第13話
ブリャンスクからチェスケー・ブジェヨヴィツェまで直線距離でも1,500km。
ただでさえ長い道程である上に、追跡を警戒しながらの逃避行となると疲労感もひとしおだ。グローリアの
そんな店主を寝床まで運んだのは、こちらも疲労困憊のモーガンである。
肩を貸しているのか引きずっているのか分からないような有様だった。一階の店舗と二階の住居を繋ぐ階段を登るだけで、さながら登山のようだ。
彼女は自分よりも上背がある。本人の前では口が裂けても言えないが、体重もそれなりだ。おまけに防弾ベストと武器弾薬の類も隠し持っているはずだった。その証拠に今もとんでもなく重たい。
そんな状態でよく建物から建物へ飛び移るような芸当ができたものだと、モーガンは舌を巻く。その強健さは一体どこから来るのだろうか。そして、そんな人をここまで追い詰めた現場は一体どれだけ過酷だったのか。
寝室のドアを額で押し開け、店主のプライベートルームへ立ち入る。
普段は入りたくても入れない――というより入りたいと思ったこともない空間は、思いのほか小綺麗に片付けられていた。靴を脱がせ、部屋の隅に置かれた質素なベッドに彼女の身を横たえる。
少し悩んで、彼女が身に着けている装備も外しておくことにした。
眠りを妨げないよう慎重に、まずはジャケットから脱がせる。どういうわけか上の釦が真っ二つに割れていた。あとで取り換えておいたほうがよさそうだ。
ジレに似せて
万が一にも暴発させないようにベルトと悪戦苦闘しているとき、モーガンはふと気が付く。店主の服から漂ってくる硝煙の臭い。彼女くらいの年代――今年で二十七歳だと聞いている――が好むような香水とは、似ても似つかない臭い。
モーガンは思わず店主の顔を窺う。
うら若い、とまでは言い過ぎだが妙齢の女性。目鼻立ちは恐ろしいほど整っていて、今は閉じられているその瞳は、開けば深紅の奥に瑠璃が透ける不可思議な色をしている。長身であるが健康的な起伏に富む肢体は、モーガンのような少年をすら惹き付けてやまない。
美しい銀髪といい、その容貌はファッションモデルや女優としても通用しそうなほどだった。こんな稼業さえしていなければ、好き放題に人生を謳歌することだってできただろうに。
(馬鹿馬鹿しい)
彼は度々そんな風に思う。
金を得るために命を削る。なんと迂愚なことだろうか。
彼女は変わることを諦めているのだ。グローリアの庇護は一線を退いた者が慎ましく暮らすには十分なものだというのに。そうして、とめどなく汚名を積み重ねていく。
今回の仕事もそういうものだ。これだけ消耗して、得られるものは10万米ドルの金と汚名――この業界に限っていえば栄光。明らかに割に合わない。
彼女がそれでいいと思っているのなら、自分は何も言わない。今まではそう思ってきた。モーガンにとって彼女は恩人なのだ。故あって行き場を失った自分を養ってくれている。
しかし、いい加減にそれだけでは駄目なのだとも思い始めていた。いつかは真っ当な大人になりたい。できることなら、そのときは彼女と一緒がいい。端的に言うなら足を洗ってほしいのだ。
近いうちに伝えてみよう。
外した装備類をベッドサイドのテーブルに並べながら、少年はそう心に誓った。その決心がこれで何度目になるのかは、もう数えてすらいない。
§
〈ブリャンスク民主共和国中部 ポーチェプ〉
「やはり彼女の素性は掴めなかったか。ふむ……」
見事なバリトンボイスが執務室に響く。筋骨逞しい声の主は、いかにも一流大学を出たばかりという雰囲気の役人と向かい合っていた。
「申し訳ありません、長官。追跡を試みたものの、ベラルーシに展開中の諜報員との連携に齟齬があり……」
「そうか。確かに満点ではないかもしれないが、民間人への被害は防ぐことができた。このままできることを続けてくれ。君たちはよくやっている」
恐縮です、と一礼して役人は執務室を後にする。その足音が十分に遠ざかったことを確認して、長官と呼ばれた男――アルテム・セルゲーエヴィチ・サヴァチェーエフは“もう一人”に声をかけた。
「聞いての通り、諜報部も彼女に翻弄されているようだ。君の方はどうだ。何か収穫は?」
部屋の隅に意味ありげにおかれた衝立の裏から一人の少年が姿を現す。豊かな銀髪と向日葵の瞳が、彼にファンタジーの世界から飛び出してきたかのような印象を与えていた。
そんな少年もやはり首を横に振る。
「びっくりするくらい美人なフィジカルモンスターってこと以外には何も。恐らく最近この国に入ってきた犯罪組織の鉄砲玉だと思いますけど、それも推測にすぎませんし」
「確かグローリアといったな。我々の内部にいる協力者は掃討したつもりだったのだが……一筋縄ではいかない相手のようだ」
恐らくNATO諸国にまで根を張っている。サヴァチェーエフはそう読んだ。
アメリカ、イギリス、ドイツをはじめ、表向き同盟関係にある国々は捜査協力に積極的ではない。情報を持たないのではなく、持っているものを隠しているのだ。東アジアの数か国からはいくつかの情報がもたらされたが、どれも組織の急所に迫れるものではなかった。
法を破る者への需要が絶えないことをサヴァチェーエフはよく知っている。だからこそ非合法の諜報活動や暗殺を任務とする私兵部隊、通称「
自身がこの私兵に任せていることを、諸国はグローリアに委託している。
仮に事態が明るみに出たとしても、各国は“もっともらしい否認”を押し通して尻尾を切ることができる。国家から事実上の公認を得たグローリアは日陰の王として君臨し、裏社会に構造と秩序を与えて金を吸い上げる。
地下経済を最大限に活用する理想的なビジネスモデル。それをこのブリャンスクで展開しようとするグローリアと、秩序は法によって与えられるべきというサヴァチェーエフの信念が、ここに来て真っ向から対立していた。
「あの人は必ずまた長官を狙います。僕が彼女を仕留めるまで、しばらくはここを動かない方がいい」
「……そうだな。だが絶対に無理をしてはいけない。もし死んだら、すべてそこでお終いだ。君ならできるな?」
「任せてください長官。僕の命はあなたに預けたんですから、死にはしませんよ。多分」
少年は踵を返す。平静を装っているが、わずかに左脚を引きずっているようにも見えた。負傷しているのだ。
左膝を激しく殴打されただけではない。例の暗殺者が煙幕越しに放った弾丸が跳弾し、運悪く左脚大腿部の肉を切り裂かれていた。
決して浅い傷ではない。にもかかわらず、少年は静養を拒んで働き続けている。
大きくなったものだ。サヴァチェーエフはしみじみとそう思う。
極東ロシアの寂れた街、パルチザンスクで出会ったばかりの頃はまだ小さな子供だった。両親を喪い、財産を失い、汚れた世界を憎みながら、それを変える力を渇望していた早熟児。それが今や、清濁を併せ吞む立派な兵士に成長していた。
もちろん濁ったものまで呑ませてしまったことには忸怩たる想いもある。それでも子のないサヴァチェーエフにとって、あの少年は実の息子のような存在になっていた。彼にとって唯一の心残りは、そんな少年が立派な大人になってゆく姿を見られないことだ。
彼は目を閉じ、背もたれに身体を預ける。
あの少年も送り出す度に新しい傷をこさえて帰ってくる。グローリアの抱える暗殺者は相当な手練れ揃いなのだ。
先は長くないと自分でも分かる。だからこそ最後に救ってやりたい。
あの少年――アクィラ・グリントのことを。
そしてできることなら、あの女暗殺者のことも。
§
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