第12話

 元ロシア連邦ブリャンスク州都、現ブリャンスク民主共和国首都。地名はそのままブリャンスク。


 先の戦争末期に逆侵攻を食い止めるための捨て石とされたこの都市は、未だにその惨禍を忘れられていない。


 そこかしこの空き地には地対地ロケット砲によって穿たれたクレーターが残っている。復興の邪魔になる瓦礫だけは除去されたが、無数の大穴をすべて埋め立てるには金も労力も不足しているのだという。


 衛生環境の悪化を防ぐため、戦時中には墓に収められなかった死体を焼いたという曰く付きの大穴だ。ここで撮られた映像が世論を厭戦へと傾かせた。

 市井が目の当たりにした恐怖と中央への不満は、戦後の地域ナショナリズムを燎原の火の如く拡大させた。その結果、この地域は独立国を名乗っている。


 そんな街にサラが入ったのは三日前。ベラルーシでの密談から二週間と経たないうちに、サヴァチェーエフ暗殺の好機が巡ってきていた。


『店長、そこから3時方向400メートルに仮設の演壇が見えますか? 標的ターゲットはそこに立つはずです』


 モーガンの声を無線に聞きながら単眼鏡を覗く。視界の端に反射光がちらついた。


「ああ……見える。ミラーガラスが随分と煩わしいが」


 首都としては慎ましやかな街の一角に、夥しい数の人、人、人。


 彼らの目当てはここからでも一目で分かった。無骨な鉄筋コンクリート造にミラーガラスの窓が嵌められた巨大建造物だ。街の復興を後回しにして造り上げられたというそれは、ブリャンスク警視庁の本庁舎となる建物だ。


 そして今日、その巨大な庁舎は晴れて落成の日を迎えていた。


『場所を変えますか? 建物の配置も考えると、他のポイントでも視界状況は大して変わらないとは思いますけど』


「ライフルを持ったままあの群衆を掻き分けるのも無理だな。構わん、ここで撃つ」


『了解です。では段取りを再確認しましょう。今演説をしているのはブリャンスク内務省の長官です。サヴァチェーエフはその次。彼が演壇に上がったところを――』


「狙撃だな。使い古された手だ」


 首都警察の中枢となるべき施設の完成とあって、落成式の次第にはお偉方の演説・訓示がこれでもかと盛り込まれていた。まさに選り取り見取り、狙撃してくださいと言っているようなものだ。


 当然、その面子には警察総局局長たるサヴァチェーエフも含まれる。警備は相応に厳しいものになるだろうが、警察総局庁舎に直接斬り込むよりはマシだとサラは結論付けたのだった。


『終わったら銃はその場に放置して構いません。民間に潜伏して工作員狩りを逃れたグローリアの構成員が回収するそうです。そもそも追跡可能性ゼロの幽霊銃ゴースト・ガンですから、調べたところで何も出ませんし』


「了解した。もう切っていいか?」


『ええ。座標データは常にモニターしてます。何かあったら連絡を』


 南ボヘミアとの衛星通信が切れる。


 サラは幾分か静かになった集合住宅フルシチョフカの屋上に伏せった。砲撃によって壁が剥がれ落ち、廃墟と化した建物だ。


 演壇からは400メートルの距離があり、式典に釘付けになった群衆の目は届かない。街路樹の隙間を縫ってギリギリ射線を通せるこの建物は、狙撃地点としてはまずまずといったところだろう。


 傍らの狙撃銃を引き寄せ、エレベーションノブを調節しながら壇上を窺い見る。

大統領と首相の演説という式典の佳境は既に過ぎ、内務省の長は粛々と訓示を垂れている。風に乗って流れて来る言葉は秩序、正義、安寧。


「どの口が」


 サラは毒づく。社会の裏側を覗いたこともあるだろうに、どの面下げて正義を語るのか。


 そう考えてみるものの、内心では分かっていた。秩序安寧を乱すのは自分の方で、彼らはそんなろくでなしと対峙するために存在するのだと。


 正義も大義も彼らのためにある。実際彼らは善良なのだ。社会の裏側を覗くことはあれど、立ち入ることは決してない。いかなる相手でも毅然と糾弾するサヴァチェーエフという存在がある限り。


 頬が戦慄わななくのを感じる。自分にもかつてはそういう時期があった。正義を求めて辣腕を振るう政治家のため、ひいては祖国アメリカのために命を張った時期が。それが今はどうだ。異国に渡って殺し屋にまで身をやつしている。


 あの頃の自分が羨ましいと今でも思う。だからこそ、正しい道にあるあの政治家と警察官たちが死ぬほど羨ましい。


 頭の中で火花が散る。これは彼ら、あるいは彼女らに対する――嫉妬。


(落ち着け。女の嫉妬なんて犬も食わない)


 精神統一。揺れる照準線レティクルを押さえ込み、再び一発必中の状態まで持っていく。

 今日の得物はロシア製の新鋭狙撃銃SVCh。マークスマンライフルの一面も併せ持つ銃で、冷間鍛造の銃身が生み出す精度は高い。400メートル程度なら正しく狙えば必ず当たる。


 そうこうしているうちに長話を終えた内務大臣が壇上を下りた。そして司会に急かされるように、次の男が演壇に登る。


 なよなよとした他の政治家たちとは明らかに違う、190センチはあろうかという巨躯。今日の本命、アルテム・セルゲーエヴィチ・サヴァチェーエフだ。


 その足取りは自信に満ち、観衆が自然と背筋を伸ばすような威厳がある。それでいて表情は柔らかく、聞き手に余計な緊張を与えない配慮が遠目でも感じられた。これが部下からも首脳陣からも、更には国民からも篤い信頼を寄せられる所以なのだろう。


 サヴァチェーエフはマイクが置かれた講演台の奥に立った。彼が話し始めるより先に、サラは指先を動かす。ロアレシーバーに添えた人差し指を下ろし、引き金に触れる。少しずつ引き金を絞り、撃発直前の位置で止める。


 数ミリ。あと数ミリ引けば撃針が7.62x54mmR弾の雷管を叩く。


 指先を鈍らせる良心は頭の隅へと追いやった。昔は昔、今は今。詭弁ではあるが、少なくとも一時の踏ん切りはつく。モーガンなどはぶつくさと文句を言うだろうが仕方ない。金を貰って始末するという汚れ仕事ウエット・ワークが、今の生業なのだ。


 情熱的な言葉で演説を始めた男の鼻先をクロスヘアの中心に捉える。指先に力を入れ、引き金を最後まで後退させようとした、その時。


 サラの背後、屋内の階段から繋がる塔屋ペントハウスのドアが蹴破られた。咄嗟に身体を半回転させ仰向けスーパインの状態で発砲する。一発、二発、三発と減音器を通してくぐもった銃声が響く。


 しかし7.62mm弾は壁に弾痕を残すだけ。小さな人影がそこを飛び出す方が早かった。


 法執行機関お決まりの黒い装備に身を包み、ハネの目立つ銀髪を逆光に映させる少年。「鷲」の一翼。ベラルーシでの一件から二週間ぶりの再会である。


 サラは小さく舌打ちし、起き上がりざまに狙撃銃を投擲する。


「うわっと……あっぶないなぁお姉さん。いま頭狙って投げたでしょ?」


 約4キログラムの金属とポリマーの塊からひらりと身を躱した少年が言う。

その小生意気な表情は相変わらずで、暗殺者を前に嬉々とした笑顔まで見せている。一方のサラは鉄面皮を崩さなかった。


「鷲」の存在は想定済み。サヴァチェーエフの私兵であるならむしろ手をこまねいている方がおかしい。だからこそプロなら気にも留めないような「まずまず」の場所を厳選したつもりだったのだが、結局無駄なことだったようだ。


「だったらどうした。ナイフ振り回して襲ってくる奴に遠慮する馬鹿がどこにいる」


「僕の目の前にいるじゃないですか。襲撃される可能性も考えてセミオートの銃にしたんですよね。それなら持ってるだけで有利なのに、それをわざわざ捨てた」


 少年は右手に持ったカラテル・ナイフを器用に弄ぶ。他人の武器をあれこれという割に、彼の得物は今回もナイフだ。太腿のサイホルスターに収めた拳銃には手を伸ばす素振りさえ見せない。


「ああ、これですか? 僕は銃よりこういう刃物の方が好きなんですよね」


 視線に気付いたのか、少年は無邪気に相好を崩す。片手に握るコンバットナイフが歳相応の笑顔に非人間的な印象を与えていた。


「弾丸と違って思い通りに動かせるし、息遣いが分かるくらい近くで戦えるし。それに、柔肌は傷付けずに布だけ切り裂くことも」


「……相変わらずの下劣さだな。そのうち自分が嫌になるぞ、エロガキ」


「じゃ、そうなる前に止めてくださいよ。どのみちどっちかが死ぬことになるんですから」


 彼は手慰みのようにくるくると回していたナイフの柄を握り込む。


 ませた子供のような目から途端に戦士の目だ。付け入る隙を窺って視線をあちこちに振るのではなく、こちらの全身を視界に入れて泰然と構えている。


 無手は危険。そう判断してサラはホルスターから武器を抜いた。

 こうなることも考えて携行品に加えた26インチの特殊警棒。使う機会に恵まれない得物とはいえ、気休め程度にはなるだろう。


 それを振り出すと同時に少年が動いた。


 短いストロークで繰り出される刺突。短身が足を引っ張ってリーチは長くないが、大型のコンバットナイフは致命的な威力を秘めている。


 喉を狙った初太刀を避け、肝臓を狙う二の太刀は警棒で腕を打って防ぐ。しかし肉や骨を捉えた手応えは返ってこない。袖の下に緩衝材でも仕込んだのか、あるいは籠手の類を巻いているのか。とにかく少年が止まる気配はない。


 腋窩と大腿の動脈を狙い澄ました三の太刀、四の太刀を捌く。体格差と武器のサイズで得た間合いがなければ、今頃は拳銃を頼っている局面だ。刃物が好きと大口を叩くだけのことはあるらしい。


「もっと積極的になってくださいよ。26インチの警棒を振り回す女の人なんて滅多に見られないんですから」


 僕の後学のためにもね。


 近接格闘の真っ最中に少年はそう言ってのける。「どちらかが死ぬ」などと言っておきながら、自分がここで死ぬことはないと確信しているようだ。


 実際、警棒で彼を殺すのは不可能に近かった。

 本質的には金属の塊なのだから振りかぶれば頭蓋を割るくらい造作もないが、この手練れがそんな隙を許すとは思えない。子供は殺さないという掟がどうこう以前の問題だ。


 とはいえ、それは力加減を間違えるような事故が起こらないということでもある。無理をしてまで守勢を維持し続ける必要もあるまい。


(積極的に、か。自分で言っておいて後悔するなよ)


 二週間前には実際に傷を負わせているのだ。今更になって葛藤する必要はない。後の先を取るような真似はせず、単に先手を取ればよい。


 サラはただ、動く。

 突きの出端にナイフが握られた右手を打ち据える。今度は防具に守られた前腕ではなく、薄い手袋グローブ一枚の親指を。


 少年は反射的に手を引くが間に合わない。薄い手の肉と手袋は有効な防御手段にはならなかった。

 骨折とまではいかないにしろ、確かに骨を捉えた感触が柄越しに伝わる。


 そのまま返す刀、もとい金棒で少年の左膝に一撃を入れる。


っ、つ……」


 向日葵色の瞳を歪め、苦悶の呻きとともに小さな体が片膝を突いた。もともと大きくなかったシルエットが輪をかけて小さく見える。


 さらに一撃を完全にフリーの左肩に加えんとする――が、敵もさるもの引っ搔くもの。カラテル・ナイフが横一文字に空を切った。飛び退って刃からは逃れたものの、きっさきがジャケットのボタンを割る。


「おっと……残念。もうちょっとだったのに」


 痛みを押し殺した喘ぎ混じりの声で、少年は笑った。


 その言葉は絶好の機会を逃したサラを嘲笑うものなのか、肉どころか布の一枚も切り裂けなかった自分自身に対するものなのか。


 おそらく両方だろうなと、サラは勝手に結論付ける。


 整った顔に引き攣るような笑みを貼り付けて少年はゆらりと立ち上がる。左脚を庇っているせいか重心の移動がおぼつかず、たったそれだけの動作でも一苦労という様子だった。


「まだ続ける気か? サヴァチェーエフはとうに引っ込んだようだが」


「いつまででも続けますよ。長官を狙う不届き者がいる限り」


「殊勝な心掛けだな。だが、二度と刃物それを握れなくなっても知らないぞ」


「そうなったら諜報部にでも転属しますかね。いつまで経ってもあなたの素性一つ掴めない穀潰しよりは上手くやれる」


 そんな自信に満ち満ちた台詞回しと裏腹に、彼は少しずつ間合いを開き始めた。右手の親指も今は使い物にならないのだろう。柄を握りなおしては緩める動作を何度も繰り返している。


 一歩ずつ距離を詰める。少年が下がるよりも少しだけ早いペースで。

 ストレートチップの革靴が硬い床を打ち、こつこつと小気味良い音を立てる。


 チャコールグレイのスーツで固めた女が子供兵を追い詰める光景。傍から見れば紛うことなき虐待だ。それでもサラは、この子供に今少しの手傷を負わせるつもりだった。理由はもちろん、今回のサヴァチェーエフ暗殺が失敗に終わったからだ。


 彼はもう演壇の上にはいない。警護の人員に引き摺り降ろされたのか、円満に演説を終えて下がったのか。騒ぎになっている気配がないあたり恐らく後者だろうが……この際どうでもいいことである。


 いずれにしてもこの暗殺は次の機会を探らなければならないだろう。そしてそのとき、この少年が現場にいるとこの上なく厄介だ。だからこの場で少しいたぶっておく。


 殺さない程度に戦闘力を奪うなら目を潰すのが最も効果的だが、さすがにそれは気が引けた。それなら執るべき手段は骨を折ること。太い骨を二、三本へし折っておけば二か月は現場に戻れない。


 警棒を握り締めて狙いを絞る。


 前腕部は防具があるため無理。ボディアーマーで守られた肋骨も同じく。ならば狙うべきは大腿骨、腓骨、鎖骨あたりか。


 部位がどこであれ、他人の骨を折る感触はあまり気持ちのいいものではない。それが子供相手ともなればなおさらに。加えて相手は赤子でもないのだから、必死の反撃も予想される。加害者になるにもそれなりの覚悟がいるものだ。


 腰を落とし、重心の位置を下げて戦闘術コンバットの体勢をとる。ようやく観念したのか、少年もカラテル・ナイフを左手に持ち替えた。


 にじり寄る足をそこで止める。息の詰まるような数秒の中、両者の視線が交錯した。刹那。


 期せずして二人は同時に動いた。少年を間合いに捉えるためサラは一気に距離を詰め、対する少年は――思い切り右に身を投げる。


 虚を突かれてその場で急ブレーキ。

 少年の影が消えた視界の中央には、ミラーガラスで覆われた庁舎が鎮座していた。灰色がかった巨体と暮色が近付き始めた空の境目で、何かが小さく煌めく。


(――狙撃手スナイパー!)


 そう結論をはじき出すより先に身体は動いていた。


 屋上にある数少ない障害物、貯水タンクの裏に滑り込む。直後、超音速の弾丸が生み出す衝撃波が破裂音となって響き、床のコンクリートが弾けた。しかし銃声は聞こえてこない。恐らく減音器を使っているのだろう。


「卑怯だなんて言わないでくださいね。先に狙撃スナイプしようとしたのはお姉さんの方なんですから」


 少年の声と足音が近づく。


 この一瞬で明らかに旗色が変わった。少年としてはわざわざ自分で仕留めずともよくなったわけだ。物陰から追い立てて狙撃手に始末させればいい。手傷を補って余りあるアドバンテージを彼は得ている。


 今回は失敗ばかりだな――と自嘲しながらも、サラは思惟を巡らす。


 携行している赤リン発煙弾で狙撃手から身を隠すことはできるだろう。しかしそれだけでは不十分だ。肝心の少年の目を眩ますことはできないだろうし、恐らく下の階では彼のお仲間が手ぐすね引いて待っている。手練れのグローリア工作員を次々と抹殺するような兵士たちと殺し合うには、今の携行品だけでは心許なかった。


(陸路が駄目なら跳ぶしかないか……?)


 貯水タンクに背中を預けて立ち上がる。視点が上がると、狭い通りを挟んで向かい側の建物がはっきりと見えた。


 サラの足元のフルシチョフカは側面を警視庁庁舎に向けるように建っている。正面は別の廃墟に面しており、その間には細い街路が一本通っているだけだ。屋上に飛び移るのは望むべくもないが、窓を突き破って無人の部屋に転がり込むくらいはできるかもしれない。


 思わずサラは天を仰ぐ。


 モーガンが好きなスパイもののハリウッド映画にありがちな展開だ。スタントマンという便利な存在がないあたり余計にそれっぽい。


 廃業したらそっちの路線に行ってみるか、などという戯言をまとまらない頭で考えつつも、手だけはてきぱきと動かす。


 警棒をしまって発煙手榴弾を手に取り、ピンを抜く。とはいえ無策に放るだけでは効果は薄いだろう。非殺傷性であることは一目見れば分かるし、距離を詰められれば煙幕の効果も薄れる。少年と格闘しながら跳ぶ機会を窺うのは流石に無謀だ。


 まずは出鼻を挫かなければならない。煙が充満するまでの数秒を稼げればそれでいい。


 結局こうなるのか。半ば呆れながらホルスターからシグ・ザウエルP226を抜き、発煙弾を転がすと同時にタンクの陰から乱射する。当然ながら少年に狙いを定めたわけではないめくら撃ちだ。


 十六発撃ったところでスライドは後退位置で止まるホールドオープン。煙の向こうで何やら喚く声が聞こえるあたり少年も死んではいないらしい。


 真っすぐに屋上を駆け抜け、床を蹴り飛ばして錆び付いた柵に着地する。そして勢いを殺すことなく、その柵をも踏み切った。


 ままよ。


 釦を失ったジャケットが風にはためく。僅かな時間が引き延ばされ、世界がスローモーションになったように錯覚する。


 それでも宙を舞う時間は一瞬だった。無人の廃墟と化した部屋の窓が迫る。両腕で顔面を守ると同時に、サラの身体は窓ガラスを突き破った。受け身を取って体勢を立て直し、寸刻前まで自分の身があった屋上を見上げる。


 そこはサラが今いる場所から二つのフロアを挟んでいた。五階から跳んで三階に落ちたということか。


「悪くないスタントだったな」


 独り言ちるが、余韻に浸っている余裕はなかった。「鷲」たちも即座に対応してくるはずだ。狭い路地一つ挟んだだけでは決して安全ではない。


 弾倉を交換しながら部屋を飛び出し、向かい側の部屋へと押し入る。鍵すらも朽ちていたようで、弾丸マスターキーは使うまでもなかった。


 地対地ロケットの爆風が直撃したのか、この部屋は壁が崩れていた。所々鉄筋が露わになったコンクリートを踏み切って隣の建物へと飛び移る。


 三階から跳んで次は一階。ようやく地面にまで下りてくることができた。裏口を通って外に出ると、そこは油染みと錆とゴミに支配された裏通り。身を隠しながら進むには丁度いい場所だ。


『ええっと……店長? 僕の端末がおかしくなければ、今の二十秒で路地を二つ跨いでるんですけど……』


 左耳に挿したイヤホンからモーガンの声がする。状況を把握できていない様子だった。


 一分足らずの間に三つの建物を使い二つの路地を飛び越えた。当事者のサラですら理解が追いついていない状況なのだから、無理からぬ話でもあるが。


「少しゴタついてな。悪いことにサヴァチェーエフも健在だ」


『……店長は大丈夫ですか? お怪我は?』


「ない。それよりここから抜け出すルートを探してくれ。なるべく人の目に触れないところか、最悪人混みに紛れられる道でもいい」


『少し待ってください、探します』


 回線を開いたままモーガンの声が途切れる。キーボードを叩く子気味良い音が、何重もの暗号化と復号を通して聞こえてきた。


 これがモーガンの仕事の痕跡。彼が必死の努力で身に付けた戦闘術だ。


 モーガンが経路を編む間にサラは細い道を先へと進む。

 事前に目を通した地図では、ここら一帯はこの手の裏路地が蟻の巣のように張り巡らされていた。少し奥へと進むだけで捜索は困難を極めるだろう。


 やがてサラの携帯端末にモーガン手製の経路図が送られてきた。「一番人目につかない道です」と彼は無線越しに言う。


 使い慣れないスマートフォンの画面をスワイプしてみると、なるほど奥まった道だけを使う精巧な経路図だ。


 モーガンといいあの銀髪の少年といい、若い世代の能力には目を見張るものがある。それを受け入れるべきなのか、それとも憂うべきなのか。今のサラには結論が出せそうもない。


 何故か。それは単純な話だ。

 彼らに修羅場を強いているのは、他でもない自分自身なのだから。


   §

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る