第18話

 結論からいえば防弾スーツは十分に機能した。


 ロシア製にはお馴染みの9mm徹甲弾7N21ではなかったことも大きいだろうが、それでも薄い繊維だけで貫通を防いだのは驚きだ。痣と痛みは当分残るだろうが、銃創でないだけ御の字である。


 サラに銃を向けたアクィラ・グリントとの間合いは20メートル程度。少年は呆けたような表情でこちらを見据えていた。確かに当たったはずなのに、とでも言いたげな表情だ。


「それ、いいスーツですね。何かの映画で見た覚えが……」


「お前の射撃が下手なだけだろう。スーツ以前の問題だ」


「やだなぁお姉さん、それは言わないお約束でしょ。それに実際スマートですよ、僕たちの装備とは比べ物にならないくらい」


 調子を取り戻した銀髪の少年がはしゃぐ。その手に握られた拳銃はすでにホールドオープンしていた。彼が銃を握っているところは初めて見たが、意外と様にはなっている。もっとも、射撃はあまり上手くないようだが。


「ここにお前がいるということは、サヴァチェーエフも尻尾を巻いたわけではなさそうだな。ようやく諦めがついたのか?」


「さあどうでしょう? あなたが跪くところを見物する気かもしれませんよ?」


「それはお前の性癖だろう。変態が二人も三人もいるわけがない」


「バレちゃいましたか。まあ、今回は愉しむ余裕もなさそうですけどね。……これ以上、あの人の近くに行かせるわけにいきませんから」


 ぎらつくような光が向日葵色の瞳に揺らぐ。あれは闘志か――それとも殺意か。


 少年は拳銃を捨てて腰の後ろに手を伸ばす。そこに鞘でも仕込んでいたのか、手にはいつものようにカラテルКаратель・ナイフの柄が握られていた。西側の軍用ナイフには見られない優美な曲線は、斬撃と刺突を両立するためのデザインだという。


 曲がりなりにもロシア系特殊部隊の系譜に連なる鷲中隊であれば、連邦保安庁FSB御用達の装備で身を固めていても不思議ではない。


 彼らのルーツに思いを馳せつつ、サラも得物を持ち替える。

 アメリカの名門マイクロテック社のスイッチブレード。カラテルよりは一回り以上小柄だが、信頼性は十分だ。


 互いの距離が詰まる。拳銃の間合いから、踏み込みと刺突で刃が届く間合いへ。


 月光に照らされる少年の姿がより鮮明に見えた。小さいながらも凛々しく、それでいて儚さをも纏う立ち姿。不思議な美しさすら醸しているが、今はそれに見惚れている余裕などない。


 不意に、カラテルが月光を反射した。


 右フックの軌道をなぞる峻烈な刺突。カラテルを握る彼の手首を左前腕で防ぐ。サラはそのまま腕のすじ目掛けてナイフを突き上げる――が、少年の方が一手早かった。


 身を翻した少年の刃が今度は右から迫る。咄嗟に上体を反らして致命傷は避けるものの、軽く頬の皮を持っていかれた。最初に冷たい金属の感覚。次に生ぬるいものが頬を伝う。


「女の顔に傷をつけたな? 無粋な男はこれで二人目だ」


「それは残念。最初の一人になりたかったのに、なッ!」


 刺突、刺突、斬撃、刺突。目まぐるしく繰り返される攻撃は少しずつ鋭さを増していく。


 ウォーミングアップのつもりか、それとも勘を取り戻しつつあるのか。何にせよ考えて防げるような速さではない。頼りになるのは反射だけ。もはや人間的な戦闘よりも獣の取っ組み合いに近い。


 喉を狙った突きを躱し、細い腕を抱え込んでサンボの要領で投げる。床面は大理石。普通の人間なら受け身を取れてもしばらくは立ち上がれないだろうが――あろうことかアクィラは、叩きつけられる前に床に片手を突いた。


 固く掴んでいたはずの腕がするりと抜け、少年はパルクールのような体捌きで衝撃を殺す。思いのほか化け物じみた身体能力だ。


「ああ、楽しい……これだから近接格闘はやめられない! あなたもそう思うでしょう!?」


「知らんな。人殺しを楽しむほど落ちぶれたつもりはない」


「そうですか? でも、どれだけお題目を並べても殺し屋は殺し屋だ。人を殺して金を得る。楽しんでいようがいまいが、僕たちよりもよっぽど悪辣ですよ!」


 アクィラが声を荒らげる。珍しく、と言えるほど何度も立ち会ったわけではないが、彼がここまで激昂している姿は初めて見た。死の気配にあてられれば誰しも変調をきたすものだが、これは少しばかり極端すぎる気もする。


 対するサラはあくまで冷静だった。


「一つ教えてやろうか、アクィラ。大人というのは思春期のガキより少しはまともに自己分析ができるんだ。いちいち他人に指摘されなくても、自分がクズだということくらい知ってるよ。私も、お前の周りにいた大人たちも」


「お前が説教をするな! お前たちはいつもそうだ。大人だから……“気付いている”から自分が正しいと思い込んで他は何でもないがしろにする! お前みたいな大人のせいで僕は……僕はすべてを……」


「お前の両親を殺した連中は確かに悪人だ。お前の言葉を揉み消した警察官もな」


 サラは大きく踏み込んだ。物理的にではなく、互いの隔たりを埋めるための一歩。


「っ……どうして……そのことを」


 出立の直前、モーガンに手渡されたプロファイルを思い出す。


 アクィラ・グリント――というのは偽名で、本名はアイラト・グリンベルク。


 生まれは極東ロシアの片田舎パルチザンスク。衰退著しい街ではあるが、幸いなことに彼は社会の上澄みとして生を受けた。父親は炭鉱経営や軽工業で財を成した地元の名士。教育は受けられる限り最高のもので、衣食住に困ることはなかった。


 しかし、この手の幸福は得てして長くは続かない。日常はいとも容易く打ち砕かれる。貧苦に耐えかねた数人の市民が凶賊と化し、両親の命と家財を根こそぎ奪い去ったのは、彼が10歳の誕生日を迎えたその日だった。


 上前を撥ねていた警官はろくに捜査も行わず、身寄りのない少年は孤児院送りと相成った。警察組織の綱紀粛正のためモスクワから出張ったサヴァチェーエフとの出会いは、その頃のことだという。


「お前の目には、自分の仇を裁いたサヴァチェーエフが英雄のように映っただろうな。だがそれは違うぞ。奴が欲したのは忠実な駒、何でも言うことを聞く走狗いぬでしかない」


「黙れ」


「奴にとってお前の生い立ちは随分都合がよかっただろう。若く、忠良で、何より悪を憎んでいる。そんな子供に殺しを覚えさせ、思い通りにならない連中を消して回った。正義の名のもとに血で血を洗う政争の道具を作り上げたわけだ」


「黙れ……!」


「お前自身はどうなんだ? お前が本当に欲しかったものはそんな武器ものか? お前はもっと別のものが――家族だとか、愛情が欲しかったんじゃないのか?」


「黙れぇぇぇぇぇぇ!!!」


 絶叫、もしくは咆哮。


 図星を突いたのかは分からない。そもそもモーガンに集められた情報はサヴァチェーエフに拾われたところまでだった。それ以降の彼にまつわることは、最初から記録すらされていないのかもしれない。


 だから口に出した言葉の半分以上は推測だ。それも悪意をこれでもか詰め込んだ。アクィラが心から殺しを愉しむサイコパスだという可能性は、結局最後まで捨てきれなかったのだが……とりあえず琴線に触れるようなことは言えたようだ。


 アクィラが吶喊する。先ほどまでの精緻な体捌きは見る影もなく、もはや獣にも劣る力任せの太刀筋。難なく躱して返す刀、もといナイフで少年の左腿を斬る。


 小さな体が石細工の床に崩れ落ちた。が、パニックホラー映画のゾンビよろしく少年は無理矢理身を起こす。どうやら腱までは刃が届かなかったらしい。とはいえ、やりすぎると大腿の動脈を傷付ける。


 死なない程度に痛めつけるというのは、本当に加減が難しいものだ。


「お前に……お前に何が分かる!? 僕にとって長官は救世主なんだ。たとえ道具としか思われていなくても、僕にとっては父親同然だったんだ!」


 再びの吶喊。力強さも鋭さも、戦いに必要なものすべてが抜け落ちたような、弱々しい足取りだった。躱すまでもなくカラテルを握った腕を掴み、引き倒す。


「悪く思うな」


 ほとんど独り言のように呟いて――サラは少年の右膝を、深々と刺し貫く。彼は抵抗することもなく、悲鳴も呻きすらも漏らさず、ただすすり泣くばかりだった。ここらが限界だろう。


 踵を返し、サラは廊下を奥へと進む。


 サヴァチェーエフの執務室はすぐそこだ。ナイフに付着した血糊を拭って懐に戻し、再びP226 LEGIONを手に取る。スライドを軽く引いてプレスチェックをしていたところで、脚に何かが絡みつくような感覚があった。


「ころしてください」


 サラの左脚を、少年が抱え込んでいた。目は虚ろで生気は消え失せ、数分前までの饒舌さは鳴りを潜めている。


「あなたも殺し屋なら、僕を殺してください。このまま……汚い殺人者のまま生きていくくらいなら、いっそあなたの手で……」


 懇願するように少年が言う。殺してやるのが慈悲かもしれないと、本気でそう思わせるような声色。だが自らの手で“慈悲”を与えてやることなど、サラにはできようはずもなかった。


 いくらか逡巡したあとで、サラは言葉を紡ぐ。


「汚い殺人者、か。それもお前の勘違いだな。正義であろうとなかろうと、お前は大義のために殺してきた。そこらのならず者とは違う。褒められはしないだろうが――誇っていいことだ」


 アクィラの腕から力が抜ける。サラが足を引き抜くと、少年は小さく嗚咽を漏らし始めた。


 戸籍上の年齢は16歳。その戸籍すらもほぼ確実に偽造であるあたり、実年齢はそれよりも下だろう。


 初めて見る歳相応の仕草。思うところは色々とあるが、いまのサラには少年の未来に幸多かれと無責任に祈ることしかできなかった。


   §


 ウォルナットの扉を押し開けた先、アルテム・セルゲーエヴィチ・サヴァチェーエフの執務室。


 政府高官の仕事場に相応しく、そこは装飾と実用性が同居するような空間だった。


 一流の職人に作らせたのであろう事務机に椅子、そして資料棚。黒檀の無垢材がふんだんに用いられ、古典建築の部屋に重厚感を与えている。照明が落ちていることが実に惜しく思えるスタイリングだ。


 もっともこの国の財政状況を鑑みるに、すべて前の持ち主とやらが置いていった物だろうが。


 紺の制服に身を包んだ男は、そんな椅子に腰かけて闖入者を待ち受けていた。


「随分と派手な歓迎をしてくれるな。まともな官僚のやり口には思えないが」


「客人は丁重にもてなすのが流儀なのでね。気に入っていただけただろうか?」


 男が答える。一瞬たりとも言い淀むことのない、見事なバリトンボイス。官僚とはいえ上り詰めれば政治家も同じ。言葉遊びには人並み以上に精通していると見えた。


「悪くはなかった。まあ、そこらのテロリスト相手なら十分だっただろう」


「成る程。つまり自分たちはテロリストとは違う、と。君はそう言いたいわけだ」


 サヴァチェーエフは苦笑を浮かべる。緩慢な動作で立ち上がる彼の体躯は、180どころか190センチはあるだろう。遠目から見ても屈強であったが、やはり巨漢という言葉に相応しい体格だ。


 そんな彼の右手が月明りの中で動いたことを、サラは見逃さなかった。


 何かを掴んだ右腕が動くに先んじて引き金を絞る。銃弾は太い腕の筋線維を切り裂き、ダマスクの壁紙に血の花を咲かせた。


 大男が軽くよろめき、右手に持っていたMP-446拳銃が床に転がる。


「長官殿は案外往生際が悪いと見えるな。この期に及んでいらない傷を増やす気か?」


「……警察官僚が……銃も握らず死んだとあっては、我が国の名折れだ。私を守るために死んでいった者たちも浮かばれない。何より、そう易々と私を死なせるつもりはないのだろう? その気になれば頭を撃ち抜くこともできたというのに、君はそうしなかった」


 何か言いたいことでもあるのかと、サヴァチェーエフが問う。


 無論そんなことがあろうはずもない。国境線を跨いで向こうの政道に口を挟むほど物好きでもないし、そもそも余命幾許いくばくも無い人間に意見しても仕方がない。

 だからこの時間は、死にゆく者と会話したがる妙な癖によって与えられたものだ。


 とはいえ無視するのも何やら気が引けるようで、サラはとりあえず言葉を編む。


「守るために死んでいった、か。私が思うに、それは『自分が殺した』の間違いだと思うが? 大人だけならまだしも、子供にまで武器を取らせたのは他でもないお前自身だ」


「……君は、あの子も始末したのか?」


「いいや、私はそこまで無分別な人間じゃない。一生物の傷だが死にはしないだろう」


「そうか……安心したよ。君の言う通り、彼に武器を与えたことを今では後悔している。私の息子として真っ当に育てればよかったと。己の不明を恥じるばかりだ」


 存外につまらない答えだった。高官なら高官らしく、正しいのは自分だと開き直ればいいものを。そんな半端な正義感が一人の少年を苦海に突き落としたのだ。


 落胆の息を抑えるサラとは対照的に、男は心の底から安堵したような息を吐く。再び椅子に腰を下ろすものの、両の手は机の上だった。いよいよ死を受け入れるつもりになったのか――などとは考える暇もなく、彼はもう一度口を開いた。


「だが、それは君も同じではないのかな?」


「……何だと?」


「君の眼は殺人者になり切れていない者の眼だ。鷲中隊にもそういう者は大勢いた。人の親も、親になろうとしている者も」


「死んでしまえばもう遅い。親だろうと子だろうと、屍になれば等しく肉塊だ」


「そう、死んでからでは遅いんだ。この一晩で多くの子供たちが父親を喪った。それと同じだ。君がこのようなことを続けるなら、君の大切な人もまた君自身を喪うことになる」


 モーガンのことを言っているのだと、考えずとも分かった。


 身元が割れているのか。いや、ブリャンスクの警察は国内に閉じ込められた状況のはず。グローリアの情報統制には万に一つの手抜かりもない。たとえ鷲中隊を使ったとしても、国内ならともかく国外に出れば完全にマークされる。


 はったりを利かせているのか、それとも本当に勘付いたのか。前者であると思いたいが……しかしどうにも、後者である気がしてならなかった。


「私を断罪する気か? 今更それができるとでも?」


「そんなつもりはない。私の仕事は犯罪者を罪に問うことではなく、不幸な人間をひとりでも多く救うことだ。そして、私が最後に救えるのは……目の前にいる君たちだけだ」


 撃つといい。そう呟いてサヴァチェーエフは目を閉じる。


 サラは引き金を最後まで絞ろうとする。


 驚くべきことに――それを拒んだのは他ならぬ自分の指先だった。まるでセイフティがかかっているかのように、引き金が後ろへと動かない。P226にマニュアルセイフティを追加した覚えはないのだが。


 迷っているのだと、そこで初めて気が付いた。


 この二か月、与えられた依頼を幾度となく反芻してきた。しかし結局は、レーヴァンがホテルで吐き捨てた通り、出がけにモーガンが言っていた通り、サヴァチェーエフは善人でしかない。他人の殺意がサラに根付くことはついぞなかった。


 現場で殺しを迷うなど暗殺稼業にあってはならない。しかし、ありもしない殺意で人を殺してよいものか。久方ぶりの激しい迷いが、サラの指を凍り付かせていた。


 そんな心中を知ってか知らずか、サヴァチェーエフは叱咤するように声を張り上げる。


「何を迷う必要がある! ここで私を殺さなければ、私はどんな手を使っても君たちを追わなければならない。君は大切な人を逃避行に付き合わせる気か!? 私を撃て、そして帰るんだ、君の――家族のもとに!」


 家族。


 そうだ、あの仔犬のような少年はきっと待っている。彼の微笑みを、幸せを絶やしてはならない。


 サヴァチェーエフを殺すに足る、正当な理由などない。しかし、この男は死ななければならない。家族の、そして自分の幸せのために。


 鼓動が早まり、凍り付いた指先に熱が戻る。今度こそ間違いない。他の誰のものでもない。


 ――これは、私の殺意だ。


   §


 玉の緒の切れた骸を見るうちに、少しずつ現実が戻ってくるようだった。


 左胸に赫々と輝いていた勲章は銃弾に砕け、紺色だった制服は流れ出した血で赤黒く染まっている。


 烈士サヴァチェーエフは死に、依頼は完遂した。殺意も消え失せた。


 これでよかったのだと溜飲を下げると、サラの肺は痙攣するように空気を求める。束の間とはいえ窒息しそうな時間だった。ひとしきり肩で息をしてようやく調子を取り戻す。


 死体を軽く見聞して踵を返す。変わらず照明は落ちたままだった。スプリンクラーの水溜りと、そこから続く足跡だけが月光を照り返している。


 ふわふわと覚束ない足取りで来た道を戻る。床に転がる死体や銃器、さらには薬莢にまで足を取られるようで煩わしい。照明がない分ストレスは一入ひとしおだ。いつもならモーガンを頼っているところだが、今はなぜかそんな気にはなれなかった。


 ささくれ立った手すりに体重を預けて階段を下り、何とか玄関にたどり着く。サラはそこで、意外なものを目にした。


「お前……思いのほかタフな奴だな」


 銀髪の少年が、弾痕の残る壁にもたれかかっていた。腿と膝は止血帯で応急処置がなされ、ご丁寧に得物のカラテルもそばに転がっている。


「第2ラウンドと洒落込むつもりか?」


「まさか。そこまで元気じゃありませんよ。ただ……長官が苦しまずに逝けたか聞きたくて」


 少年らしからぬ、腹の底に響くような声で問われる。気力を振り絞った少年の瞳は泣き腫らしてなお鋭いものだ。そんなアクィラの姿に、サヴァチェーエフの功罪が詰まっている。


「苦しませて殺す趣味はない。“プロとしての礼儀”だ」


「“礼儀”と来ましたか。やっぱりどこかのハリウッド映画みたいだ。本当に――」


 無理に笑おうとして失敗したのか、少年は軽く咳込んだ。これ以上は傷に響く。そろそろ終わりにするべきだ。


「奴が言っていたぞ、お前に武器を与えたことを後悔していると。お前を実の息子として育てるべきだった、だそうだ」


「どうしてそれを今言うんですか。泣こうとしたって涙が出ないのに」


「人のために泣ける人間だったんだな、お前は」


 サラは少年の傍らに片膝を突き、床に転がっていたカラテルを拾い上げる。

 ずしりと重く、それでいて据わりの良い重量バランス。コンバットナイフの一つの到達点とでも言うべき逸品だ。


「確かに良いナイフだ。だが――もう一度言うが、お前が本当に欲しかったのはこれじゃないはずだ」


「よく分かりませんね、何のことだか」


「そうか。まあいい、何にせよ必要ない物は没収だ」


 アクィラの装備ファーストラインから合皮製の鞘を掠め取り、抜き身のナイフを納める。少年は抵抗することもなく、ただじっとサラの顔を見つめていた。


「……何だ。まだこれに未練でも?」


「いいえ。でも……また会いましょうね、グローリアの暗殺者さん」


「約束はできないな」


 言葉を切ってサラは立ち上がる。カラテルを懐にしまいつつ扉を押し開けると、外は案の定極寒だった。


 ここからまた裏庭に回り、再び涸れ水路に潜らなければならない。勿体つけて玄関から出るのではなかったと早々に後悔するが、今更戻るようでは示しがつかない。後ろ手に扉を閉めて、サラは雪の中に踏み出す。


 ショットガンは捨てたし、その弾薬も撃ち尽くしている。来る時より身軽なはずだが、やはり疲労というものは恐ろしく足を引っ張るものだ。


 積雪が薄い場所を確かめながらようやく井戸に着いた頃には、極寒だというのに汗すら滲んでいるという始末。


 歩兵というものの偉大さを噛み締めながら梯子を下り、少しは寒さを凌げる地下水路に降り立ったところで――サラはうんざりするような気配を感じ取った。


「次から次へとまあ、厄介事が来てくれる。ポーチェプくんだりまで何の用だ?」


 暗闇に向かって語り掛けると、二つの人影が進み出てきた。栗色の髪をした長身の女レーヴァンと、その“使用人”シュネー。どちらも妙なタイミングでの登場だ。


「ひっどい言い草だな、わざわざこんなとこまで親友を迎えに来たっつーのに」


「頼んだ覚えはない。お前に出迎えられても不愉快なだけだ」


「サブノック様、我があるじはあなた様の身を案じておられたのです。いかにあなた様が手練れとはいえ、今回はあまりに過酷なお務めであると。お怒りはもっともでございますが、どうかこの場ではお収めくださいませ」


「……メイドの方が出来がいいじゃないか。だが、心配だったのは私じゃなくてサヴァチェーエフの命だろう? 私が丸め込まれて仕事を投げ出すのが心配だった。だからこんなところまで監視に来た。違うか?」


「さあてね。純度100パーセントの推測に首を振るのは軽率ってもんだ」


「阿婆擦れ女が……まあいい、出迎えついでに一つ頼まれろ」


 レーヴァンをめつけると、彼女は片方の眉を吊り上げた。どちらかといえば男性的な仕草が妙に様になっている。化粧のせいで幾分かコケティッシュな印象になっているが、彼女は元々中性的な顔立ちなのだ。


 イケメン女子気取りが。少しばかり腹立たしく思いながらも、サラはもう噛みつきもしなかった。


「エントランスに子供が一人いるはずだ。銀髪で、向日葵色の瞳。お前のところで保護してやってくれ。二度と人殺しに関わることがないように、な」


「例の『鷲』どものガキか。契約には無かったが……ま、他ならぬ親友の頼みとあっては仕方ねーな。シュネー、確認を」


「かしこまりました」


 メイド服の少女が梯子を上るというシュールな絵面を見届けて、サラはレーヴァンに背を向ける。彼女はそれ以上何も言わなかった。これであの少年も、今までよりは少しばかりまともな“愛”だとか“家族”というものを意識して暮らせるはずだ。


 しかし、そんなことへの興味が早くも薄れ始めていることにサラは驚いた。


 早くモーガンに会いたい。他愛ない日常の会話ができるところへ戻りたい。そう願ってやまない自分がいる。


 随分丸くなったものだと、むず痒さを感じずにはいられなかった。。


   §


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