第16話

 仕上がったスーツをベッドの上に広げて、サラは感嘆の息を漏らす。


 ハンガーとともにガーメントバッグに収まっているジャケットとスラックスは、チャコールグレイよりも更に濃いブラックの生地で仕立てられていた。


 表地の艶には一片の乱れもなく、半端なブランド品にありがちな押し出しのよさ――悪く言うなら厭味たらしさはまったく感じられない。裏には防弾繊維も仕込まれているはずだが型崩れはしておらず、フォーマルな印象と高い実用性を兼ね備えた逸品に仕上がっている。


 納期は予定されていた二週間からずれ込んで三週間に伸びはしたものの、この質であれば文句は言えないだろう。その分代価は高くつくだろうが、払うのは自分ではなくレーヴァンなのだから無問題。高いスーツも弾丸も好きなだけ使えるということだ。


 内心でほくそ笑みながら、今度は壁に据え付けたガンラックを振り返る。


 部屋の一角を占拠しているそれはバックヤードのものより幾分か小型だが、中身は粒揃いだ。愛用しているシグ・ザウエルP226 LEGIONと、新顔のべネリM4にWCP320。そのほか装備品には加えられなかったものの、特に気に入っている銃やナイフも二つ三つ。


そんなラックと隣り合うドレッサーには、実包が詰められた弾倉が横たわっている。


 いつも通りの9mmNATO弾に、今回は12ゲージのショットシェルも加わっていた。弾頭は一般的な鹿撃ちバックショットではなくスチール製の一粒スラッグ弾だ。人間の手足程度なら易々と吹き飛ばす比類なきストッピングパワーを誇る。


 それもこれも、すべては「オリョール中隊」と相対するための備えだ。拳銃弾をいくらか撃ち込んだところで動かなくなるほどヤワな連中ではないだろう。ヘルメットごと頭を撃ち抜き、防弾装備の上からでも息の根を止められる装備が必要だった。


そしてもちろん、武器だけでなく情報も。


 スーツを避けてベッドに腰かけ、サラはファイルフォルダーを手繰った。


 ファイリングされている資料はモーガンの諜報活動の成果である。

 サヴァチェーエフの潜伏先、警備の人数と配置、建物の見取り図、脱出の手段と経路等々――必要な情報を片っ端から集めた結果、持ち歩くのは少し憚られるような重さと厚さになってしまっていた。


(諜報畑があるとはいえ、さすがにここまでの根気は真似できないな……)


 最近になってようやく気が付いたのだが、どうやらモーガンは一人で情報を集めているわけではないらしい。


 全地球規模の情報網から必要な資料を集め、時には彼自身が得た情報を流す。もちろんどうしても手に入らない情報は自分で探っているようだが、そういう緩い横の繋がりも活用しているようだった。


 この資料も恐らくそういう出自だろう。とはいえ、からくりを知ったところで同じことをこなす自信はない。やってみたところで偽情報に踊らされるのがオチだ。


 暗記するほど読んだ資料をもう一度斜め読みした後でサラは立ち上がる。


 必要なものはすべて揃った。重畳なことだ。後は仕事をこなすだけ。


 ガンラックから取り出したM4をベルクロでソフトケースに固定し、次いで拳銃と弾倉、そしてシェルキャディとホルスターで随分重たくなったタクティカルベルトを収める。


 そして最後に、部屋着を脱ぎ捨ててスーツに袖を通した。スラックスもジレも、更にはシャツまでもがフルオーダーなだけあって、サイズ感には寸分の狂いもない。


 唯一ジャケットだけは僅かに丈が長く感じられたが、もちろんフィッテングの誤差によるものとは違う。ナイフの鞘やホルスターを吊るためのハーネスを着用し、その上で腰に巻いたタクティカルベルトを目立たせないよう敢えての処置だ。


 何も言わずともこういう細やかな気配りができることこそ、サラがイレーナの店を贔屓にしている理由だった。顧客が一々伝えないような小さな要望を汲み取ることもまた、商売人には欠かせない能力なのかもしれない。


(まあ、見習えといわれても私には土台無理な話だろうが)


 嘆息してライフルバッグを持ち上げる。


 確かな重みがスリングを通して肩に伝わり、同時に気分も重く沈んできた。何の気兼ねもなく新しい銃を試せるのはいいが、それはそれとして気分が晴れるようなことではない。


 店舗裏のガレージへと向かう足取りはいつになく重い。前の失敗からは一か月近い期間が空いているのだから、肉体的な疲労ではないはずだ。であれば精神的な問題か。


 しかし、始める前からこのざまとは。暗殺者としては自分も晩年なのだということに嫌でも気付かされる。


 そんなことを意識すればするほど足が重くなる気がして、結局サラはガレージとバックヤードを隔てる扉の前で立ち止まった。


 ……一体、自分は何がしたいのだろうか。


 そもそも自ら望んでこんな稼業を始めたわけではない。

 色々とあってアメリカからチェコに移り住んだ頃、荒んでいたところをレーヴァンに見初められたのがきっかけだ。


 どんな仕事であれ、自分の意思とは関係なく殺してきた。もしかすると、そうして手に入れた金で人生を買い戻そうとしていたのかもしれない。

 だというのに、遊蕩に費やしてなお有り余るような富を得た今でも自分は暗殺者だ。あまつさえ社会の裏側に居場所を見つけ出そうとすらしている。


 その一方で、いい加減に限界だと感じていることもまた事実だった。この疲労感が何よりの証拠だ。


 ぬるま湯に浸かり続けようとする自分と、そんな怠惰を拒絶する自分。二つの意思がせめぎ合い、もはやどちらが本心なのかも分からない。


 一体誰のために殺し続け、誰のために抜け出そうとしているのか。


 今は迷っている場合ではないと理解はしているが、しかし今度ばかりは連鎖する逡巡を断ち切ることができない。


 スチール製の扉に額を軽く打ち付ける。

 こんなところを「彼」に見られたらまた七面倒臭いことになるだろうな――とぼんやり思うサラの背に、一番聞きたくなかった声が投げかけられた。


「店長……? 大丈夫ですか、やっぱりどこか怪我をしてるとか……」


 上履き代わりのスリッパを履いたまま、モーガンが店主の許へと駆け寄ってくる。歳の割に小さな身体で重荷のバッグを引き受けようとする彼を、サラは黙って手で制した。


 善意を無碍にされた少年は、少しだけ傷付いたような表情を浮かべる。


 やめてくれ。癇癪にも近い気持ちでサラはそう思った。


 その善意も健気さも、自分のような人間に向けられるべきものではない。もっと「まともな」者のためにあるべきだ。


 だというのにこの少年は、こんなろくでもない大人に執着している。満足に学校にも通わせてやれず、それどころか殺人の手伝いをさせるような人間に。


 こんなことなら、いっそ拾ってやらない方が彼自身のためだったかもしれない。


 そんな大それたことを考えてしまう自分が情けないやら怖いやら。サラは小さく首を振り、モーガンに向けて言葉を絞り出した。


「……お前こそどうした、こんな時間に。私が向こうに着くまでは休んでいいんだぞ」


「もちろんそうするつもりですよ。でもその前に、これをお渡ししようと思って」


 少年が差し出したものを黙って受け取る。クリップ留めされた数枚のコピー用紙。印刷されているのは誰かの人物像プロファイルのようだが――その顔写真を見て、呼吸が一瞬止まった。


 乱れがちでハネの目立つ銀髪に向日葵色の瞳。見紛うことなく度々手合わせしてきた「鷲中隊」の尖兵だ。


「さすがに隊員個人まで探るのは時間がかかりました。彼はアクィラ・グリント。アンチテロのための暗殺を任されている、サヴァチェーエフの子飼いだとか」


「歳は……16か。お前と同い年だな。明らかに鯖を読んでいるところもそっくりだ」


 そう言うと、黒髪の少年は軽く視線を伏せた。頷いたのか俯いたのか、微妙に判断に困る仕草だ。


「連日調べもので疲れただろう。今日はもう休め、いい加減に夜も遅い」


「はい……ありがとうございます」


 おずおずと、モーガンはサラの傍を離れる。薄暗いバックヤードから出ていこうとするその背中を見送って、サラはガレージへと繋がる扉を押した。しかし――


「あ、あのっ……!」


 再び背後で響いた声に引き留められる。


 振り向いたサラとモーガンの視線が交錯する。少年の瞳は揺れていた。自分が声を上げたことが信じられないかのように、彼は小さく息を飲む。


 それでも、意を決したようにモーガンは一歩を踏み込んだ。


「やっぱり、殺さないといけないんですか?」


「……愚問だな。お前も知っているだろう? 私には子供を殺すような趣味はない。例の子供のことはレーヴァンにでも頼んで――」


「そうじゃなくて、サヴァチェーエフのことです。いつぞやの政治家とか戦争犯罪人と違って、彼は何も悪いことはしてないんでしょう?」


 言い募る彼には大人たちの仕打ちが理解できないようだった。もちろん事情はすべて知っているのだろうが、やはり理不尽な仕打ちとしか思えないらしい。


 実際、サヴァチェーエフが死ななければならない理由は何一つない。少なくとも正当な理由は。だが、それこそが彼の“罪”だった。彼が潔白な人間だったからこそ、悪党にしてみればその存在自体が邪魔で仕方がなかったのだ。


「あいつは敵を多く作りすぎた、それだけの話だ。それにわざわざ私兵をこさえるような輩が完璧な正義漢のはずはない」


「でもこのままじゃ、死んで然るべきなのは彼じゃなくてむしろ……」


「私だと言いたいのか? それともレーヴァンだと?」


 どうやら図星を指したようで、食い下がる少年の言葉が止まった。


 溜め息を一つ、サラは諭すような声色でモーガンに語り掛ける。


「レーヴァンを殺すことはできないし、仮にそうしたところで無意味だ。頭目の首を挿げ替えたくらいで変われるほどグローリアは小さな組織じゃない。それに、もちろん私も死んではやれない。まだ未練の一つや二つは残ってる」


「……」


 モーガンは何も言わない。ただいつになく悲しむような顔で、自分の手首を胸の前で握り締めているだけだった。


 そんな姿を見ていると、どうしようもなく胸が疼く。


 そんな自分に驚き、そして理解した。事あるごとに感じていた「限界」。自分を真っ当な人間として立たせようとしているもの。それはきっと、彼によって与えられたものなのだろう。


 恨めしいとは思わない。排除しようとも思えない。ただ、気付いてしまえばこの上なく愛おしい。


 この感覚が“弾薬庫”の主マルツェラの言うようなものなのか、それともまた違うものなのかは分からない。ただ、燻っていたものを燃え上がらせるには十分だった。


 ライフルバッグをその場に落とす。それがどれだけの重荷だったかを意識しながら、サラはモーガンに迫った。少年は突然の出来事に身を固くしている。しかし、そんなことは気にも留めなかった。


 細い身体を思い切り掻き抱く。


 背中に回した腕の中で、その身体は小さく跳ねた。束縛から逃れようと反射的に身を捩るのを、力と体格差に物を言わせて押さえ込む。


「すまないモーガン。私には世の中をただすことはできない。私はサヴァチェーエフと違って英雄じゃないんだ。こんな情けない大人で……失望しただろう?」


 モーガンの耳元に囁く。ずっと腹の底に押し込めてきたことだった。


 きっと少年は失望しているはずだ。身柄を預かっておきながら、大人としての務めは何一つ果たせない店主に対して。


 サラが与えることができたのはただ仕事だけ。それも殺生の手伝いという、この上なく罪深いもの。彼の望む人生がこんなものでないことだけは疑いようがない。


「……本音を言うなら少しだけ。でも、いつかは見返してくれるんでしょう?」


 肩に顔を埋めながらも少年はそう返す。いつのまにかその腕はサラの腰に回っていた。


 健気な奴だと改めて思う。いかなることがあろうとも、一度主人と決めた者への忠誠心は翳りを見せない。東洋人らしいと言いたいが、このご時世でそれは偏見か。何にせよモーガンには支えられてばかりだ。


 一層力を込めて抱きしめ、そしてそっと放す。

 互いの体が少しずつ距離を取り戻し、やがて再び目が合った。彼はにこりと微笑む。その頬には朱が差しているが、それは恐らく自分も同じだろう。衝動的にとんでもないことをしてしまった気がする。


「それじゃ店長、いってらっしゃい。無事に戻ってくださいね」


「あ、おい……」


 呼び止める間もなくモーガンはバックヤードから逃げ去ってしまった。一人残されたサラもまた、仕方なくバッグを拾い上げてガレージへ抜ける。自動車用オイルの臭いが混ざった晩秋の空気は思いの外冷たく、上気した顔との温度差にサラは思わず身震いした。


 そんな空気の中に佇む車はいつぞやと違ってランドクルーザーではない。車一台が辛うじて入る程度の容積しかない以上、仕事に応じて――時には気分も踏まえた上で――必要な車に入れ替えることが必須なのだ。


 そういうわけで今この場にあるのは純然たるグランツーリスモだった。BMW M8 グランクーペ。先代M550iの後釜としてモーガンが選び、レーヴァンが金を出した欧州車の最高峰だ。


 クーペとは名ばかり4ドアの後席にバッグを放り込み、電動シャッターを開けてから運転席に身を沈める。この車の心臓は625馬力を発揮するV型8気筒ツインパワー・ターボエンジン。スイッチ一つで目を覚ますなり、それは近所迷惑の心配をせざるを得ないような咆哮を上げた。


 自重気味なサイズのキドニー・グリルをはじめとして洗練された外装はもちろん、内装にも妥協は一切感じられない。更にサーキットでも戦えるような走行性能まで備えているとなれば、モーガンが一目惚れするのもむべなるかな。


 とにかくこの車には先代のような末路を辿らせたくない。その上、悪いことに依頼の期限も目前に迫っている。


 今度こそ失敗は許されない。そう自分に言い聞かせ、サラはアクセルを踏んだ。


   §

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