第23話

 あたかも建物の床を抜こうと町中の人間が一斉に決心したような、そんな人混みだった。


 アメリカの大統領専用機というものは人払いをした空港にのみ降り立つものだと思っていたが、どうやらそれは古い見識だったらしい。


 ターミナルビルの屋上から滑走路を見下ろして、ヴァレンシュタインは己の浅識を恥じた。ここはチェコ共和国の玄関口、ヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港。ヨーロッパの空港としては比較的珍しく、露天型の展望デッキを備える施設でもある。珍しく休暇を申請した参謀副長はそんなデッキの最前列に陣取っていた。


 不意に背中に軽い衝撃が走る。

 振り返ってみると、カメラバッグを携えた男が人混みを掻き分けていた。抱えている三脚か何かとぶつかったのかもしれない。


 マスコミには専用の撮影スペースが与えられているはず。ということは、あれはその道のマニアとでも言うべき人間だろうか。こういうときでもなければ、この空間は本来彼らの独擅場なのだ。


 デッキは一面の人だかりだった。正面に注意を払わなければ誰かの背に突っ込み、足元を疎かにすれば他人の足を踏みかねない。足の踏み場もない、というのはまさしくこういう状況を指すのだろう。


 そんな群衆の目当ては他でもないアメリカ大統領専用機。かの国の、空飛ぶ覇権の象徴だ。


 混乱と破滅を腹に詰め込んだ巨鳥を、チェコの国民が心待ちにしている。愚かしい光景だと、ヴァレンシュタインは心の内で嘆いた。


 無論、ここにいる人間の大半にとっては一種の娯楽でしかないのだろう。隣国ドイツならばともかく、あの巨鳥がチェコ国内まで飛来する機会は多くない。そのうえ、今回は事前の人払いも行われていなかった。


 巨鳥が降り立つ空港は、現地当局とシークレット・サービスによって厳重に固められるのが通例だ。大統領に一般旅客や野次馬を近づけないよう、動線も完全に分けられる。


 しかし、今回の訪問では状況が違う。展望デッキは人で溢れ返り、下のターミナルビルにも観衆が大挙していた。もちろん厳重な警備体制が敷かれていることに変わりはない。それでもなお、かつてないほどに“近い”のだ。


 これは当代の大統領ジェイムズ・モリスの差し金だという。厳重な警備と黒塗りの車列で威を示し、他方ではアメリカの指導者という雲の上の存在を身近なものと錯覚させる策。政治家というより王侯貴族が好むような、ある種の驕りの産物である。


 侵略や傀儡化というのは何も武力のみで行われるものではない。ときにはエンタメの提供を通して人々の心裡に働きかけることもある。アメリカという国を蛇蝎の如く忌み嫌う者たちにとって、これは武力による恫喝よりもタチの悪い事態だった。


 とはいえ、その責任を市井に求めるのは筋違いというものだ。主権と安寧を求める民草に策を授け、ときには危機感を持たせることもまた政府の役割なのだから。


 結局は自らの役割を果たせなかった政府と、政権中枢への献策を誤った軍部にこそ落ち度がある。そして、この状況を不可逆的な解決に導ける者は自分たちを置いて他にいない。


 わっ、と群衆の一部から歓声が上がった。いくつかの腕が北東の空を指さしている。


 目敏い人々から少し遅れて、ヴァレンシュタインも曇り空を見上げた。低く垂れ込めた雲を背景に巨鳥が舞い降りて来る。目を凝らさずとも分かるほど大きな機影。


 通称エアフォースワン、軍用機としての名はVC-25B。つい半年ほど前に先代のA型から任務を引き継いだばかりの新鋭機である。ベースとなったボーイング747-8は、かつて一世を風靡した“ジャンボジェット”の最終型だ。今日日4発エンジンの大型機を公用機に採用する国などアメリカくらいのものだろう。


 その巨体に見合わぬ、まるで不可視のスロープを下るかのように滑らかなアプローチ。空軍の人間であればその技量に感服するところなのかもしれないが、生粋の陸軍士官はパイロットの良し悪しにはどうにも疎かった。タッチダウンと同時に4本の主脚が白煙を纏う。


 滑走路を端から端まで贅沢に使って制動した機体は、そのまま誘導路へとタキシングを始めた。ロビンエッグブルーとホワイトの巨体が駐機場へ入る前に、ヴァレンシュタインは人混みを掻き分けてその場を後にする。


 一度その姿を拝んでおこうと思っていたが、やはり気が変わった。計画は既に動いている。そもそも、ここで群衆に揉まれている理由の半分は自身の稚気でしかないのだ。


 背後で再び歓声が上がる。いつの間にかエンジンの騒音も随分近くに来ているようだった。巨鳥の腹に納まっていた首魁が姿を現したのだろう。


 彼はそれをも気に留めず、ただひたすら雑踏の中に道を拓き続ける。


 第51代アメリカ合衆国大統領、ジェイムズ・モリス。そしてその家族と閣僚。顔写真は嫌というほど見てきた。計画が順調に運ぼうと運ぶまいと、これからは今までに輪をかけて頻繁に目にするようになる顔だ。


 ヴァレンシュタインにとっては、今更拝む必要のない顔である。


   §


 シルヴァースター・パレス・プラハ。


 古都プラハの一等地に建つこのホテルは、どの部屋からでも旧市街を見渡せる抜群のロケーションを誇る。中でも最も眺望に優れるロイヤルスイートは、カレル橋とプラハ城、そしてヴルタヴァ川を挟んで対岸のマラー・ストラナ地区を一望に収めていた。


 景観のみならず内装にも趣向が凝らされ、一円に建つ各時代の古城の様式を見事に融合させた装飾は、プラハ随一と誉れ高い。アメリカ大統領の来訪が決まった際には、宿泊先の最有力候補とされたともいわれている。


 しかし、それを固辞したのは他ならぬ支配人レーヴァンだったという。


 シルヴァースター・パレスは暗殺者相手の商売しかしないのだから、当然と言えば当然ではある。その上、この部屋は社会の裏側に名の知れ渡った手練れにしか与えられない空間なのだ。知名度こそ高かれど、使うどころか見たことすらない者が大半だった。


 ゆえに同業者の間では“バックルームズBackrooms”だの“どこにもないnikde”だのと揶揄されることもあるが、それが羨望の裏返しであることに間違いはない。


 そんな凄腕御用達の部屋にここ数日宿泊し続けているのは、南ボヘミアから遥々やってきたラムダ銃砲店の店主と付き添いの少年である。


 机に向かって作業をしている店主の背を、モーガンはじっと見つめていた。


 部屋に合わせた装飾が施されてはいるものの、どちらかといえば実用性を重んじた作りの作業デスク。店主はそんな机の上で、愛用のシグ・ザウエルを入念に整備している。


 彼女が腕を動かす度、緩くポニーテールに纏められた髪が微かに揺れる。同じ屋根の下で暮らしていても、四六時中同じ部屋にいるというわけではない。こうして黙々と作業するサラの後ろ姿は、少年にとってはあまり見慣れないものだった。


 同じホテルの同じ部屋に、二人で泊まっているからこそ見られる景色。少しばかり気恥ずかしくなるようで、少年は軽くかぶりを振った。


 点けっぱなしになっていたテレビの音が、そんな悶々とした思考を遮る。


 ――本日ついにプラハ国際空港に到着したエアフォースワン。空港には歴史的瞬間を一目見ようと1万人を超える群衆が詰めかけ、モリス大統領が姿を現すと大歓声が上がりました。その後モリス大統領を乗せた車列はプラハ旧市街に入り――


 スクリーンと見紛うほど大きな画面は、部屋の雰囲気を損なわないよう計算され尽くして配置されていた。そんな画面を横目に見ながら、少年は広々としたベッドに身を投げ出す。


 電源が入ったままなのはもちろん二人のだらしなさ故ではない。いかに五つ星とはいえホテルはホテル、男女で同じ部屋というのは余計な情念を生む。互いの生活音以外に聞こえる音のない環境では精神が削られるということで、年長のサラがリモコンを取ったのだ。


 少し硬めの分厚い枕に顔を埋めながらモーガンは思う。それにしても。


 この街は静かだ。世界的な観光地としてはありえないほどに。


 こういう街は普通、昼夜を問わず音に溢れている。観光客の話し声、歓声、路面電車やトロリーバスの騒音。陽が沈んだ後はクラブから漏れ出る音楽と、知性をかなぐり捨てたような改造車の騒音と、そんな車を乗り回す若者の奇声が取って代わる。それこそが観光地の証。


 この街も、普段はここまで静かに沈黙するわけではないのだろう。余所の国からやってきた大きな“異物”が、それ以外の小さな“異物”を黙らせているのだ。この世の最高職であるところのアメリカ大統領に対するもてなしが、この静けさに表れていた。


 ジェイムズ・モリス大統領は滞りなく宿泊先のホテルに入ったらしい。空港の立ち入り規制を最小限にする異例の対応だったが、特にトラブルは生じなかったと報じられている。


 代わりにプラハ全域には夜間の外出自粛が要請されていた。この時間に街を歩けば周りは警察官だらけ。昼はそれなりの人出があるが、夜中は下らない理由でしょっ引かれるのを恐れて誰もホテルから出ようとしない。かくして、世界一静かな観光地の出来上がりである。


 正直なところ、そうまでして迎える価値のある貴賓とは思えなかった。


 外交関係というのはすなわち利害の関係だ。そして今のところ、両国が享受している利益は出費に釣り合うものではない。向こう数十年をかけて長期的に回収しなければならない投資だが、納得できていない人間もいくらかは存在するだろう。アメリカ本国にもそうだし、無論チェコ国内にも。


 他国の元首であると同時に、国内の世論を真っ二つに割ったような人間でもある。それも軍の駐留を迫るというこの上なく暴力的な手段で。主権を重んじる政府であれば少しばかり冷ややかな対応をしても不思議ではないし、むしろそうすべきと言えるのかもしれない。


 しかし、議会も内閣も大統領府も、アメリカに楯突くようなことはしなかった。


 折しもチェコの陸空軍は、東欧のNATO加盟国支援を目的にモスボール状態にあった兵器を軒並み供与してしまっていた。彼らは空になった保管庫を再び武器弾薬で埋めるために、強力なサプライヤーを求めていたのだ。


 そんなところに現れたのがアメリカの対外有償軍事援助だった。当然のように、彼らはこれに飛びついた。一部の誇り高い将校たちには、そんな政府や軍中央がアメリカの飼い犬にでも見えていただろう。


 そういう人間が何か大それた企みを実行するのに、明日は絶好の機会だ。


 そう考えると俄かに不安になってきて、少年は枕を抱いて寝返りを打った。ちょうど雪の上で転がる仔アザラシのような恰好。もっとも、体の下にあるのは雪と氷ではなく純白のシーツなのだが。


 視点がぐるりと180度回り、視界の中心には再び店主の背中が映る。彼女は相変わらず黙々と作業を続けていた。


 いつもより少しだけ、彼女はこの仕事に執着しているような気がする。


 気がする、というだけで確かな根拠があるわけではない。だがプラハに来てからというもの、彼女は毎晩のように銃の手入れをしている。まだ一発も撃っていないというのに。


 最後の仕事ということで気が昂っているのか、あるいは銃というものがそんなにも心動かす存在なのだろうか。思えば自分はまだ彼女のことをよく知らない。


 なぜ道具にこだわるのか。なぜ殺し屋などに身をやつしたのか。なぜ見ず知らずの少年を引き取り、養っているのか。そして、先日の昼のことだ。彼女は昔――と、支配人は言いかけた。その続きは何だったのか。


 ミステリアスな女性だと、最近そう思うようになった。


 彼女のことを知れば知るほど、知りたいと思えば思うほど、深みにはまって抜け出せなくなる。彼女自身がそう仕向けているわけではない。その為人ひととなりが他人を引き寄せるのだ。


 魔性の女。言葉を選ばずに言うならそういうことになる。いつの間にか、少年の目はその背筋に釘付けだった。


「薄着の女に気を惹かれるのは分かるが、モーガン……」


 そんな言葉が不意に静寂を破った。からかいと呆れが半々に含まれたような声色。


 どう言い訳をしようか……違う、どうして気付かれたのだろう。彼女は完全に背を向けていたはず。目を白黒させていると、彼女の机で何かがキラリと輝くのが見えた。鏡。ホテルアメニティの手鏡だ。


「あまり熱心に見つめるものじゃないな。品のない男は嫌われるぞ」


 鏡の向こうで彼女は挑発的に微笑む。普段は見せることの少ないコケティッシュなかお。手元の作業のためなのか今は眼鏡もかけていて、それが妖艶な印象に拍車をかけていた。


「それとも、何か言いたいことが?」


「いいえ、別に。ただ昔のことに思いを馳せてただけですよ」


「昔のことね。レーヴァンの言っていたことが気になるのか?」


 サラは綺麗に図星を突いてくる。彼女も結構顔に出るタイプだが、どうやら自分はそれ以上らしい。隠し事には向いていないのだな、とモーガンは肯定代わりに溜め息を吐いた。


 手元のLEDランプを切って、サラは作業机の椅子を立つ。


 艶消しのP226が控えめなシャンデリアに照らされて、妖しげな存在感を醸し出していた。持ち主はそんな拳銃を手に取り、淀みない手つきでホルスターに戻して、そのホルスターを吊ったベルトごとハンガーラックにかけておく。


「お前がそこまで気にすることでもないだろう。他人の過去を暴いたところで1コルナにもなりはしない」


「そうやって隠されると余計に気になるのが人の性ですよ。それに僕は調べることが仕事ですから」


「別に隠しているつもりはないんだがな……」


 言いつつ、サラはもう一つのベッドの端に腰かけた。大胆に露出した長い脚を組み、何事か考えるような仕草を見せる。身体のラインが出るキャミソールといい、丈の短いボトムスといい、今の彼女はあまりにも眩い。


 何となく直視してはいけないような気がして、モーガンは視線を逸らす。しかし、そのなまめかしい姿は脳裏に焼き付いて離れなかった。


 艶姿を見せつけられただけでこの様だというのに、なぜ自分は衆人環視の中で彼女の手を取れたのだろうか。プラハの街中で起きた事――彼にとっては立派な黒歴史を思い出して、仔アザラシことモーガンは再びベッドの上を転がる。


 そんな姿を横目に見つつ、サラはぽつりと言葉を紡いだ。


「それで、お前はどこまで知りたいんだ。全部か?」


 何とか平静を取り繕って少年は言葉を返す。もっとも、顔を枕に押し付けるような体勢では平静も何もないのだが。


「そんなに欲張りでは。僕はただ、あなたがこの仕事に執着してる理由が知りたいだけです」


「そう見えるか?」


「ええ。ここ最近は毎晩銃の手入れなんかしてますし、何よりパソコンも使ってるみたいでしたからね。いつもの仕事なら自分で調べものなんてしないでしょ、IT音痴のあなたが」


「そこまで分かってるんなら“引退試合だから”は理由にならないんだろうな」


「あなたがそう言うんならそれでも信じますよ。まあ、納得できる答えではないですけど」


 そんな答えをサラは鼻で笑う。それが飽くなき好奇心への少しの呆れと苦笑の代わりだということは、モーガンにはすぐに理解できた。


 枕に埋まった少年の耳に短い金属音が触れる。マットレスのスプリングが軋む音、あるいはベッドそのものが軋んだ音か。サラがその美脚でもって腰を上げたのだろう。彼女の気配が自分のすぐそばに来たような気がして、少年は枕から顔を掘り出した。


「彼女……マーガレット・モリスは私の知己だ。昔、私は彼女の傍にいた」


 モーガンの隣に腰かけたサラは、言いつつ少年を流し目で見つめる。ちょうど顔を上げたところで目が合ってしまった彼は、もう一度枕に戻るか考える羽目になった。彼女の瞳を正面から見つめられるような胆力は、恐らく一生かけても身に付かない。


「私は昔シークレット・サービスに籍を置いていたんだ。あまり長くはない期間だったが、一応は要人と配偶者の身辺警護が仕事だった」


「確か今の大統領……ジェイムズ・モリスは副大統領を務めた時期がありましたよね?」


「ああ。私はその少し前に入局して、彼の就任から少し遅れて現場に出た。その頃のシークレット・サービスじゃ女の特別捜査官エージェントはレア物だったが、警護対象の方はやけに女が多くてな。だから相対的に重要度が低い副大統領の令嬢に、新人の私が宛がわれたわけだ」


 昔を懐かしむような声色で彼女は語る。その口元は少しだけ綻んでいるように見えた。モーガンはようやく枕と決別し、ベッドの上で居住まいを正す。


「あの頃の彼女はちょうど今のお前と同じくらいの歳頃だったかな。何故かは知らないが、マーガレット・モリスは新人の私に懐いてしまった。私も妹ができたようで、あれこれ世話を焼いてたんだが……」


 そこでサラの言葉が切れる。少年が横顔を覗こうとすると、彼女は軽く顔を背けた。


「何か、あったんですか……?」


「私は逃げ出したんだ。彼女には何も伝えずに」


 そう言う彼女はやはり顔を背けたままで、表情を窺い知ることはできない。しかし、その声は苦々しさを隠せていなかった。彼女にとってはそれが忌々しい日常の始まりだったのかもしれない。


「逃げ出した……ですか。それまたどうして?」


「その理由はマーガレットにすら言っていないことだ。話すのであれば、お前よりもまず彼女に話すのが道理だよ」


「つまり、そのマーガレットさんと話ができるチャンスだから気張ってると。そういうことですか」


「いいや。どちらかと言えば、彼女に隠し事をしなきゃいけないから気張ってるんだ。言っていいことと駄目なことが錯綜してる上に、作り話の辻褄合わせも難儀だからな」


 納得したか?というサラの問いに、モーガンは黙って首肯する。本当はもう少し詳しく知りたかったが、彼女はこれ以上語りたがらないだろう。


 正直、彼女の経歴には少しばかり驚いた。軍歴か何かがあっても不思議ではないと思っていたが、シークレット・サービスは流石に斜め上だ。それに彼女は今年で27だったか28だったか、それくらいの年齢のはず。勤続年数は訊きそびれたが、年齢から逆算すると退職して5年と経っていないことになる。


 その間に何があったのか非常に興味をそそられるが、それは今回の仕事に直接関係があるわけではない。今から訊いたところで答えてもらえやしないだろう。


「それじゃ、私はもう寝るからな。明日は朝が早い」


「ああ、はい。おやすみなさい」


 有無を言わせずサラは自分の寝床に潜り込む。寝室にはキングサイズの広々としたベッドが二つ。普通の部屋ならこれだけで居住空間を占拠できるようなサイズ感だ。控えめだったシャンデリアの明かりは完全に消えて、ただカーテンの隙間から射す月明りだけが室内を淡く照らし出す。


 枕元の時計はまだ22時前を指している。夜更かし気味の少年が床に就くには少し早いが、こうなれば起きていたって仕方がない。モーガンは黙って掛け布団を被った。


 とはいえ当分は寝られそうもない。明かりが消えて視覚情報の大部分を失った分、脳内の思考は活発さを増す。何も考えないよう意識していても、サラの言葉の一語一句が脳裏に去来していた。


(『逃げ出した』……か)


 彼女でも逃げ出すことがあるのだな、と妙なところに感じ入ってしまう。


 もちろん形勢が悪くなれば彼女は逃げの判断も躊躇いなく打つ。そうやってラムダ銃砲店に帰ってくることも度々あった。それでも最終的には、どんな困難な仕事でもやり遂げて帰ってくるのだ。


 モーガンにとって、サラは力強さの象徴だった。強く、気高く、そして凛々しい女性。そんな人でも全てを捨てて逃げ出すことがあるのか。


 これは失望とは違う。彼女は殺しのために鍛えられ、研ぎ澄まされた刃物ではなかった。彼女もまた、長い人生で少しばかり脇道に入ってしまっただけの人間なのだ。いま心中にあるのは親近感と安堵と、何だかよく分からない愛おしさがい交ぜになった感情。


「サラさん」


 薄明りの部屋のベッドの中で、少しおかしくなった気分のままに少年は言う。


「……なんだ?」


「僕からは、逃げ出さないでいてくれますか?」


 言い終わるや否や、隣のベッドで衣擦れの音がした。ぎしぎしと何かが軋む音がそれに続いて、次の瞬間には掛け布団の中に何かが侵入してくる。横たわる少年が背中に感じたのは、じんわりとした人肌の温かさ。


 しなやかな腕で後ろから抱きしめられ、二人の身体が限界まで密着する。


 少し荒くなった息遣い、ボディソープの芳香、拭いきれなかったオイルやグリスの匂い。そして背中を押し返す確かな弾力。それら全てが強烈な存在感を主張し、少年の理性をショートさせる。


 突然の出来事に小さく声を漏らすしかできないモーガンの耳に、サラは唇を寄せて囁いた。


「お前からは逃げたりしない。約束するよ」


 少年の意識は、そこで完全に泥沼へと沈んだ。


   §

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ボヘミアン・ブレット きゃらめる中尉 @White01

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