パスコード

朝田さやか

恋っていう液体に溺れた。

 どうしたら、「片想い」じゃなくなるんだろう。


「来週の土曜日あいてる?」


 四月十九日。四月生まれでほとんど祝ってもらえることのない私の誕生日。それを目前にして何度も悩みながらメッセージを送信した相手は、初めてできた彼氏だった。


「うん」


 いつもそうだ。即レスしてくれるくせに、内容は素っ気ない。既読がすぐに付く理由だって、四六時中スマホのゲームをしているからに過ぎない。彼女じゃなくても、博人ひろとはすぐに返信を返す。


「じゃあ、どっか行かない?」


 送るか送らないかギリギリまで迷って、指先が仄かに震えながら押した送信ボタン。バレンタインに私が告白して、もうすぐ付き合って二ヶ月になるというのに、ちゃんとしたデートはしたことがない。告白した帰りにカラオケに誘って、その日だって喉が痛いからって私だけが歌ったそれっきり。


「いいよ」


 またすぐに送られてきた返信に愛情は感じられなくて。このまま私が何も送らなければ、時間も場所も決まらないまま流れていくんだろうなぁって。メッセージを送れば送るほどに虚しさが心の中に積み上がっていくだけなのに、話したいから送るしかない。


「どこいく?」


 例え一度も好きだと言ってもらえてないからといって。好きになった私の負けだ、しょうがない。


✳︎


「博人のことがまだ忘れられなくて、だから付き合ってもらえませんか」


 バレンタインの日、二人とも学校帰り、近くの公園に呼び出して、別の制服を着た博人に告白をした。


 私が差し出したのは、甘いものが嫌いな博人に合わせてビターチョコレートを使った、クッキーとナッツまみれのチョコサラミ。何度も練習して作ったお菓子を、何度も口で反芻した言葉に乗せて。


 夕暮れ時、辺りは薄暗くなっていたから博人の表情ははっきりと見えなくて。私の表情もまた夕闇に紛れていてくれたら嬉しいと願った。


 中学校の時に一度振られて、告白するのは二度目。だからなのか、私の頭は妙に冷静で、吹き抜けた風の冷たさも、博人の返事の一言一句も、はっきりと覚えている。


「付き合うのとか初めてだから上手くできるか分かんないけど、それでもいいならよろしくお願いします」


 博人がそう言った瞬間、私たちの間に満ちたのは幸せな空気ではなくて、変な気まずさとほんの少しの温かさが入り混じった、なんとも言えないものだった。少なくとも私には、そう思えた。


「あり、がとう。これからよろしく。……あの、良かったらカラオケとかいかない?」


 人はそれを初々しい空気感とでも表現するんだろうか。だけどそうじゃなかった。始まった瞬間に終わりが見えてしまうような、そんな交際スタートの瞬間だった。だから、私はそんな変な空気感が耐えられなくて、終わりから目を逸らすように遊びに誘った。


「うん」


 思えばその時の返事さえ素っ気なかった。だけど、一度振られた相手に二度目、なんでもいいからオッケーをもらったその時の私が浮かれていたのも事実で。冷静さと舞い上がる自分が同時に存在していたから、半ば強引に誘ってしまったようにも思う。


 道中の会話も基本的に私がまわしていて、喋らなきゃ喋らなきゃって気を張っていた。カラオケの部屋に案内されて初めて「ごめん、実は喉壊してて歌えない」って言われて、「無理して付き合せちゃったかな」って心の中で思いつつ、「大丈夫」って答えて。思えばそこが、小さな負の感情を持ち始めた始まりだったと思う。


✳︎


 注文したクリームソーダのアイスクリームが溶け始める前にはもう、別れようと言う決意は固まっていた。


「映画、めっちゃ面白かったね」


 今日、私は人生で一番切ない誕生日を過ごす羽目になる。


「うん、やっぱり主題歌が最高だった」


 中学生の頃、博人と仲良くなったきっかけだったアーティストのボーカルが初主演を努めた映画を観に行った。提案したのは私だ。少しでも会話が弾みますようにって。


「だよねだよね! MV公開されてからヘビロテしてたけど、エンドロールで流れた時は鳥肌立ったなぁ」


 私があまりにも一方的に好きすぎた。博人は私のことを好きだから付き合ってくれたわけじゃないって分かってたけど、もう耐えられなかった。


「同じ曲なのにシーンとリンクしてるから一層良かったよな」


 編み込みのハーフアップ、薄く施した化粧、悩み抜いて選んだ、ギンガムチェックのワンピース。可愛くないのは分かってるけど、朝から時間をかけて頑張った分の労いの言葉くらい、くれたっていいじゃん。何も言ってくれないのは想定通りだったけど。


「いやそれなー!!」


 口に含んだメロンソーダは上手く混ざっていなくて、シロップの甘味だけを吸い込んでしまって。それでも、感情を隠すことに慣れてしまった私は笑顔のまま、表情一つ変えない。


「あっ、ごめん」


 博人が組み替えた足先が、私のスニーカーの先にぶつかった。何かを口にする前にする――今はアイスコーヒーを飲む前にした――そんな仕草は昔から変わらないままだ。あの時は友達と数人で座っていたけれど、今は二人きり。


「ううん、全然」


 二人きりでいるだけで、何も変わっていない。気がつくと博人のことを考えている自分の、一方通行の気持ち、片想いのまま。博人は私のこと、ほんの少しでも考えてくれてるのかなって、願えば願うほどに胸が締め付けられる。


「そういえば、ライブ決まったな」


 博人との関係に、無理矢理にでも名前をつけたかった。彼女になって、博人を独り占めしたかった。


「そうだね。当たったらいいなぁ」


 一緒に行こうの言葉さえ、もう言えなくて。バレンタインにあげたチョコレートの感想も、一ヶ月、二ヶ月記念を祝う言葉も、全部貰えなかったから。やっぱり今日も期待してないまま、誕生日おめでとうの言葉は貰えない。


「年々倍率上がってるからな」


 メッセージを送るのは、いつも私から。おはようからおやすみまで必死に会話を繋げようとするのにも疲れちゃった。


「あっ」


 その時、ブブ、と博人のスマホが震えた。


 その瞬間に、黒い感情が私の中で湧き上がる。SNSでよくやり取りをしている女の子からかなって、そんな全部が全部そうなわけがないのに、頭をよぎってしまう。


「ごめん、ライフ満タンの通知だわ」


 そう言って、笑いながらスマホの画面を下に向けて、テーブルに置く博人。本当にゲームの通知なのかなって疑ってしまうのは仕方ない。だって、私とメッセージのやり取りをしている時よりも、あの子とリプ返し合っている時の方が、文字が楽しそうなんだもん。


「しなくていいの?」


 私が博人のSNSを勝手に見てることすら、本人には秘密にしてる。博人が友達との距離が近いのは知ってるし。それで勘違いしたのが昔の私だったから。


「大丈夫大丈夫」


 私といるから、スマホは触らない。そんな博人の気遣いや優しさが好き。だけど、底抜けに優しいからこそ、自分の気持ちを伝えられない。もっと構ってほしいって、もっと興味持ってほしいって、私以外の女の子と連絡を取らないで、なんて。全部変な気を遣わせるだけだと知っているから。


「ありがとう」


 私が言えないように、博人も「辛いことがあった」っていうのをSNSで呟いて。私に相談してくれたらいいのにって思う、その言葉もまた飲み込んだ。


「ごめんちょっと、トイレ行ってくる」


 メロンソーダの上に乗ったアイスは溶け始めてどろどろだ。


「うん」


 席を立った博人を見送って、味の混ざったソーダを一口。嫌われたくないから、私は踏み越えてはいけないラインを見極めていたはずだったけど。


 机に置かれたままのスマホが気になって仕方なかった。きょろきょろと辺りを見回して、そっと手に取った。見つかったところで、この後すぐに振るんだからと開き直って。


 ロック画面は、さっき言っていたアーティストさんの写真だった。いつだったか、昔みんなで遊んだ時にパスコードを開けるゲームをしたことを思い出す。確か、ボーカルの方の誕生日だったからすぐに私が開けちゃったんだよね。


「0711」


「あれ」


 開かない。一度私たちが知ってしまったから、変えたのかな。それでもおそらく、アーティスト関連の数字なのは間違いないと思う。結成日、デビュー日、初コンサートの日にち。入れても入れても全部開かなくて。


 あと一回間違えてしまったら、一定時間開けられないロックがかかってしまう。だからそれは、使い方は間違っているけど「魔が差した」みたいな感覚で。心の奥の何かに突き動かされるように、四桁の数字をタップしていた。


 ――ゼロ。

 ――ヨン。

 ――イチ。


 そして。


「何してんの」


 溶けたアイスコーヒーの氷が、からんと音を立てた。


 裏切られた、と漠然とそう思った。戻って来ていた博人に声をかけられたことよりももっと、驚くべき出来事が目の前で起こっていたから。


 「キュウ」の数字をタップした右手の中指が、小刻みに震えていた。それは驚きからなのか、嬉しさからなのかは分からなくて。


 ライフが満タンになっているゲーム画面の前で固まって数秒。


「あっ、その、ご、ごめんなさい」


 ようやく置かれている状況に気づいて、慌てて博人にスマホを返した。


「あーあ、はっず」


 座席に座って、両手で顔を覆う博人の顔は真っ赤だったけれど。対面に座る私の方がもっと、もっと、赤く塗った唇と同じくらいに赤く染まっていたと思う。


「誕生日おめでとう」


 そう言いながら差し出されたプレゼント。スマホが開いたパスコード「0419」は、私の誕生日だった。


「ありがとう」


 恥ずかしさと嬉しさと驚きで胸がいっぱいになって、どくどくどくと音を立てる心臓がまた私の顔を熱くする。


「開けていい?」

「うん」


 ラッピングの紐をするすると解くと、中から箱が現れて。その箱の中に入っていたのは、私が好きなキャラクター、好きな色のマグカップだった。


「あ、ありがとう……」


 予想を裏切られてばかりだ。忘れられてると思ってたのに、想われてないと思ってたのに、また欲しい言葉を貰えないと思ってたのに。誕生日も、好きなキャラクターも、好きな色も、伝えたのは数年前のことなのに。なんで、どうして全部覚えてるの。


 息の吸い方さえ忘れてしまったみたい。記憶が全部飛びそうなくらい嬉しい。うん、私、博人のこういうところが――。


「好き」


 溢れ出した二文字の言葉は最初に言おうとしていたのとは反対の言葉で。


「……俺も」


 一拍間が空いて、噛み締めたように口に出された言葉。


「俺も好き」


 耳が、溶けてしまいそうだった。さっき飲んだシロップのかたまりよりも甘い空気に満たされて、サイダーみたいな小さな刺激が全身を駆け抜ける。


 私たちはそんな、恋っていう液体に溺れた。

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