第17話

 ブリャンスク民主共和国中部の都市、ポーチェプ。


 この辺りは開発が進む首都ブリャンスクと違って、ロシア古典様式の建物が比較的多く遺された街だ。


 そのルーツは16世紀にこの地域を支配したモスクワ大公国に遡る。

 規模そのものは決して大きくないが、確かな歴史と共にある街。17世紀にはロシア・ポーランド戦争、20世紀には第二次世界大戦中のナチス・ドイツと度々脅威に直面してきたが、その度につつがなく再建されて今に至る。


 そんな街のやや外れ、一際の威容を誇る古典建築物の一室で男――アルテム・セルゲーエヴィチ・サヴァチェーエフは紫煙を燻らせていた。


 開け放った窓から11月の寒気が吹き込んでくる。嫌気がさして飛び出した古巣ロシアほどではないにしろ、冬にはかなり冷え込む地域だ。別邸を構えるならもう少し南の方がよかったのだろう。

 しかし今このときだけは、この刺すような寒気も有難く思えた。


 このところ液晶を凝視する仕事続きで頭に血が昇っているのを感じる。無論その程度で判断を誤るほど甘い認識で職務を遂行しているわけではないが、それでもこの感覚が煩わしく思えるのは事実だ。


 それを綺麗さっぱり消し去ってくれる煙草と冬将軍は、やはり我々スラヴ系の味方なのかもしれない。


 とはいえ、そんな楽しみも終わりに近そうだが。


 もちろん冬はまだまだ続く。煙草も山のようにある。しかし、きっと命が続かない。“彼女”がここにやってくる。海千山千の政治屋たちに揉まれる中で磨き上げた直感は、ここ十年で一度も外したことがないのだ。


 万全の警備体制を敷くことができていれば少しは楽観できたのかもしれないが、残念ながらこの屋敷の警備は十分とは言えなかった。犯罪組織グローリアが国内に入ってきたと聞いて急拵えで用意してから3か月と経たない。把握しきれていない綻びが多いのだ。


 とはいえ、街中でテロ紛いの凶行に走られるより平和的ではある。無駄に広く思える敷地も、無辜の市民を彼女の射程から遠ざけるには役に立つ。

 そもそも相手が腕利きの暗殺者であるなら、どんな警備装置も木偶にしかならないだろう。


 それを証明するように、屋敷のどこかで何かが爆ぜた。銃声か。


「迎えが来たようだな……腹を括れ、アルテム」


 独り言ち、燃えさしの煙草を灰皿に押し付ける。屋敷が俄かに騒がしくなってきた。警備に詰めていたオリョール中隊が動き出したのだろう。


「長官、不覚を取りました! 早く移動しないと……!」


 銀色の髪をした少年、アクィラがノックも忘れて転がり込んでくる。


 彼がここまで慌てふためく様など、そうそうお目にかかれるものではない。よほどおかしな場所から潜り込まれたのだろうか。


 いずれにせよ一つ確かなことがある。


 予感や予言というものは悪い内容であればあるほどよく当たるのだ。しかしそんな運の悪い人間は、何も自分だけではなかっただろう。


   §


 サヴァチェーエフの屋敷セーフハウス


 豪壮な古典建築の裏庭で草と枯れ葉に覆い隠されている竪穴は、古ぼけた地下水路に繋がっていた。水路は放棄されて久しいようで水は涸れ切っており、ただ黒洞々こくとうとうとした隧道がいつ果てるともなく続いているだけだ。


 絶好の侵入経路である割に警備装置の類は設置されていない。水路の存在を覚えている者がいないからか、それとも不届き者を誘い込むための策なのか。正面から押し込むわけにはいかない以上、罠だとしても踏み抜く以外にないのだが。


 地下に潜って早数時間。夜目は利く方だが暗くカビ臭い空間に長居したくはない。だから地上から差し込む淡い月光は、サラにとっては僥倖ぎょうこうだった。


 古い煉瓦の壁に打ち込まれた梯子を上る。元は頑丈な造りだったのだろう金属の足場は、長く湿気に晒されたせいか半ばまで朽ち果てていた。武器弾薬をしこたま抱え込んだ人間が登るにはいかにも心許ない。


 特に腐食の酷い足場は避けて、ようやく地上までたどり着く。もとは井戸か何かだと思しき構造だが井桁はすでに崩れ、赤茶けた金網が申し訳程度に張られているだけだった。当然、破るのに時間のかかる代物ではない。


 懐から手鏡を取り出して辺りを窺ってみると、そこは花楸樹ナナカマドの木と枯れた草花が目立つ庭の一角。時期が時期なら美しい庭園なのだろうが、雪の時季では見る影もなかった。


 竪穴から這い出し、積もった雪に足跡を残さないよう注意しながら素通りする。

 軍靴の足跡がほとんど見られないところから察するに、護衛の数そのものは多くないようだ。事前の情報通りだった。


「この屋敷は妙に警備が手薄なようだが……モーガン、どういうことだ?」


『サヴァチェーエフ氏がその邸宅を購入したのは2か月と20日前。それまでは民間の資産家の邸宅だったみたいですから、本格的な警備システムは設置が追いついてないんでしょうね』


「機械はともかく警備員すら見かけないぞ。設備が駄目なら人を増やすのが常套手段じゃないのか」


『鷲中隊の構成員は多く見積もって30人程度らしいですから。「中隊Рота」というのは名前だけのようです。それでも警察に応援を頼まないあたり、彼はここで死ぬ気かもしれませんよ』


「だったら少しは楽なんだがな。……何にせよ、戦力は早めに削っておいた方がよさそうだ」


 通話を切ったサラの視線の先には歩哨が二人。


 携えているのはロシア製のPPK-20サブマシンガン――二国関係を考えるに、恐らくはそのコピー品だろう。その他の装備は戦闘服にボディアーマー、バラクラバ、そしてヘルメットに至るまですべて黒で統一されている。


 何の関わりもない人間相手に殺意など湧きもしないが、これも仕事だと割り切るしかない。べネリM4を肩掛けにしてナイフに持ち替える。


 二人の兵士のうち、雪に足を取られて遅れがちな方から先に始末することに決めた。


 刃物を一閃。右脚の腱を断ち、膝を突いた兵士の背後から心臓、そして喉笛を掻っ切る。白い雪に鮮血が散り、どこか芸術的な光景を生み出した。


 ようやく異変に気付いた片割れが振り向くがもう遅い。こちらに向けようとしたサブマシンガンを蹴り飛ばし、アーマーの隙間から肝臓を一突き。


「暴れるなよ。急所を外すと余計に苦しいぞ」


 よろめいた男の体を壁際に押し込み、喉から頸椎まで刃を通す。呻き声がゴボゴボと聞くに堪えない雑音へと変わった。流れ出した血液が声帯に達したのだろう。


 その体が完全に崩れ落ちる前にナイフを引き抜く。雪が再び血を含む――が、今度は風情など欠片も感じられなかった。量が多すぎてグロテスクなだけだ。


 死体はそのまま放置し裏庭に突き出したテラスから屋内に潜り込む。夜中だというのに煌々と照明が灯され、ここだけは真昼のように明るい。


 サヴァチェーエフが使う部屋は建物の二階に集中しているという。先を急ぎたいのは山々だが、眼の順応を待たなければ無用のリスクを負うことになりかねない。


 得物をプライマリに戻し、心持ち行き足を緩めて慎重に歩を進めていく。


 それにしても、前の持ち主だという「民間の資産家」とやらは一体どれだけの分限者だったのか。巨大な屋敷は隅々まで管理が行き届いている。恐らくかなりの金を費やしたはずだ。

 相当に古いはずだが荘厳な古典様式の外観は損なわれておらず、もはや屋敷というより宮殿とでも形容すべき建物だった。


 長い廊下は美しい石細工で床張りされ、ヒビやくすみは見当たらない。部屋やホールを隔てていると思しき扉も複数あったが、今はすべて施錠されていた。


 そんな廊下の半分ほどまでたどり着いたとき、耳朶に触れる音があった。曲がり角の先からブーツの靴底で床を打つ音が複数。二人一組ツーマンセルか。


 遮る物のない廊下では隠れることもできない。諦めてサラは駆け出す。足音から遠ざかるようにではなく、足音のする方へ。


 ブーツの靴音が止まった。こちらの音に気付いたのだろう。構わない、遅かれ早かれこうなるのだ。勢いを殺すことなく体を後ろに倒し、スライドしながら飛び出す。


 敵は見立て通り二人。彼ら(もしくは彼女ら)が面食らっている刹那の間に、セイフティを外したM4の引き金を絞る。腹に1発と頭に1発を正確に2回。2つの骸が派手に脳漿を撒き散らしながら倒れた。


 12ゲージのスラッグ弾、それも硬度の高いスチール製の弾頭だ。多少の防弾装備では防ぐことなど叶わない。


 サラは床に手を突いて立ち上がる。せっかくのスーツが汚れてしまった――などと考えている暇もなく「次」が来た。近くにいた者が銃声を聞きつけたのだろう。


 戦闘員が2人、3人、4人を確認したところでカウントは中止。PPK-20の9mm弾が大理石の床に弾痕を穿った。


 文化的価値など眼中になし。実に無粋な連中だ。


 前に出過ぎた一人の頭を吹き飛ばすと、残りの兵士は揃って身を隠した。それぞれ芸術品が鎮座している小棚だが、撃っても弾は貫通しない。内側に鋼板でも仕込んでいるのだろう。戦闘に備えたDIY、この程度なら2か月あれば事足りる。


 あまり綺麗な方法ではないが、やり方を変えることにする。


 敵が再び顔を出す前にサラは身を翻し、最も手前の棚に陣取った兵士を引き摺り出して肉壁とする。M4の銃身で腕を絡め取って思い切り極めると、兵士は細い呻き声を漏らした。明らかに男の声ではない。


(こいつは女か。好都合だ)


 狙い通り、侵入者を撃ち殺そうと勇んで身を乗り出した兵士の動きが止まる。一瞬の隙だが、それだけあれば十分だ。二人を12ゲージの餌食とし、次いで拘束していた女も突き倒して後頭部を吹き飛ばす。


 あまりいい感触ではなかった。トリガー・プルが感情で変わるはずがないのだから、間違いなく錯覚だろうが。


 とにかく戦闘は束の間の小康状態。今のうちに移動しなければならない。


 上から見ると“コ”の字型をしている屋敷の廊下は妙にクランクが多く、先が見通せない造りになっていた。どんな意図があったのか知らないが、設計者はかなりの変人だろう。


 マガジンチューブにシェルを補充しながら先へ進む。散発的に遭遇する敵兵はその都度薙ぎ倒し、それを二、三回繰り返してようやく建物の中央付近にある階段にたどり着いた。


 サラが入ってきた裏口とは違い、二枚の扉は美しく装飾されている。どうやらここが正規の玄関のようだ。しかし直近で人が出入りしたような痕跡はなかった。つまるところ、サヴァチェーエフはまだ逃げ出していないということ。


 彼は市民に危害が及ぶような選択は絶対にしない。そしてこの建物に閉じこもっている間は、市街地のド真ん中で銃撃するというテロ紛いの選択肢を暗殺者から奪うことができる。だからサヴァチェーエフはここを離れないと踏んでいたが、どうやら間違いではなかったらしい。


 とりあえず当てが外れなかったことに安堵しつつ、敵の本陣目指して階段を登る。その踊り場に差し掛かったあたりで火箭が降り注いだ。待ち伏せか。


 身を躱しながら射手めがけて撃ち返す。が、今度は別の角度から鉛玉が飛んできた。


 幸いなことに肉を捉えた弾は無かったが、このままでは間違いなく蜂の巣だ。その場を飛び退いて射線から逃れる。


 少なくとも二人が待ち伏せているようだが追撃はない。意地でも自分たちのキルゾーンに誘い込むつもりだろう。


 彼らは利を活かす戦い方を熟知している。ここまでの道すがら片付けてきた兵士とは似て非なる連中だ。サヴァチェーエフが連れてきた特殊部隊崩れ。鷲中隊の最精鋭は、やはり主人の近くに侍っていたようだ。


 しかしいつまでもここで足踏みしている余裕はない。敵も馬鹿正直に正面で待ち伏せるだけではないだろう。十中八九、サラの背を撃たんと後ろから迫る者がいる。


 さてどうしたものか。発煙筒はショットガンを持ち込む代わりに装備から外している。シェルキャディとのトレードオフだ。他に何か、使えそうなものといえば。


 素早くあたりを見回す。消火器、ガラスの破片、防弾小棚に飾られた骨董品。使えそうな物はいくつかあるが、最終的にサラは別の物に目を留めた。天井を伝う細い銀色の管。あまりにも場違いで、明らかに後付けだと分かるスプリンクラー設備。


「モーガン、ここの防火設備は使えるのか?」


 上に待ち受ける兵士に聞こえないよう声を抑えて話す。遠くチェコからの支援バックアップに徹している少年の応答は、多少の通信ラグを挟んで返ってきた。


『湿式バルブの他に遠隔操作も可能なので、恐らくは。どこかで試しますか?』


「二階中央の廊下で頼む。玄関エントランスのほぼ真上だ」


『了解です。少しお待ちを』


 少年の声が途切れる。その後十秒と待つことなく、上の廊下に雫の落ちる気配がした。


 再び階段に飛び出し、踊り場の壁を蹴って残りの段を駆け抜ける。大理石の床には水溜まりができ始めていて、兵士たちの意識の少なくとも一部は突然作動したスプリンクラーに向かっていた。


 表情はバラクラバに覆い隠され、そのせいで大きく見開いた瞳だけが妙に目立っている。慌ててこちらに銃口を向けるその動作は、不思議とスローモーに見えた。


 一番近くにいた者の右腕を吹き飛ばし、次いで膝、胴、そして頭にスラッグ弾を撃ち込む。180度反転して残りを片付けようとしたところで、M4のボルトが後退位置で止まっていることに気付いた。シェルキャディにも残弾はない。弾切れだ。


 サラは躊躇うことなくフルカスタマイズのショットガンを投擲する。避けきれなかった兵士が大きくよろめき、サラから視線を外した――外してしまった。

 体勢を立て直した頃には、サラのP226 LEGIONが正確に顔面をポイントしている。それもヘルメットに守られていない鼻柱を。


 引き金を絞る。鼻骨を砕いた9mmNATO弾は脳幹を掻き回し、肉を食い破って後頭部から飛び出した。


 瞬く間に二人の人間が事切れた。これで何人目だったか……などと考えるのも束の間、息をつく暇もなく背後から怒声が飛んでくる。「撃てОгонь!」とロシア語で怒鳴る声。いい加減に残りも少ないはずだが、士気が衰える様子はない。まったくよく訓練したものだ。


 水溜りに転がっていたPPK-20を拾い上げ、腰だめでバラ撒く。一人の額に穴が開き、一人が胸に弾を受けて崩れ落ちる。残りは二人だが正攻法で撃ち合ってもジリ貧だろう。


 弾の切れたサブマシンガンを投げ付け、その後を追うように吶喊する。


 足元の大理石が弾け、いくつかの弾丸がスーツを掠った。立ち止まるにはもう遅い。先頭ポイントマンが雄叫びを上げている。近付くにつれて射撃の精度は上がっていくが――先に致命傷を与えたのはサラの方だった。


 ポイントマンの上半身を固めて引き倒す。藻掻く男を脚も使って拘束しながら、もう一人を撃つ。しかし組み敷いている男の抵抗が存外に激しく、頭を狙ったはずだが着弾点は胸部だった。四発目にして何とか頭を捉える。


 最後に拘束していた男の側頭部に鉛玉を打ち込むと、ようやく辺りは静かになった。


 サラは流れて来る血を避けて立ち上がる。いつの間にか肩で息をしていた。どれだけの間だったのかは分からないが、どうやら呼吸することすら忘れていたようだ。


 辺りは当然のように死屍累々。本来あるべき器官を失った肉体と、水に流れ出したどす黒い血のせいでさながら地獄である。降り注いだ水に打たれ、屋内だというのにサラも全身ずぶ濡れだった。


 殺陣に夢中で気が付かなかったが、煌々と灯されていたはずの照明もいつの間にか落とされていた。今は足元の非常灯だけが何とも頼りない灯りを保っている。


 息を整えつつ廊下の奥へ視線を投げる。薄明りの最奥には一際豪奢な扉があった。あれがサヴァチェーエフの執務室。あの中に二か月近く追い続けた男がいる。


 サラは静かに歩き出す。


 散々殺して回ったが、それでも鷲中隊を殲滅したわけではない。まだ最大の懸念事項が残っている。


 “彼”はどこかでこちらの様子を窺っているのだろう。であれば無理矢理にでも引きずり出すまで。それでも仕掛けてこなかったのならそれはそれで好都合だ。サヴァチェーエフを殺し、モーガンのもとへ帰るだけ。


 P226のマガジンを換え、残弾の無くなったシェルキャディは打ち捨てる。


 これで少しは身軽になった。少しばかり足を速めたサラの背後で物音、いや足音か。咄嗟に振り返ると、視界の端に銀色の髪とオレンジ色のマズルフラッシュが見えた。


 あの少年も銃を使えたのか、と妙なところに感心する。


 身を躱す間もなく、脇腹と胸に衝撃――そして激痛が走った。


   §

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