第12話  家庭裁判所に対する疑念

 一〇月に入ってまもなく、二度目となる調査官による調査が実施された。

最初は双方が別々の日に家庭裁判所に出向いての、調査官との面接である。

 冒頭に、達也は再び疑問に感じていたことを国井調査官に問いかけてみた。

「今回の調査は、相手側の希望で実施するものですか?」

「いや、これはあくまでも家庭裁判所の判断で行うものです。」

前回の宮本と口裏を合わせるかのように、国井は返答した。

 そこで傍らの花沢が、

「依頼人が長女の将来について最も心配しているのは、明らかにされた借金の件数にみられるように経済観念が尋常ではないので、母親が監護者となったとしても、長女を引き取って生活してはいけないのではないかということです。」

と切り出した。

 それに対して国井は弁明する。

「借金の件については、別のところで審理を行っていますので。」

 別の所とは何を指すのか、あるとすれば裁判官以外にあり得ないが、彼らは調査報告書が上がってくるのを、ただ待っているだけではないのか。

 この場に立ち会っても仕方がないと思ったのか、花沢は別の事案があるのでと中途で席をたった。面接は一時間ほど続いたが、前回のときと特別に変わったことを聞かれた訳でもなく、次回の家庭訪問調査の日程を確認してほどなく終了した。

 ただ母親のマサ子が、いつ終わるともしれない裁判に対して相当にいら立っていたことから、面接の場であらぬことを口走りかねないと不安に思っていた達也は、

「母親は高齢でもあるし、裁判が長引いて心労がたまっているので面接は割愛してもらいたい。」

との注文をつけた。それに対して国井も特に異論は挟まず、マサ子との面接は調査の対象から外れることとなった。

 その家庭訪問による調査は、予定通り二週間後に実施された。

母子が寝起きしている二階の和室も、今日はエリカの手によってすっかり片付けられ、普段は万年床で足の踏み場もないような痕跡はどこにも残されていない。

 最初、調査官はエリカに案内されてその和室に入った。しばらくすると初めての来客にも慣れてきたのだろうか、麻奈美のはしゃぎ声が二階から聞こえてくる。

 二〇分ほど経って、調査官と一緒にリビングに戻ってきた麻奈美は、すぐには達也のそばに座ろうとせず、三人の調査官を気にしながら電子ピアノに向かって好きな童謡をたどたどしく弾き始める。達也は麻奈美の気を引こうと、何枚かの写真をテーブルに広げて見せた。その中の一枚は、母マサ子が日課にしている整形外科への通院前に、幼稚園の送迎バス乗り場まで麻奈美を送っていく様子を撮ったものである。

 麻奈美は達也に、

「この写真、いつ撮ったの?」

と、不満げに言う。明らかに二階の和室にいるエリカの気配を感じ取り、気を遣っている様子である。

 自分がバアちゃんになついているような場面は、ママの意に沿わぬことであり、送迎時の写真を調査官に見られることが嫌だったのであろう。後に作成された調査報告書には、この時の麻奈美が反発した様子もしっかり記載されることとなる。

 調査官たちは、正味三〇分ほどの家庭調査を終えて引き揚げた。


 調査官の次の作業は、両親を麻奈美と一緒に別々の日に裁判所に呼んで、それぞれとの関わりあいの様子を観察することである。この裁判所での面接の場に、麻奈美にどのように言い聞かせて連れていけばよいのか、達也は思い悩んでいた。

 麻奈美はもう六歳である。子どもが喜ぶはずもない無機質な雰囲気の同じ場所に、一週間に二度も、それも両親が別々に連れていけば、何か普通ではないものを感じ取るはずである。いったい、私の身に何が起きようとしているのだろうと。

 それが幼児に対してどのような精神的負担を強いることになるのか、調査官は思慮を巡らすこともないのだろうか。彼らは本当に児童心理に精通した専門家として信頼に足る存在なのか、達也は強い疑問を抱かざるを得なかった。

 余計な緊張を与えないようにと、達也は同じ日、麻奈美の好きな温泉プールのある蔵王の保養所に泊まりに連れて行くことにする。そのついでにパパと一緒に用事を済ませてからということにすれば、裁判所での面接が強く心に記憶されることもないだろうとの配慮からである。

 そして当日、達也は麻奈美と一緒に家庭裁判所の五階に昇るエレベーターに乗った。麻奈美はその数日前にもエリカと一緒に来ているので、勝手が解っている様子である。

「あそこには白い砂場があるんだよ!」

 行く先の五階には、いろいろなおもちゃやボールなどを用意した遊戯室のような部屋があり、二人はそこに通された。なるほど砂場を擬したような平たい箱の上に白い砂が盛られている。

 二人の女性調査官はそこで待機していた。この人たちにも麻奈美が普段慣れ親しんでいる保育士さんたちのように、子どもが親近感を覚えるような温かみはない。これで本当に子どもの心を汲み取ることなどできるのだろうか、と疑問を抱かせるようなよそよそしさである。

「じゃあ、お父さんと何かで遊んでみて。」

 調査官に促された麻奈美は、積み木が入った箱を棚から取り出して達也と一緒に遊び始めた。その様子は、隣の部屋からマジックミラー越しに別の調査官が観察できるようになっている。何とも陰険なやり方である。

 父子で一〇分ほど遊んだ後、達也は麻奈美を残して別の部屋に呼ばれた。今回の調査の意義について疑問を感じていた達也は、それを調査官に投げかけてみる。

「高裁での差し戻し決定が指摘したのは、原審では監護者を指定するに当たり十分な審理を尽くしていないということであって、調査官の調査が不十分だということではなかったと思うのですが?」

 それに対して国井は、

「我々は、上からの指示で調査を行っているだけですので。」

 弁解がましく答えことに、達也は言いようのない不信感を覚えた。

 従来、離婚裁判は地方裁判所の管轄であったが、現在では家庭裁判所が調停から一貫して扱うようになっている。その家庭裁判所の組織から見ても調査官は明らかに裁判官の配下にあり、裁判官の意向に束縛されることなく中立的な報告書など書けるものだろうか。

 いや、調査官にはあくまでも独立した専門家との立場をとらせて、その実は裁判官の既定の方針に沿わせた報告書を書かせ、裁判の公正さを強調する。それが実態ではないのか。そんな疑念を、達也にはどうしてもぬぐい去ることができなかった。

 裁判所を出た時分には秋の日も暮れようとしていたが、その日はそのまま家に戻ることはなく、

「さあ、パパの用事がすんだから温泉プールに行こう!」

 麻奈美の純真な心が、汚れたものに触れられたかのようなざらついた気持ちは晴れなかったが、努めて明るく声をかけ蔵王の保養所に向けて車を走らせた。


 三人の調査官によって作成された調査報告書は、一ヶ月ほどして花沢から達也のもとに郵送されてきたが、前回のときの報告書と比べると倍ほどの頁数になっている。  果たしてその内容は達也が当初から抱いていた危惧を裏付けるものにほかならなかった。

 何かに急き立てられるように最後の頁をくくってみると、そこには調査官の意見のまとめとしてこう記されている。

「これまでの養育関係の中で形成された母子関係の密接さや、未成年者の発達段階から見て、未成年者が申立人と生活を別にした場合、安心感を得ていた対象が側にいないという不安や母に見捨てられたのではないかという悲哀から、精神的にかなり混乱することが予想される。相手方は、適切なケアーをすれば克服できると主張するが、それは容易ではないと考えられる。

 相手方が監護養育した場合には、現在の良好な生活環境が維持されるという利点はあるが、予想される未成年者の精神的混乱の大きさを考えると、申立人との母子関係の継続を優先させるべきであり、申立人に具体的に未成年者を監護できる態勢があると認められる以上、申立人を監護者として指定することが相当と考える。」

 これが、調査の結論であった。それは前回の調査報告書の内容をさらに補強し、客観性、合理性とは対極を成す情緒的、観念的な表現を駆使して、子どもの監護者は母親とすべきとの家庭裁判所の考え方をより強固に示したものにほかならなかった。

 頁を戻して最初から読んでみたが、エリカ側の主張をそのまま受け入れ、繰り返してきた借金の件、予防接種失念の件、今後の監護態勢などについてもすべて好意的に描かれている。

 別の所で審理を行うはずだったエリカの借金についても、

「申立人は生活費の不足のために借りたと説明しており、特に浪費により借金を重ねた事実は見当たらない。」

と、エリカの明白な嘘をそのまま事実として認定している。これは調査結果の所見というよりも、宮本の指示によるものと考えるべきであろう。そこに見えてきたものは、役人の自己保身と組織の論理そのものであった。

 三人の調査官が入れば、調査結果もより客観的なものになるのではないかと淡い期待を抱いてきた達也は、それが幻想であったことを思い知らされる。

 達也は沈んだ気持ちになり、何も手につかない状態であったが、週明けには裁判所で調査報告の説明とそれに対する意見を求められることになっている。とりあえずパソコンに向かい、報告書に対する意見書の作成に取り掛かかった。

 報告書では、エリカに監護養育能力があることを前提にして安定した母子関係を継続させるべきとしているが、その前提そのものが事実誤認であることを骨子とした意見書をようやくまとめた。


 そして十二月に入り、達也は重い足取りで家庭裁判所に赴いた。大きなテーブルには、宮本を中心に調査にあたった三名の調査官、それに相手方の弁護士金谷が席に着いている。エリカの姿は見当たらない。

 宮本は冒頭、達也に向かって訊ねてきた。

「読んでいただいた報告書に対して、何か意見がありますか?」

 達也が手元に置いた意見書にまとめてあることを伝えようとしたが、宮本はそれを遮るように切り出した。

「裁判がここまで進めば、もはや監護者指定うんぬんよりも親権者を決定する段階だと思います。ただ、裁判所が判決する前に、和解によって解決するという方法もあるのではないですか?」

達也は思いがけない和解という言葉を一瞬、理解できなかった。

 すると相手側の金谷が、

「こちら側が親権者との前提ならば、応じる用意があります。」

と、宮本の提案に同意する。

「依頼人と相談してみます」

 花沢は裁判官に中座を求め、控室に入ると達也にこう囁いた。

「あれだけの報告書が出て裁判官も意思を固めている以上、恐らく高裁にもち込んでも勝ち目はない。それよりも、こちらの条件を呑ませて和解に持ち込んだ方が得策だと思いますよ。」

すっかり戦意喪失の体である。

 達也は、和解という予期せぬ展開に考えがまとまらなかったが、再度、高裁に抗告しても却下されるのがオチで勝ち目がないのだとすれば、万事休すと腹をくくるしかないのかと諦めかけた。釈然としないまま花沢の注進に従い、三日後に花沢の事務所で和解に際してこちら側が出す条件を打合せすることにし、審理室に戻った。

宮本もその旨を了承して一週間後に双方の条件を詰めることにし、その日の審理を終えた。

 花沢から達也に連絡が入ったのは、翌日のことである。

「相手側から和解金として一三〇万円、養育費毎月三万五千円の条件を提示してきましたが、どうしますか?」

 和解交渉は、こちら側の条件について打ち合わせをしてからということになっていたはずであったが、どうやら花沢は金谷と代理人同士による直接交渉を始めたらしい。電話を終えた達也は、依頼人の意向を無視したような花沢の進め方を不快なものに感じた。

 それ以上に、今回の件だけではなくこれまでの経過を振り返ってみても、依頼人と代理人間の緊密な意思疎通を欠いていた気がしてならない。不本意のままやり直しのきかないこの裁判を進めることになってしまうのではないかとの危機感を、達也は強く抱き始めていたのである。


 達也は代理人の交替も視野に入れながら、なんとか再抗告を行う手立てはないものかと模索し始めていた。

その前にある大きな疑問について確認しておく必要がある。そう思い立った達也は、最初の監護者指定審判で窮地に立たされた時、訴訟取り下げの助言をしてくれていた東京の法律事務所に相談メールを送ってみた。

 家庭裁判所の判決を不服として控訴した場合、高等裁判所は差し戻ししかできないのか、高裁が自ら判決をすることはないのかとの根本的な疑問についてである。

これは家裁での和解勧告の後に、控室で花沢に投げかけた質問である。だが花沢は、ありふれた離婚裁判で高裁自ら判決することはない、と達也に答えていたのである。

 東京からの返信メールは翌日に送られてきた。

「結論からいえば、高裁自らが判決する実例は幾らでもあります。」

疑問を払拭する明快な回答である。

 達也はそこに一筋の光明を見出した。遠隔地で費用がかかっても、それで麻奈美の窮地を救うことができるのであれば、本当に信頼できる弁護士に依頼すべきではないのか。そう考えた達也は、メール回答を送ってくれた東京の法律事務所に面接相談の予約を入れた。

 暮れも押し迫った頃、達也は東京行き新幹線の車中にいた。上野で地下鉄日比谷線に乗り替え、茅場町駅に降り立つ。目的のビルはそこから歩いてすぐのオフィス街にあった。受付で用件を伝えると簡単に間仕切られた部屋に案内され、ほどなく所長と呼ばれていた初老の弁護士が現れた。

 達也は書類でずっしりと重みを増した旅行バッグの中から、裁判用の資料が綴られた分厚いファイル二冊を取り出し、これまでの裁判の経緯を説明し始めた。相談のポイントは、高等裁判所が下した原審差し戻し決定と、その後に出された家庭裁判所の調査報告書を示して、読み比べた上での意見を聞くことである。

 しばらく資料に目を通していた所長が、ようやく口にした言葉は、

「非常に珍しいケースですね。」

 一〇名を超える所属弁護士を抱え、離婚事件の取扱件数が年間で五〇〇件を超える、とホームページで謳っているこの法律事務所でもあまり前例がないという理由とは。

 調査官の報告書をもとにした家裁の審判が高裁で覆ること、また、その高裁が下した決定を完全に否定するかのような調査報告書が作成されるのは、見たことがないというのである。

 家庭裁判所にとって高等裁判所は、一般の官庁や企業の組織に置き換えてみればいわば上部機関であり、そこで下された判断を尊重しないというようなことは、普通では考えにくいというのである。

 その説明は、民間企業という組織社会に長く身を置いてきた達也にとっても納得できるものであった。

 だとすれば達也が漠として感じていたように、組織内のくだらない縄張り争いに巻き込まれてしまったとでもいうのだろうか。そうした世俗的なものを排した理路整然とした世界、そう頼んだからこそ裁判所に駆け込んだのではなかったのか。それは達也の単なる思い込み、幻想に過ぎなかったというのか。

 何よりも守られるべき子どもの福祉よりも組織の体面が優先され、養育能力もない母親を親権者として指定するなど麻奈美のためにもこのままでは引き下がれない。

「先生にお願いすれば控訴審で勝てる見込みはあるでしょうか?」

 単刀直入にぶつけてみた。しかし、所長はその問いには答えず、

「控訴審でも審問が何回も行われることがあり、その度に弁護士が仙台まで出張したのでは依頼人の出費は相当なものになりますよ。

 それよりも地元で信頼できる弁護士を探して依頼する方が、賢明な選択なのではありませんか?」

 ということは、やはり、ここまでこじれた親権争いの帰趨は読めないと踏んでいるのであろうか。

 仙台で新たな代理人を探すしかあるまい。そう心を決めた達也は、三年前にエリカが麻奈美を連れて家出した時、思い悩んで相談に訪れたことのある法律事務所があったことを思い出した。 


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