第10話   高裁への抗告  


 仕方のないことであった。このまま手をこまねいていては、二週間後には審判が確定してしまう。エリカは監護者として指定されればただちに麻奈美を連れて別居に踏切るに違いなく、それを阻止するには裁判を続けるしかない。達也は覚悟を決めた。

 二〇一〇年四月、達也を抗告人とする即時抗告申立書が、仙台高等裁判所に提出される。裁判用語である即時抗告とは、ひらたく言えば原審判に対する不服申し立てのことである。

 花沢からは抗告審で高裁がどのように判断するかの見通しについて問うても、明確な答えは返ってこない。ということは花沢自身、結果についてあまり自信がなかったということなのであろう。事実、家庭裁判所の家事調査官が作成した調査報告書を基に下した審判が抗告審で覆る確率は極めて低いといわれている。

 原審判に重大な事実誤認が含まれている場合とか、抗告側が再審に値するような新たな証拠でも示さない限り、抗告は棄却されることが多いという。棄却の場合はそれほど時間を要しないとも、花沢は達也に言い含めた。

 達也は腹をくくっていた。もし、棄却された場合には懇願してでも、エリカになんとか離婚回避に同意してもらうしかない。そのときには借金の肩代わりを含め、要求をすべて飲む覚悟も決めていた。麻奈美の将来を考えれば、養育能力など皆無に等しいエリカに監護を委ねることだけはなんとしても阻止したかった。

何のために裁判を始めたのか、何のために会社まで辞めたのか、すべてが無に帰してしまう。

 達也はエリカとの結婚で唯一意味があったといえるのは、二人の間に麻奈美が生まれたことをおいてほかにはないとまで思いつめていた。麻奈美は夫婦生活の自然の成り行きとか、もののはずみで偶然に授かった命ではない。

 エリカが約束した、養育費も協力するからとの言葉に何の疑問も抱かなかった訳ではない。だが事と次第によっては、自分一人の手でも育ててみせるとの達也の強い意志があったからこそ麻奈美は生れてきたのではなかったのか。

それを考えれば、麻奈美を将来の危機から守るのは、果たさなければならない父親としての重い責務だと改めて心に刻んだ。


 抗告棄却であれば一ヶ月もかからないと聞かされていた高裁からの通知が、五月の連休を挟んでいるとはいえ、六月に入ってからも何の音沙汰もなかった。

 この頃、麻奈美は達也の定年退職に合わせて、それまで通っていた保育所から自宅近くの私立幼稚園に移っている。両親の一方が未就業状態の場合、公立保育所の入所条件から外れてしまうことも表向きの理由としてはあったのだが、それ以上にエリカは自分の都合で頻繁に保育所を休ませるなど、就学前の大事な幼児教育との意識はなく、自らの就労のための託児所としか考えていないようであった。

 これでは小学校入学を翌年に控えた麻奈美のためにならないと考えた達也が、独断で幼稚園への入園手続きを行ったのである。入園には制服の購入やら、通園バス代、教材費などで新たに一〇万円以上の出費を強いられたが、いずれにしても保育所時代からエリカが滞納し続けた保育料は一年以上に渡って達也が支払ってきた。

 ここでもくだんの女性通訳人が、

「夫側が勝手に保育所をやめさせた」

と難癖をつけてきたのだが、もはや麻奈美の教育に関してエリカに相談するつもりなど、達也の意識の中にはなかったのである。

 その六月初旬、麻奈美がおたふくかぜに感染した。朝、幼稚園に送りだす前に右あごの辺りが少し腫れているような気がしてはいたが、さして気にも留めずそのまま通園バスで送り出した。ところが午前中、幼稚園から緊急の連絡が入る。

「麻奈美ちゃんが頭痛を訴え、保健室で休んでいるのですぐ来てください。」

 その日もエリカは仕事に出ていたので、達也が急いで駆けつけてみると麻奈美は保健室のベッドで休んでいた。いつもの元気がなく、右あごの腫れも朝家から送りだしたときよりもひときわ大きくなっている。

 多くの園児を預かるベテラン保育士が厳しい口調で言う。

「麻奈美ちゃんは感染性のおたふく風邪かもしれないので、すぐ小児科で診察を受けさせてください。」

 驚いた達也は麻奈美を連れて幼稚園からまっすぐ掛かりつけの小児科に直行した。

「おたふく風邪ですね」

 診察した医師はそう告げ、麻奈美の母子手帳をパラパラめくりながら達也に詰問した。

「三歳の頃におたふく風邪の予防接種をするようにお母さんには指導していたのに、なぜさせなかったのですか?」

 達也が母子手帳を覗き込むとそこには手書きのメモで「おたふく風邪予防注射」と、その予定日まで記載してあるではないか。更に医師はポリオの二回目、日本脳炎の予防接種もまだ受けていないので、小学校入学前には必ず済ませるようにと念を押した。

 明らかにエリカの手抜きだと思った。二歳頃までの定期検診や予防接種にはエリカの日本語能力に不安を抱いていた達也が一緒に病院について行くなどしていたのだが、それ以降は大丈夫だからというエリカに任せていたことが失敗だった。

 翌日から発熱は四〇度にも達し、顔もますます腫れてきて辛そうである。だが、一旦おたふく風邪にかかると特別な治療法はなく、ただひたすら高熱を冷やし、家の中で安静にしている以外に処方はないという。

 もちろん通っている幼稚園も、医師が完全に治癒したことを確認するまではほかの園児たちに感染の恐れがあるため登園することは許されない。というよりも、一歩も外に出ることができないのである。季節は初夏で、外では子ども達が楽しそうに遊んでいる。そんな光景を家の中から一人眺めているしかない。それは、遊び盛りの麻奈美にとっては何よりも辛いことであった。

 だが麻奈美がそんな病状に苦しんでいるときでさえも、エリカは仕事を休んで看病にあたるようことはなかった。五月から始めたホテルの朝食サービスの仕事は、シフトがあるのでほかの人に迷惑をかけてしまうというのである。

 そんなエリカの、我が子の看病も顧みない身勝手さに憤りを感じた達也は、ことのいきさつを陳述書にまとめ、高等裁判所宛に提出する。


  陳述書


 去る六月三日、長女の右頬に異常な腫れが認められたため、私が小児科に連れて行き診察を受けさせたところ、ウィルス性の疾患である流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)と診断されました。

 長女は現在も自宅療養中ですが、妻が監護者としては不適格であるとの根拠を示す明白な事例であると思われますので、以下の通り陳述いたします。

 長女の各種予防接種の状況については私も気にかけていましたが、母子手帳を管理していた妻が大丈夫というので、これまで任せてきました。

 しかし今回、長女が上記の疾患を発症したのは小児科医師が予防接種を受けるように指導し、母子手帳に記載していたにもかかわらず、ワクチン接種を怠っていたことよるものであることは疑う余地がありません。

 更に未了のワクチン接種はおたふくかぜのほかにもポリオの二回目、日本脳炎などがあることも医師から指摘されました。予防接種の時期的な制約もあり、もう妻に任せておく訳にはいかないので、今後これらのワクチン接種は私が直接、長女を連れて行って受けさせることにいたします。

 今回の件は長女の健康管理に関する妻の意識の低さと、母子手帳に記載された内容や小児科医からの重要な指導を理解できない日本語能力の低さが、長女の福祉に直接災いしたものであることは明白です。

 健康管理に関する意識の低さは、罹患して四日目に、少し元気になった長女を妻が近くの公園に連れて行き、よその子ども達と接触するのを放置していたため、急いで連れ帰った私との間で激しい口論になったことからも如実にうかがえます。

 現在、長女は上記疾患により幼稚園を休んでいますが、妻が就労で看病できないため、長女の自宅での看護には専ら私とその母親があたっています。私は四月で定年退職し、母親の協力も得ながら長女の監護体制が整っていますが、妻は多重債務状態にあり借金返済のための就労を続けなければなりません。

 もし今回の長女の疾患が、妻が望んでいるような別居状態下にあったとしたら、合併症の懸念もあり治癒まで最低一~三週間、自宅での安静療養が必要な状況下で、誰が長女の看病をしてくれるのかを考えたとき、背筋が凍る思いです。

 借金返済に追われ、長女の健康管理もおろそかにしている妻を、調査官の調査報告のみに依拠して監護者として指定した家庭裁判所の審判は、明らかに長女の福祉をないがしろにする不適切なものであるといわざるを得ません。         以上




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