第11話  ぬかよろこび

 こうした達也の懸命の訴えが高裁に届いたと解るのは、日本列島が猛暑に見舞われたその年の盆前のことである。達也にとっては思いもかけない朗報であった。

 二〇一〇年八月、仙台高等裁判所第二民事部は「子の監護者の指定申立の審判に対する即時抗告事件」について、次のような決定を下したのである。


   主文

一 原審判を取り消す。

二 本件を仙台家庭裁判所に差し戻す。


   理由

第二 当裁判所の判断

「抗告人と相手方及び未成年者の生活費の内、住居費については抗告人らが抗告人所有の住宅に居住しているため、相手方の負担はなく、水道・光熱費も抗告人がその一切を負担しており、相手方の負担はまったくない。食費も、未成年者の飲食代や抗告人の母親の分を含めて抗告人の負担で購入しており、相手方は月一〇万円ほど得ていた自分の収入により嗜好品を購入する程度であった。

 また、未成年者の保育料は相手方の銀行口座からの振替により支払うことが抗告人と相手方との間で合意されていたが、相手方の銀行口座の残高不足のため口座振替ができず、抗告人が仙台市から別途送付された納付書により、上記保育料を支払っていた。」

と、借金をしたのは生活費のためとした原審の判断を退ける認定を行ったうえで、

 ①相手方の尋常ではない借金癖に見られるように、経済面で未成年者に対して安定した監護養育環境を提供できる可能性は低い。

 そして、これが未成年者の福祉にとって、客観的に見て不利益な影響を及ぼすことは明らかである。

 ②予防接種に係る小児科医の指導や母子手帳の記載を守らなかった理由が相手方の未成年者の健康管理の意識に起因するものであるとすれば、相手方自身の監護能力にも問題がある。

 ③予防接種に係る小児科医の指導や母子手帳の記載を守らなかった理由が、相手方が日本語による意思疎通を不得手としていることに原因があるとすれば、それはやはり相手方の監護能力に疑問を抱かせる重要な事情である。」

 ほぼ、全面的に達也が主張してきたことを認める内容であった。特に溜飲の下がる思いだったのは、

「五歳の幼児は父よりも母が看護するのが望ましいという一般論と、現時点における未成年者の愛着心程度のみに依拠して相手方を未成年者の監護者として指定することは、不相当と言わざるを得ない。」

と、これまでの家庭裁判所では常識とされてきた、母子関係ありきの偏向性を戒める文言が記されていたことである。

 それまでの審理の過程で、家裁の前例主義に偏った裁判方針に対して強い不信感を抱いていた達也にとって、原審判取り消しの判断を下した高裁の決定文を読んだとき、初めてこの国の司法の良識を見た思いだったのである。

 原審差し戻しの決定であるから、今後、家庭裁判所の審理がどのように進められるのかについては予断を許さないがともかくも、これまでの絶望的な状況からは脱したのではないか、との期待を抱かせた。


 高裁の決定を受けた直後の家裁審理では、高木と金谷の表情には明らかに苦渋の色が滲(にじ)んでいた。双方が呼ばれた審理期日においても、二人が額を寄せて何やら打合せをする様子が窺え、達也側は控室で待たされる時間が多くなっていた。

 それから間もなくして弁護士の金谷は、それまで否定し続けてきたエリカの借金について任意整理に着手し、ここに至ってようやく借入れ先の一覧を開示することになる。

 過払い利息などを見直したことにより借入残高は一〇〇万円程であったが、その件数は達也の指摘してきたとおり、優に一〇件を超えていた。

 中でも、アコム、プロミス、アイフルといったサラ金大手のほとんどから借入れし、しかもそのいずれもが長期延滞をきたしていたことからも、借金の返済のために新たな借金をつくるという、典型的な多重債務状態に陥っていたことは隠しようもない事実となった。

 達也が裁判前に最も心配していたのは、エリカが新たな借入先を求めていずれ非合法のヤミ金融に走るのではないかという最悪の事態であったが、その一歩手前まで借金の連鎖が進行していたことは誰の目にも明らかだと思った。

 しかしエリカの経済観念の欠如を自ら証明することとなったこの決定的とも思える証拠が、その後の差し戻し審で達也側に有利に働くことはついぞなかったのである。


 二〇一〇年九月、差し戻し審が始まった家裁の控室で待機していた達也のところに、花沢弁護士が入ってきて意外なことを告げる。

「再度、調査官の調査があるらしいので審理室で日程の打ち合わせをしたいそうです。」

 達也にとっては予想もしていなかったことである。高裁が差し戻し理由として挙げていたのは、麻奈美を監護養育するに当たり、エリカの金銭管理能力には大いに問題があること、それと日本語能力への不安や麻奈美の健康管理に関する意識の低さ、この三点であった筈だ。

 それらは、更なる審理を尽くしたうえで裁判官が自ら判断すべき事項ではないのか。それをまた、調査官を入れてどうしようというのだ。これでは、まるで調査官への丸投げではないか。

 達也はいやな予感を抱きながら審理室に入った。そこには再び高木と入れ替わった宮本裁判官が、今回は三人の調査官(上席の国井、それと二名の女性調査官)と共にテーブルに着いていた。エリカと金谷弁護士は、既に退席した後だった。

 達也は正面に座った宮本に向かって、率直に抱いていた疑問をぶつけた。

「調査官の調査ならこの一月に行ったばかりであり、再度、行う理由は何ですか?」

「裁判所が、前回の調査では不十分と判断したためです。」

 表情も動かさずに宮本は答えた。

前回の調査官の報告書に基づいて家庭裁判所の監護者指定の審判がなされ、それを契機として苦境に立たされたとの思いがぬぐえなかった達也は、

「前回の調査では、最初から幼児は母親と一緒に暮らすべきとの予断があったのではないのですか?」

 この批判めいた問いに対して、宮本は言い繕った。

「ですから今回はそのようなことのないように、一人ではなく三人で調査をします。    それに、あの報告書はひどいものでした。」

 達也にはこの最後の言葉が妙に引っ掛かった。報告書がひどかったとは何を意味しているのか。

 調査報告書に求められるべき客観性、公平性を欠いていたということなのか。あるいは逆に、裁判官が意図している結論を導き出す出すための材料として不徹底さがあったために抗告審での原審差し戻しを許してしまったという、宮本の不満を表現したものなのか。得心できないまま、それでも達也は従うしかなかった。


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