第10話

 どれだけ気配を殺しても、獲物に飛び掛かる瞬間に捕食者はその姿を顕わにする。


 大抵の獲物は気付いたところで抵抗することも叶わず狩られるのがオチだが、しかしサラは違った。普段のサラは狩る側だ。狩られる側がどう動くか、そしてどう動くべきかを知っていて、その上で確実に仕留める術を身体に叩き込んでいる。だからこそ、襲撃を察知した瞬間半ば本能的に対応できた。


 右脚を軸に身を翻し、左手に持った鞄を遠心力に任せて襲撃者に叩きつける。完璧な奇襲にカウンターを返されるのは想定外だったのか、その人影が大きくよろめいた。


 刹那の間に拳銃を抜き、引き金を絞る――が、「うわっ……!」という吃驚の声を聞いた途端、サラの指先は凍り付いたように動きを止めた。


 声が幼い。


 いや、声だけではない。その肢体は十代半ばの少年そのものだ。ブラックの戦闘服とタクティカルベストでやや着膨れしているが間違いない。


 大ぶりのナイフを握る手もサラより小さく、モーガンと同年代のように見えた。外ハネの目立つアイスシルバーの髪と小生意気さを感じさせる向日葵色の瞳が、丸い輪郭と見事に融合している。いかにも年上受けしそうな美少年、という印象だった。


 サラが殺しあぐねた一瞬で銀髪の少年は体勢を立て直す。そして右手に握ったナイフで迷いなく突きを放った。その容貌に反して高度に訓練された所作。寸分の躊躇もなく、最大の殺傷力を最速で繰り出してくる。


 その腕を戦利品の鞄で払いのけながらサラは相手を観察する。背丈はモーガンとほぼ変わらず160㎝程度だが、顔立ちはスラヴ系のように見える。右手の得物もロシア製のカラテル・ナイフかその亜種。このタイミングで現地ベラルーシ当局が介入してきたとは考えにくく、となればロシアか、あるいはブリャンスクか。


(――どちらでもいいか)


 問題は彼がどこの所属かというところではない。殺意剥き出しに襲い掛かってきている以上、敵であることに間違いはないのだ。


 であれば何が問題なのかというと、それはサラが自身に与えた鉄の掟である。


 熟議によって解決することが理性なら、暴力と殺しで片を付けるのは紛れもない野性。それを生業にするのなら、理性的な掟で自らを縛らなければ殺し屋は獣と同じ。ほとんどレーヴァンからの受け売りではあるが、同時に彼女とサラが共有している数少ない訓戒でもある。


 間違っても依頼に無関係な人間を傷つけないこと、そして何があろうと子供は殺さないこと。殺し屋に人道を語る資格があるかはこの上なく疑わしいが、少なくともシリアルキラーに落ちぶれることだけは避けるための金科玉条。


 自ら課したこの掟を破ったことは一度もないが、そのせいで今度は非常に面倒な状況に陥ってしまった。


「……そのケース、グリエフ技師の物ですよね。返してもらえませんか、死にたくないなら」


 繰り出し続けた刺突と斬撃を掻い潜られ警戒し始めたのか、少年は少しばかり間合いを取った。その隙にサラは右手の拳銃をホルスターに戻す。この距離で武器は駄目だ。条件反射で殺してしまう。


「そのグリエフは死んだんだ。今更これだけ奪い返しても仕方ないんじゃないのか?」

って仕方ないのはあなたの方ですよ。別に自分で読むわけでもないんでしょ? 誰に飼われてるのか知りませんけど、そんな物のために死ぬなんて犬死にどころの話じゃない。それにお姉さん、これからもっと愉しめそうなのに」


 少年はじろじろと無遠慮にサラを見る。身体の芯まで見透かそうとするような、子供らしからぬ欲望に満ちた瞳。無論、その視線が好奇と情欲で覆い隠された鋭い観察眼であることは看破していた。安い挑発であると分かってはいるが、それでも生理的に不快ではある。


「……レディに向かって随分な口の利き方だな。やはり露助の鉄砲玉か」

「別にどこだっていいじゃないですか。知りたがりな雌犬さんです……ねッ!」


 少年が再び地面を蹴る。編上靴に弾き飛ばされた小石が赤錆だらけの鉄骨に当たり、甲高い音を立てる――と同時に、少年はサラの喉元を狙って白刃を繰り出していた。咄嗟に右腕を盾にしてナイフの軌道を阻む。


 上質な艶と柔らかな感触で気に入っていたゼニアの生地が無惨に切り裂かれる。だが血は滲まない。その代わりに微かな火花が散り、角材で殴られたような衝撃が腕に伝わってきた。スーツの下に仕込んでいた手甲は役に立ったようだ。


 しかし少年にとっても想定外は二度目。最初のように分かりやすい隙を晒すことはなかった。今度は体の軸を崩すことなく、次から次へと急所を狙った刺突が飛んでくる。


 一撃で致命傷を狙う攻撃が明らかに増えていた。子供を殺せないということに感付いて足元を見ているのか、それともこれ以上続ける余裕がないのか。恐らく前者だろう。追い詰められているのは余計な荷物とポリシーで雁字搦めのサラの方だ。


(気は進まないが……仕方ないか)


 サラは歯噛みする。このまま殺陣を続けても埒が明かない。

 要するに殺さなければよいのだ。多少傷を負わせることになっても。我ながら屁理屈だと思うが、やる他にない。


 溜飲を下げて、肝臓に向けて突き上げられるナイフを防ぐ。今度は受け流すのではなく、頑丈な牛革に深々と突き刺して止める。中身は確実に破れているだろうが……まあ、修復できないことはないだろう。そうして無理矢理作り出した隙をサラは最大限に活用した。


 少年の右眼窩横、頬骨きょうこつの辺りを手刀の要領で殴打する。感覚器への刺激で顔を背けた少年の下腹部に膝蹴りを叩き込み、大きく怯ませた隙に懐から取り出した円筒をタクティカルベストとポーチの隙間にねじ込んだ。


 手のひらサイズの黒い円筒。攪乱用として携行していた赤リン発煙弾だ。


「あ、あんた何を……!?」


 泡を食って異物を取り除こうとする少年を前蹴りで思い切り蹴飛ばす。小さく軽いその身体は思いの外派手に吹き飛び、積まれていた鉄骨にぶつかってようやく止まった。直後、発煙弾から濃い白煙が立ち上る。十酸化四リンが大気中の水分を吸着して形成された、軍事用途の煙幕。可視光のみならず赤外線をも阻む便利な代物である。


 とはいえ、元が対人用の兵器ではないためにいくつか問題もあった。

 まず皮膚への強い腐食性があることと――わずかな時間とはいえ2,700度の高温で燃焼すること。難燃素材の服を着ていれば火だるまは避けられるだろうが、火傷と薬傷は免れないだろう。


「げほっ……くそ、待てっ……!」


 順調に煙に包まれつつある苦悶の声を背に聞きながら、サラは猛然と走った。


 事ここに至っても援護がないということは恐らく単独行動なのだろう。部隊ではなく腕利きの工作員エージェントでも送り込んできたのだろうか。ベラルーシ当局であれば、自国内でそんな回りくどい手は使わないだろう。ついでにこの国に強い影響力を持ち、その気になれば自前の部隊を投入できるロシアの可能性も薄れる。


となればあれが、レーヴァンの言っていた「鷲」とやらか。


 とはいえ確証はない。一つの情報だけで十の事実を推測するのは危険だ。はっきりしているのは、この場から立ち去った方が安全だということだけだった。


「見てたなモーガン。車のエンジンはそっちからかけられるか?」

『もうやってます! 逃走経路もナビに出しました。自動ナンバープレート認識ANPRが設置されてないルートです』


「仕事が早いな」という口先ばかりの誉め言葉とともに藪に飛び込む。廃倉庫の駐車場だったと思しきアスファルトの上に停めるわけにもいかず、車は低木の藪の裏に隠してあった。


 小枝をへし折り草花を蹴散らした先に鎮座しているのはBMW M550i xDrive。マックス530馬力を発揮するV型8気筒V8エンジンに排気量4,400ccというモンスターマシンだ。ハイブリッド車に侵食されつつある今時の欧州製にしては珍しい化石燃料の暴力を、サラは殊更に愛している。


 そんな愛車はモーガンの言う通りすでにエンジンがかかっていた。ご丁寧なことに暖房とナビも。経路と履歴が記録されるナビゲーションシステムを使うのは控えたかったが、この際だから仕方がない。悠長に地図を暗記しながら車を転がすわけにはいかないのだ。


 運転席に身を沈めてシートベルトを締める。4,000回転までアクセルを踏み込んでクラッチを繋ぐと、さながら戦闘機のようなロケットスタートだ。加速力に関しては電気自動車に分があるとはいえ、あれらにはこういう荒々しさが足りない。しかし、今はそれを味わっている余裕もなさそうだった。


 ここから少し走ればベラルーシ第二の都市ホメリに入る。そこでグローリアが現地に置いている支部を訪ねる手筈になっている。隅々までグローリアの統治下にあるその場所なら、少なくとも襲撃を受けることはないだろう。


 そして恐らく、そこでこの車は廃車になる。あの少年に見られた可能性が僅かでもある以上、この車に乗り続けることには大きなリスクが伴うためだ。


 サラは砕けんばかりに奥歯を噛み締め、アクセルを強く踏む。口を衝いて出そうになった悪態は殺意とともに抑え込んだ。


   §


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