第9話

 むせ返るように生臭く、それでいて錆びた鉄のような臭いが鼻につく。髭面の頭目が流した血液と脳漿の臭いだ。額に穿たれた穴の小ささとは裏腹に、男の後頭部はグロテスクに、それでいて奇妙に美しく花開いていた。


 身代金目当てで人攫いを働いたところまでは加害者だった男だが、その結果国家ぐるみの陰謀に巻き込まれたという一点ではこの男も被害者だ。だからといって同情に値するほどの末路でもないのだが。


 シグ・ザウエルP226を腰のヒップホルスターに戻しつつ、サラは生き残った痩せ男に視線を向ける。セルゲイ・スピリドノヴィチ・グリエフ。写真で見た姿も威厳があるとは言い難かったが、部屋の隅で蹲っている姿はもはや子供のそれで、とにかくこの手の荒事とは無縁の人生であったことを如実に物語っている。


「お前がグリエフか?」


 サラが声をかけると彼はびくりと体を跳ねさせ、ゆっくりと頭を上げた。


「あ、ああ、いかにも。……私を知っているのか?」


 仕事柄な、と答えるとグリエフの気配が少し緩んだ。明らかにスラヴ系ではないサラの風貌も相まって、救出のために送り込まれたエージェントか何かと勘違いしているのかもしれない。


 物言わぬ肉塊と成り果てた髭面とは違って、この男は社会の裏側を知らない。“グローリア”の名前をこの男が知る由はないのだ。死にゆく者を騙すのは気が進まないが、こちらの方が仕事がやりやすいのは確かだった。


「まだ働いてもらわなければならないからな、五体満足なのは何よりだ。それで、お前と一緒に持ち出されたアタッシュケースはどこに?」


「ここにある。仕事道具はいつでも近くに置いておかなければ落ち着かない性分なのだが、彼らが現れたときは……どうやら裏目に出たようだ」


 疑う素振りも見せず、セルゲイは簡素なミーティングテーブルの上に本革のケースを載せる。長年主人に付き添い続けたのであろう鞄はあちこちに傷がついていて、事情を知らない者の目には単なるアンティーク品としか映らないだろう。この中に最先端の技術資料が収められているとは、誰も夢にも思うまい。


「……紙媒体に図面を引くとは。今日日そこまでこだわる奴も少ないだろうに」


 中身に欠損がないか調べ始めたセルゲイの様子を見つつ、サラが言った。


 ノートパソコンやSDカードの類も入ってはいるが、最も大きな比重を占めていたのは紙に印刷された資料だ。所々にマーカーやペンの殴り書きが目立ち、多数の付箋も貼り付けられている。人類の持つ最高の智慧をこれでもかと頭に詰め込んだ技術者らしからぬ、どこか前時代的な所持品だった。


「いいや、これらは正規の開発資料ではないのだよ。与えられた拡張性を食い潰してでもエンジンに最高の性能パフォーマンスを発揮させる、派生型の設計案だ。とはいえ私の妄想に近いものだから、設計局のサーバーに残しておくわけにはいかなくてね」


「男というのは難儀なものだな。そうやって非合理的なことを進んでやって、厄介事に巻き込まれる」


 言いながら、サラは小さな共犯者のことを思い出していた。


 モーガンも明らかにオーバースペックなパソコンを組み立てて悦に入っていたし、初めて出会ったときにはカスタムしすぎて逆に使いにくそうな拳銃を後生大事に握っていた。“揺り籠の中で覚えたことは墓場まで持っていく”という格言もあるくらいだから、少年の将来が今から心配になってくる。


 そんな風に少しだけ気を散らしていると、今度は技師の方が口を開いた。


「非合理的……か。確かにそうかもしれないな。かつて祖国ウクライナのためとソビエトに渡ってまで培った私の技術は、結局祖国に牙を剥いてしまった。いつかは帰りたいと思っていたが、もはや合わせる顔が無い」


「フランカーのエンジンのことか。何にせよ、兵器というものは得てして技師の思い通りには使われないものだ。カラシニコフにしろオッペンハイマーにしろ、自分の成果に頭を抱えた技師は多い。そう気に病むことでもないだろう」


「君はそう言ってくれるが、かのAL-31系エンジンは私の初仕事の場でもあったのだ。そう簡単に片を付けられることではない。我ながら、情けない話だと思うがね」


 ばたん、とアタッシュケースが閉められる。騒ぎ出さないところを見るに、中身はすべて揃っているようだ。それさえ分かれば後は何とでもなる。回収して持ち帰れば、どんなルートかは知らないがレーヴァンがアメリカに運び出すだろう。つまるところ、極めて陳腐な表現をするなら、この男はもはや用済みだ。


「終わったのか?」


「うむ、何も欠けてはいないようだ。これから私はどうすればいい?」


「……とりあえずここを出るぞ。いつまでも死体の隣で喋るわけにもいかない」


 サラが促すと男は鞄を携えて事務所を後にした。図らずして始まったエージェントごっこもこれで終いだ。溜飲を下げ、サラはナイフを手に取る。


 正直なところ刃物はあまり好きな得物ではない。肉を抉る手応えは何度経験しても気持ちのいいものではないからだ。それでも、柄を握れば後は一瞬だった。


 喉笛に頸動脈、そして腋窩えきか動脈。切り裂いた大動脈から鮮血が迸るより速く膝の腱と靭帯も断ち、仕上げに膝を突いた男の風府から頸椎に艶消しの刃を突き立てる。第一頸椎を削ぎ落し延髄にまで達した刃は、グリエフの生命活動を即座に停止させた。


 何故、などと考える時間は無かっただろう。少なくとも痛みにのたうつことなく逝けたはずだ。


 この男一人の死がブリャンスクの航空産業には大打撃のはず。しかしどうにも実感がわかないのは、死体と成り果てれば皆同じだからであろうか。命の価値というものが死んでようやく測れるというのは、何とも皮肉な話だった。


 ともあれ、サラは取り落とされた値千金のアタッシュケースを拾い上げる。ターボファンだかターボジェットだか知らないが、とにかくこれをレーヴァンに押し付ければそれで全て済む。


「モーガン、パッケージは確保した。倉庫の中に人はいない。車の方はどうだ?」


『お疲れ様です店長。車の方も特に異常ないですし、戻って大丈夫かと』


 遠く南ボヘミアで留守番をしているモーガンが言う。

電子の世界で戦う彼のお得意は街頭カメラのハッキングだが、今度ばかりは相当苦労しただろう。ならず者がたむろする廃倉庫以外には数えるほどの民家しかない寂れた街に、まともなカメラなどあろうはずもないのだから。


 そういうわけでハッキングを諦めた少年は、サラが足として使うBMW M550iの車載カメラを使った警戒に終始していた。ちなみにもう一台の愛車であるランドクルーザー300は大旅行グランド・ツーリングには不向きであるため、今は別荘のガレージに収まっている。


『白ロシア時代の森を延々と眺めてるのも悪くはありませんでしたね。なんだか植物学者にでもなった気分です』


「これぐらいで拗ねるな。たまたまお前と相性の悪い立地だっただけだ」


『それはそうですけど、流石に意識が飛ぶところでしたよ。車降りたっきり全然通信入れてくれませんでしたし』


『せめて安否確認くらいさせてください』とモーガンは言うが、退路と逃走手段の確保もそれなりに重要なことではある。彼自身もそれを理解はしていたようで、声は尻すぼみになっていった。


 ここ数日あの店舗兼住宅に一人きりで寂しさもあったのかもしれない。俯き加減で唇を尖らせている姿がありありと脳裏に浮かんで、サラは思わず苦笑する。


「悪かった。何か埋め合わせを考えておく」


『そうしてください。……それじゃ、切りますね』


 名残惜しげなモーガンとの通信が切れると同時に、サラも朽ちかけた倉庫を抜けて外に出た。辺りは一面砂利。整備も解体もされることなく錆び付いた重機と、打ち捨てられた鉄骨が所々に山を作っている。


 ロシアほどではないにせよ冬の気配が近付いてきたベラルーシはかなり肌寒い。雪降る季節を感じさせる寒風が、目の粗い砂利の上を駆け抜けていった。体感温度はもはや真冬。ハリウッドさながらの銃撃戦で火照った身体であるからなおさらだ。


(こんなところで風邪を引いても面白くないな)


 いつものように、車は現場から少し離れたところに停めてある。

 サラは砂利を踏みしめて足早にその場を後にした。砂地であれば足跡も気にかけるところだが、今回はそれも必要なさそうだ。靴底の形が残らない石くれと礫の上ならば、ならず者たちの足跡と区別するのは至難の業だろう。


 碌な戦闘員は数える程度のならず者を成敗し、ついでに技師を殺して鞄を奪う。生み出される損害と利益に比べれば簡単すぎるような仕事だった。


 そんな仕事への僅かな油断もあったのかもしれない。しかし大部分は、その人物はこの場にいるのが不自然なほど場慣れしていたということで説明がつく。


 サラが襲撃者の存在を感じ取ったのは、完全に間合いに入られた後のことだった。


   §


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