泉まで足を伸ばしている。被災地の宮城県内では食料品、日用品などの物資が極端に不足し、近くのスーパーなどでは最低限の買い物もできない状態が続いていた。もちろん風呂にも入れない。

 向かった目的は、買い出しと入浴のためである。地震被害の少なかった隣県の山形には数多く存在する日帰り温泉も、ボイラーで追い焚きしているような施設は燃料不足のため軒並み休業していた。ただ、豪雪地帯で知られるこの大石田温泉は源泉賭け流しのため影響を受けず、入浴可能であることをネットで調べておいたのである。

 仙台からはかなりの走行距離であり、残量が少ないことを示す燃料ゲージを気にしながらも、家族はようやく目的の温泉地に着く。マサ子も麻奈美もそしてエリカにも、この時ばかりは久しぶりとなる入浴に笑顔が戻り、周りは残雪の露天風呂に浸かって耐乏生活のストレスを癒(いや)した。

 帰り道のドライブインでは久しぶりにまともな食事を口にすることもできたが、我が家に戻った時は車の燃料も底をつき、それからというものガソリンスタンドでの給油が再開されるまでの一ヶ月近く、徒歩と自転車の生活を余儀なくされる。

 エリカも含めたこの日帰り温泉へのドライブが、家族そろって出かける最後の機会となった。


 震災後は人と人とが寄り添い合うことの大切さが見直され、それによって家族の絆が深まった、などの話もよく聞かされた。もし達也がこの時期に声を掛けていれば、すでに別居計画が頓挫しようとしていたエリカとも腹を割った話し合いが、あるいはできていたのかもしれない。

 しかし家裁審判で追い詰められていた達也にそのような精神的余裕はなく、むしろ裁判を闘ううえで有利な状況と捉えていた。

 予測が不可能な天災とは言え、エリカは仕事を失い、借りたアパートの家賃も払えない状況に追い込まれ、解約を余儀なくされた。これが別居前だったからよかったようなものの、もし別居状態にあったとしたら麻奈美の身上保全はどう担保されていたのか。

 またエリカの生活基盤はパート収入に依っており、常に不安定である。今回のような緊急時、経済的に助けてくれる身内もなく、それでどうやって生計を維持していくのか。地震はこれからも起こり得る。

 これらは、法廷で説得力のある主張として使えるのではないか。あくまでも抗告審で逆転することしか、その時の達也の頭の中には浮かばなかった。

 達也は地震前後の出来事をまとめて、陳述書を提出する。


  陳述書


 平成二十三年三月三日、仙台市青葉区役所にて相手方により長女麻奈美の住民異動届がなされていました。しかし、長女はその時点で私の住居に同居しており、転居した事実はないことから、私は区役所住民課に対して虚偽の届け出であると取り消しを求め、結果、大地震発生前に元の住所地に住民票を戻すことができました。この機転によって、長女は転居先の古いアパートで大地震に遭遇するという難を逃れることができたのです。

 相手方は新たな生活のための準備などまったく整っていないにもかかわらず、現住所地での小学校入学を妨害するために、あわただしく別居を強行しようとしたものであることは明らかです。

 現在、長女は申立人の手で蕃山小学校への入学準備が万全に整えられ、日常の遊び相手として交流が盛んな近隣の子供たちと一緒に登校できる日を心待ちにしています。そのような長女の心情はまったく顧みられることもなく、相手方によって見知らぬ土地に別居させられることにより、これまでの安定した生活環境が理不尽に奪われようとしています。

 そのような中で、小学校入学という大きな生活変化に伴う精神的負担を強いられるのは、長女にとってあまりにも過酷な状況と言わざるを得ません。

 今回の大震災発生時においても、長女は幼稚園から自宅に戻っていた時間帯であったため、私や私の実母と一緒に安全に身を守ることができました。もし同様のことが、相手方が働きに出ていて、幼い長女が一人で別居後のアパートの部屋にいたとしたらどうだったろうか、と想像するだけで背筋が凍る思いです。

 さらに相手方は、パート勤務をしていたホテルの建物が地震で大きな被害を受け、営業再開が危ぶまれる事態に陥っています。

 地震後の混乱の中で次の就職先を見つけることの困難さを考えれば、家裁での審判がなされた時点とは、状況が全く異なっていることを指摘しておきたいと思います。

 現在、私の住居は地震による被害もなく、長女も安心できる環境の中で平穏な生活を送っています。今後の審理では、長女の生活を優先した公正な判断をお願いする次第です。                                  以上


 こうして、離婚回避のための話し合いという最後の機会は生かされることもなく、裁判の再開を待つこととなったのである。

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