第14話

 こうも見事に仕事をしくじったのはいつぶりだろうか。サラはもはや何度目かも分からない溜め息を漏らした。


 そんな心裡を映したかのような曇天からは、しとしとと小さな雨粒が降り続いている。アンティークな窓のガラスを水滴が伝って落ちた。店の表にある通りは一面雨に打たれ、人の往来も目に見えて減っている。


 サラがベラルーシに向けて発ってから天候はずっとこの調子らしく、低気圧に弱いモーガンは頭痛に呻いている。もっとも、一番大きな頭痛の種は気圧ではないだろうが。


 終わるはずの仕事が終わらなかった。それだけでも一大事だというのに、ここにきて思いの外面倒なものを相手にしていることが分かってきた。店主がベラルーシからの逃避行を続けている間に、少年は「鷲」の正体に迫っていたのだ。


 ブリャンスク民主共和国対外情報庁第4局ηイータ分遣隊、通称オリョール中隊。それが「鷲」たちの真名だという。未熟な情報機関の末端にある行動班の一つに偽装された彼らこそ、サヴァチェーエフの事実上の私兵部隊である。


 モーガンが頭痛をこらえながらかき集めてきた情報をまとめるとそういうことらしい。政府中枢の要人が私兵を抱えているというレーヴァンの見立ては、概ね正鵠を射ていた。


 しかし予想外だったのはその練度だ。構成員の大部分は独立後に雇用された警官や軍人上がりだが、一部には特殊部隊の経験者が混ざっている。


 出身はロシア連邦保安庁が誇る二つの特殊部隊――いわゆる「アルファ」と「ヴィンペル」をはじめ、ロシア対外情報庁のザスローン部隊、国家親衛隊隷下にある複数の特殊部隊等々。


 ロシア内務省の官僚シロヴィキだった頃から敏腕で鳴らしたサヴァチェーエフのことだ。私兵としてブリャンスクに連れ出されたのは、そんな精鋭部隊の中でも更に一握りのエリート達だろう。


 そういう人材による教練を受けた部隊であれば、グローリアの工作員が次々に屠られたことも頷ける。


 しかし真に恐るべきは、そんな錚々たる部隊のエリートが祖国に背を向けたことだ。これほどまでに広い人脈を持ち、あまつさえそれを運用して見せるサヴァチェーエフの器量は相当なものがある。


 そんな人間を一度で殺しそこねた。挙句に二度目の機会は回ってくるかどうかも怪しいとなれば、それは偏頭痛の種として十分なことだった。


「それで、これからどうするんですか? これじゃターゲットはしばらく表に出てきませんよ」


「表に出てこないようならむしろ好都合だ。そのまま裏で消えてもらう手もあるし、まだ万策尽きたわけじゃない」


 連日の緊張と低気圧のせいで少し気怠そうなモーガンの問いに、そう言葉を返す。

 そうだ、まだ手立てはある。サラが頭を悩ませたのは打つ手を失ったからではなく、残された策のあまりの短絡さゆえだ。


 いつの間にか少年の黒い瞳はじっと店主を見据えていた。「どうするつもりだ」という問いかけを言葉より雄弁に語っている。


「斬り込むしかないだろうな。特殊部隊上がりが混ざっているにしても、それ自体は大して珍しいことじゃない。警備の状況が事前に分かれば手の打ちようもある」


「要するに、機会がないなら作ってしまえってことですか。僕の苦労も少しは考えてくださいよ」


 黒々とした瞳に呆れの色を滲ませながらモーガンが零す。望み通り話してやったというのにこの反応は少し癪に障るが、そうしたくなる気持ちはよく分かった。


 サラが一度失敗して以降、サヴァチェーエフは表舞台に姿を現していない。現地メディアの報道では急な体調不良で静養しているとのことだが、一部では暗殺されたのではないかという噂が立っているらしい。


 無論、それらが正しい情報でないことは自明だった。あの偉丈夫が身体を壊すなど眉唾でしかない。もっとも暗殺については当たらずとも遠からずといった具合ではあるが、とにかく彼はまだ生きているはずだ。


 恐らくどこかのセーフハウスにでも引っ込んでいるのだろう。しかし、サラ自身にその場所を突き止める術はなかった。優秀な諜報担当のモーガンにすべてを託すことを除いて。


 射干玉の瞳を見つめ返すと、彼はそっと視線を外す。しかし伝えんとしたことは理解できたようで「……やればいいんでしょ、やれば」と不承不承という様子の答えが返ってきた。


 このところ何か腹に一物抱えているような様子だったこともあり、もう少し口答えされるかとも思っていたが……とりあえず今はこれでいいことにする。


「そういうことなら、少し行くところがあるな」


 手慰みに弄っていた拳銃をカウンターの下に戻し、椅子を立つ。虚ろな目で天井を仰ぐ少年を尻目に、店の扉にかけられている小板を返して「準備中zavřeno」の文字を外に向けた。ついでに臨時休業dočasný zavřenoと殴り書いたメモもその隣に貼っておく。


「出かけるんですか? これからが書き入れ時なのに」


「この天気の中わざわざ店に来るような上客はいないだろう。それに、まあ……少し仕事の遅い奴に会わなきゃならないんだ。早めに行っておくに越したことはない」


「でも最近休み続きですし、ご近所さんも気にかけてるみたいでしたよ。店長が何か病気でもしたんじゃないかって」


「初耳だ、それは。この辺はエージェントか何かで溢れてるのか?」


 どうやら店先から時々姿を消す店主は井戸端会議のネタにされていたらしい。レジを締めながら冗談半分で返すものの、モーガンは鼻で笑うでもなく至って真面目に答えてきた。


「この辺は昔からの商店が多いようですからね。商機を見るっていうのもあると思いますけど、相見互いの精神みたいなのも根付いてるんでしょう」


「仮にそうだとしても、あれこれ嗅ぎ回られるのは気持ちのいいものじゃないな。そのうち何か訊かれるようなら『コロナに罹った』とでも返しておいてくれ」


「僕が言うまでもなく勝手にそういうことになってますよ。ここ数日は風邪、その前はインフルエンザ。COVID-19はもっと前でしたね。お見舞い品もたくさんいただいてます」


「……どれだけ病弱だと思われてるんだ、私は」


「別にいいんじゃないですか、それで納得してくれてるわけですし。わざわざ蒸し返すこともないでしょう」


 断じて「別にいい」で済まされる問題ではない。噂に尾ひれがつくのは当然の帰結としても、なんだその感染症のオンパレードは。


 確かに一週間以上店を閉めるのも珍しいことではないが、そのたびに何かに罹っているようでは流石に死ぬ。病弱というキャラ付けがされているなら、いい加減生きていることを不審に思われても仕方がない頃合いだ。


「東洋には美人薄命という言葉もあるみたいですけどね。とにかく、これはご近所付き合いを疎かした店長の責任ですよ。僕に丸投げなんてしないでください」


「仕事を減らすか足を洗うかです」と言い残してモーガンはバックヤードに消える。どうやら閉店の作業を手伝う気はないらしい。ついでに店主のことを美人だと口走ったことにも気が付いていないようだ。


 まあ何にせよ、今から会わねばならない相手はモーガンと直接関係があるわけではない。それに彼には彼の仕事があるのだ。今からわざわざ呼び戻すのも気が引けた。


(しかし足を洗う、か……。私だって努力はしているんだがな)


 何か腹に抱えている様子だったのは、これが言いたかったのだと得心する。


 この先のことも考えるとそうするのが正解なのは分かっている。今まで幾度となく死線を越えてきたが、その悪運がいつまで続くかは分からない。死んでしまえば後悔もできないのだ。


 しかし、心のどこかでそれを拒む自分がいた。

 今まで散々殺してきておいて自分は死にたくないなど筋が通らない。殺人が稼業として成り立っているのは需要があるからで、殺し屋は絶対的な悪ではない。


 そんなもっともらしい理由は引っ張り出せばいくらでもあるが、どれも本気ではなかった。結局最後まで残るのは、単に変わるのが怖いというだけの話だ。


 社会の裏側を生きたのは、三十年近く生きてきた人生のうち数年でしかない。それでもサラは「こちら側」に染まりすぎていた。


 できることといえば人殺しと真似事の金勘定だけ。それでも、この世界ではそれだけできれば十分だった。殺し屋稼業はいわば微温湯のようなものだ。無為に浸かっている間は心地よく、それゆえ人間を引き摺り込んでしまう。表側よりも「甘え」が利く世界。


 そんな場所にいた自分が今更光の当たる道を歩けるのか。その問題に行き当たる度に行動を先送りにしてきたが、遂にモーガンにも言われてしまった。


(いい加減少しは真剣に考えてみるか……)


 レジを締め終え、店の施錠を確認しながら思う。


 実際、稼ぐだけ稼いで身を引いた腕利きの話はしばしば聞くことがある。グローリアに害をなすような人間でなければ、引退そのものは不可能ではないのだろう。


 しかし同時に、良心の呵責に苛まれグローリアの存在を告発しようとした者は例外なく消されるという事実もあった。


 地下経済のネットワークは世界中に網を張っており、裏表問わず全世界が監視下に置かれている。どれだけ小さな情報であろうと、重要なものはすべて中央の知るところになるのだ。抗ったところでそのくびきから逃れることはできない。


 もちろん告発などという大それたことをするつもりは毛頭ないし、そもそも監視されているのは今も同じことではある。首魁たるレーヴァンが腕利きのもとを巡る目的が、仕事の斡旋のためだけでないのは明白だ。


 奴がモーガンと駄弁りに来るのは、単に話が合うからではない。余計なことをすれば彼を傷付ける、と警告する意味もあるのだろう。


 そんな連中と少しでも距離を置けるなら足を洗うのもやぶさかでない。しかし、そう簡単に覚悟が決まるならこんな仕事からはとうに身を引いている。


(……駄目だな。今はとにかく、目先の仕事を済ませて生きて帰るのが先だ)


 いつものように結論を後回しにして、サラは店のカーテンを引いた。


   §

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