優しい遺書の書き方

入江 怜悧

第1話 朝


「愛とは、死の恋人である。」冒頭の文にはこう続く。「最も優しい死が愛であり、愛の持つ激しさの最たるものが死だ。故に、愛の果てに死することを、私は最愛と呼ぶのである。」僕が初めて他者に認められた文章がこれだ。出版社が主催するアマチュア作家向けの賞に応募した短編小説『愛果あいはての死』が優秀作品に選ばれた。十七のことだった。過去の成功が輝かしく見えるのは、今暗がりに立っているからだ。当時は現役高校生の受賞ということでそれなりに注目を浴び、短編集の一編として書籍化もされた。演出家の父は大袈裟なまでに息子を褒め、世間の誰よりも次回作に期待してくれた。今年で二十五になる僕は、十七の夏に綴った愛を超えられずにいる。



 アラームではなく、もっと有機的な音によって眠りから引き上げられた。瞼の裏に慣れた瞳は、カーテンの隙間から差し込む日の光に驚いている。まばたきを繰り返している間にも、僕を起こした声は僕の名前を呼び続けていた。

「トモちゃん!ちょっとお願い!」

 声のする方へ未だ開ききっていない目を向けると、これから出勤をするのであろう服装に身を包んだ女の人が、部屋のドアからこちらを見下ろしていた。寝起きで乱れた髪の僕とは対極にいるような、艶のあるショートカットが綺麗にセットされている。この家の家主で、僕にとっては逆らうことの出来ない女王のような人だ。

「おはようございます…。」

「おはよ。ねぇ、悪いんだけど洗濯物干しておいてくれない?シーツもバスタオルも洗ったから、早く外に出したくて。脱水二回かけたら出発時間になっちゃった!」

 細い手首に巻かれた銀色の腕時計を気にしながら、体はもう玄関へ向かおうとしている。僕はぼんやりとした頭で何とか話を理解すると、痰の絡んだ汚い声で返事をした。

「ありがとう!じゃあ行ってくるね!雨響うきょう、研修だから早く帰ってくるって!先に夕飯食べてていいよ。いってきます!」

 今起きたばかりの相手に対して色々な情報を与えすぎだとは思いながらも頷き、小走りで靴を履きに行った背中を追いかけようと布団から身を起こした。枕元に置いた眼鏡を手探りで掴み上げると、レンズに触れないよう気をつけてかけた。立ちくらみに耐えて部屋を出る。廊下を歩く姿はさながらゾンビのようだろう。

「鍵かけますよ。いってらっしゃい。」

「ありがとう、助かる。じゃあ洗濯物よろしくね。」

 ベージュのショートブーツが秋らしい。薄手のコートの裾を翻し、晴佳せいかさんは職場である出版社へと向かった。静かに閉まった玄関のドアに鍵をかけ、ぐっと伸びをする。背骨から音が鳴った。眼鏡がズレる。秋になり朝夕は冷えてきたというのにまだ薄いTシャツと半ズボンの寝巻きを着続けているのは衣替えが面倒だから。日に焼けることのないなまっ白い腕をさすりながら洗面所へ移動した。ごうごうと音を立ててドラム式の洗濯機が仕事をしている。表示された終了時間まで十五分ほどある。食欲はないが肌寒いのでスープでも飲もう。カレンダーやスケジュールを確認しなくても、今日の予定がないことはわかっている。洗濯機でさえ毎日働いているというのに。そう思うとため息が零れて仕方がない。いや別に仕事をしていないわけじゃない。ちゃんと給料をもらって、決まった額をこの家に納めて、そりゃ毎朝電車に揺られて出社してる晴佳さんや雨響と比べて不定期な仕事だから稼いでる額も違うけど、それでも働いている。誰に何を言われたわけでもない、僕しかいないキッチンで必死になって心の中で言い訳がましいことを言うなんと惨めなことか。電気ケトルでお湯を沸かしながら棚を漁ってカップスープの袋を探す。ここで暮らす三人で色違いで購入したスープ用のカップにオニオンコンソメの粉を入れて、湯が沸くのを待った。僕のカップは薄紫色。グレーが僕の大学の同級生、雨響のもので、若草色が雨響の姉の晴佳さんが選んだものだ。しとしとと雨が降る日に産まれた弟の雨響は、うきょう、という珍しい響きからか、誰からも下の名前で呼ばれていた。僕が低身長なこともあるが、すらりと背が高く、手足が長い。透き通るような白い肌とあっさりとした顔付きで、黙っているだけで柔和に見える。姉の晴佳さんは、弟とは逆に晴天の日に産まれたそうだ。はるか、ではなく、せいか、と読む。姉弟なだけあって顔のパーツはどことなく似ているのに、明るくはきはきとした性格が表情に出ている為、おっとりとした雨響とは全く違った顔に見えるのが不思議だ。仲の良い姉弟の生活に、なぜか血縁のない僕が混ざって暮らしている。理由を尋ねられても一言で返すことは出来ないが、拾われたようなもの、と言うのが最適だと思っている。



 図書館の一番大きな窓はいつだって空を映していた。

 僕が通う大学には、どこの大学にもあるような学生向けの図書館が、敷地内の奥まった場所にあり、僕は放課後の時間をほとんどそこで過ごしていた。有名なデザイナーが手掛けたらしい三階の閲覧スペースは、壁一面が大きなガラス窓になっていて、のどかな景色を見ながら本を読むことが出来る。窓を向いて設置された1人掛けのソファと簡易テーブルを占有する学生はほとんどおらず、いつ行っても空席があった。僕は常に同じ席に座って好きな文豪の作品を読んだり、自身の執筆活動に励んだりしていた。高校の頃の成功に急かされるように小説を書き続けていた僕は、都内でも上位の私立大学を受験し、無事文学部に入学した。国文学科に籍を置いた僕は、同じ作家を好むクラスメートと友情を育みながら、友人には黙って執筆を続けていた。あの巴栞ともえしおり先生ですか、と声を掛けられないことは、ありがたくもあり正直悔しくもあった。枝折巴しおりともえ、というただでさえペンネームのような本名から離れられずに付けた活動名を外で耳にすることはなかった。いつか、この大学の案内誌やウェブサイトに著名な卒業生として載ってやる、そんな子供らしい志が僕に筆を執らせた。毎日表情を変える窓の外の空に見守られながら書き上げた小説は、どれもヒットしていない。出版社に持ち込んで担当者に読ませてみても、良くて文芸誌の隅に短歌や詩が小さく載るくらいのものだった。好きで始めたことなのに、結果を追い求めることが本質になってしまいそうで怖かった。楽しいという気持ちを何とか忘れないよう自分に言い聞かせていた。

 窓の外の景色が秋めいてきた頃、僕の特等席に見知らぬ学生が座るようになった。ソファはいくつも並んでいるので座る場所がなくなったわけではないのだが、毎日のように使っていた場所なので気に食わないのも本心だ。座っていてもわかるスタイルの良さを無駄にするように背を丸めてノートパソコンを操作している男子学生は、重たい黒髪を眉と耳の上にこんもりと乗せて、細いフレームの今風な眼鏡の奥から真剣な眼差しで画面を睨んでいる。いくつか黒子が散っている白い頬にも、涼しげな目元にも、薄い唇にも見覚えはなかった。小説を書いているせいなのか、人の容姿をまじまじと見て文章化しようとしてしまうのは今に始まったことではない。服に興味のない僕とは違って、彼はシンプルながらもほぼ毎回違う格好をしていた。いつの間にか僕の特等席は彼のものになり、僕は一つ離れた席を使うようになった。学部も学年も知らない相手に気安く話しかけるような社交性は持ち合わせていないので、会話などは一切無く、ただ放課後の時間を同じ場所で共有しているだけの関係だった。彼がパソコンで何をしているのかも知らない。向こうも僕が何をしているのかわからない。それでも冬になると、彼がいない日の窓の前に寂しさを覚えるようになった。



 洗濯機に呼ばれて、リビングのソファから立ち上がる。空になったカップをシンクに置いて水を張った。誰も料理を得意としないのに無駄に広々としたキッチンだな、といつも思う。洗濯機から丸まった衣類などを取り出してカゴに移し、ベランダまで運んだ。思いの外寒かったが上着を取りに行くのは面倒で、半袖から伸びる腕に鳥肌を立たせながら洗濯物を干す。晴佳さんに言われた通り、シーツとバスタオルも広げて日に当てた。僕も夏の肌掛けを洗って冬用の布団と入れ替えればよかった。カゴの中が空になった頃には指先がすっかり冷えていた。スープを飲むのは干した後だったかもしれない、と小さな後悔をしながら部屋へ戻る。まだ昼前の時刻を指す壁掛けの時計を見つめながら、この後のことを考えた。もう一眠りしてもいい。雨響の帰りが早いなら夕飯を作ってみようかな。駅前のスーパーはもう時期開店する。欠伸をして頭を掻いた。あちこちへ跳ねた髪を手のひらに感じて、外出するのが億劫に思えた。別に誰と会うわけでもないのだから身だしなみなんて気にしなくていいのだけれど、それにしてもひどい。髪を整えて服を着替えて、という準備を想像したら買い物に行く気も失せてしまった。小窓のついた納戸に机と布団を置いた自室に戻って充電コードからケータイを取った。誰からの連絡も来ていない。アプリを開いて、雨響とのトークルームにメッセージを送った。

『夜、なんか食べたいものある?』

 これで、リクエストがあったら材料を買いに外へ出よう。なんでもいい、等の解答が返ってきたら二度寝する。仕事中だからすぐに返信はないだろう。机の上の大学ノートをぱらぱらと捲って、自分の筆致をぼんやりと眺める。来週までに書き上げる短編小説が半分まで綴ってあった。僕は今も、うだつの上がらない作家を続けている。作家、と言ってもまだ書籍も出ていなけば、文芸誌で連載を持っているわけでもない。毎月一本作品を書いては、出版社に持ち込んで、担当のお眼鏡にかなえば掲載してもらえる、と言った具合だ。高校のときからお世話になっている担当のご厚意で校閲や取材などの仕事させてもらっているので、収入のほとんどはバイト代だ。十七の僕が知ったら悲しむだろうな。

『おはよ〜なんでもいいよ〜』

 太陽の絵文字付きで雨響から返事が来た。昼までケータイを見ないと予想していたので驚いた。なんでもいいなら、外へは出ない。そうなると本当にやることがなくなってしまう。まだ寝巻きのままなので二度寝コースだ。

『買い物行くの?行く予定ならあのパン屋でクロワッサン買ってきてほしい!』

 ぎゅうっと眉間に皺が寄ったのが自分でもわかった。雨響がどんなつもりにそんなお願いをしたのかは本人に聞かなければわからないが、僕の頭はずしりと重くなる。僕が暇を持て余していると察して、外に出そうとしてくれたのではないか。用があっても外出を嫌う僕に断れない提案をしたのではないか。雨響は優しいから、きっとそうだ。

『了解。』

 震えそうになる指でなんとか文字を打つと、何度も押し間違いをしながら返事を送った。椅子を引いて倒れ込むようにして腰を下ろす。雨響は優しい。僕は雨響と出会ってから、彼が声を荒げて怒っている姿を見たことがないし、文句や愚痴を零すのも聞いたことがない。仕方ないとか、大丈夫とか、そんなことばかり言って笑っている。僕は雨響のその言葉が大嫌いで、大好きだ。

「…あぁ、消えたいな…。」

 そんなこと言わないの、と困ったように笑って僕の発言を嗜める雨響はここにいない。無性に会いたくなって、会えるはずもなくて、深い深いため息をついた。僕は常に死んでしまいと願っていて、いつも雨響のことを考えていて、ずっと彼のことを愛している。

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