第6話

 覚えのある場所では履歴が残るカーナビの使用はなるべく控えるのがサラの流儀だ。よって次の標的の居場所には、地図と土地勘を総動員して向かわなければならない。


 資料と地図を突き合わせてルートを確認する。


 次の標的であるチャーリーの住処は、繁華街からは外れるものの市街地の中に位置していた。


 完全に郊外であるここからでも車を20分ほど転がせばたどり着ける距離だ。辺境から市街地までの移動に時間を取られないところが、チェスケー・ブジェヨヴィツェのようなコンパクトな都市のメリットである。


 ルートを頭に叩き込んでエンジンをかける。同時にモーガンが通信を寄越してきた。


『店長、今から標的Cの潜伏先に向かうところですよね』


「ああそうだが。何か問題か?」


『えーっと……彼が移動しました。恐らく車です』


「追跡は続けられるか?」


 アクセルを踏み込みながら会話を続ける。この辺りは人通りのない田舎道。多少飛ばしたくらいでは見咎められる心配もない。


『今は旧市街を縦断してヴルタヴァ川のほとり……ハーイェチェク公園です』


「分かった、向かう。それと、今度は直接手を借りるかもしれない。準備しておいてくれ」


『了解です』


 感付かれたのか偶然なのかは分からないが、少なくとも標的Cは自宅を離れた。これで人目に付く可能性も跳ね上がったというわけだ。そのうえ彼は先ほどのミロシュ・スレザークを上回る手練れというのだから、面倒臭さは倍増である。


 標的C、その本名はグスタフ・アードラー。


 ドイツ系のチェコ人である彼は、若年の頃から第7機械化旅団、第4緊急展開旅団などチェコ陸軍の主力を渡り歩いた強者つわものだ。欧州連合部隊EUFORに派遣され、内戦から復興途上のボスニアへ送られたという記録もある。


 三十路そこそこで除隊して以降は長らく民間軍事会社に勤めていたようだが、東欧で紛争が勃発してからは職を辞し、義勇兵に名乗りを上げている。根っからの叩き上げ、というのが率直な印象だった。


 そんな彼の罪状はといえば、意外にも先ほどの二人のように強烈ではない。要約すれば、教官を務めた外国人部隊で厳しい指導により自殺者を出した、ということだ。自分の手で民間人や負傷兵を殺害したわけではないらしい。


 戦時国際法や条約の専門家ではないサラに確かなことは言えないが、正直この男の行為が戦争犯罪に当たるのかは極めて疑問だった。


 それでも殺せと依頼してくるのだから、政治家というものはどんな手を使ってでも国益を守りたいのだろう。君主の気質を「獅子の威厳と狐の狡知」と説いたのは啓蒙思想家であるところのマキアヴェリだったか。良くも悪くも、その思想は今もなお生き続けているようだ。


 そんなことを考えながらしばらく車を走らせていると、やがて車窓に旧市街の外縁が見え始めた。


 ハーイェチェク公園はこの旧市街を南北に縦断し、川を一本渡った先にあるのだが……さすがにこの狭い道をSUVで駆け抜けるのはやや勇気がいる。何せ路肩への路上駐車は当たり前で、夜間ともなれば大型車がすれ違うのは至難の業なのだ。


 しかしながら標的が妙な動きを見せている今、悠長に迂回などしている場合ではない。下手を打てばこのまま逃亡される可能性すらある。


 意を決して大柄な四駆で旧市街の通りに入る。


 この辺りはすでに見知った道だった。ラムダ銃砲店がある古風な通りとは違って、ここらは幾分か現代的な景色が広がっている。舗装は石畳ではなくアスファルトで、立ち並ぶ店は飲食店や華やかな土産物屋が多い。


 卵型をしている旧市街の「卵黄」の部分にあるオタカルⅡ世広場を抜けると、ようやく狭い道も終わりが見え始めた。例の公園は目と鼻の先だ。


「モーガン、こっちはそろそろ着く。準備は?」


『とりあえず、一帯のカメラは同じ映像が記録され続けるように弄りました。僕の方も位置には着きましたけど、あんまり派手に撃ち合うようだときついですよ?』


 大急ぎで部屋を飛び出したらしく、多少息を切らしながら答える声とともに、何やらカチャカチャと金属音が聞こえてくる。サラにとっては酷く聞き慣れた音。しかしいま「それ」を扱う少年にしてみれば、心中穏やかではいられない状況だろう。


 サラはため息を一つ吐き、車を路肩にめる。


 ハーイェチェク公園は、この地域を要衝たらしめたヴルタヴァ川とマルシェ川の合流地点に佇む、緑豊かな公園だ。昼には園内の資料館兼プラネタリウムなどを目当てに市民が集まる憩いの場だが、時間が時間だけに今は人影も見当たらない。


 拳銃を片手に車を降りる。相手がこちらに気付いているのなら降りた途端に撃たれることも想定はしていたが、結局そうはならなかった。辺りは静かな街のままだ。


「モーガン、奴の正確な位置は分かるか?」


『不明です。ただ最後に映ったのが資料館の防犯カメラなので、多分公園の奥の方……川岸の辺りにいる可能性が高いかと』


「それより奥にカメラの類は無いんだな?」


『ええ、どの位置にも映りません。こんなことならGPSも付けるべきでしたね』


「今更何を言っても仕方がない。とにかく、しくじらないように集中しろ」


 そう指示して、サラは公園の最奥へ向かった。


 夜中ではあるが公園は月光と街灯に照らされていて、視界はそれなりに確保できている。足元の芝が少しずつ禿げ、目の粗い砂へと変わっていく。その代わりのように、岸に水がぶつかる音が聞こえ始めた。


 やがて木々の枝葉が途切れ、ヴルタヴァ川の清流――とまではいかないが、遠くドイツとの国境付近から流れ出る名水が眼前に現れる。


 が、いちいちそんなことに風情を感じていられるほど余裕があるわけではない。グスタフ・アードラーの姿が見えないのだ。


 すでにここを去ったのか……とも考えたが、これまでのモーガンの追跡は概ね正確だった。あの少年の目を盗んで移動するのは不可能に近い。


 警戒しながら周囲を見渡す。


 やはり周囲に人影は確認できない。唯一若干の活気を残しているのは公園に隣接するスポーツジムくらいのものだが、それにしてもここからは多少距離がある。


 確実に近くにいるはずなのに、幽霊のように姿だけは消している。偶然とは考えにくい状況。経緯はどうあれ標的Cはこちらの存在に気付いて逃走し、この公園に隠れて――あるいは、待ち伏せているのか。


 事態が動き始めたのはその時だった。枯れ枝を踏む音とともに、背中が何者かの気配を感じ取る。


「武器を捨てろ」


 サラが振り返るより先にややしわがれた声が言う。40代後半から50代前半といったところか。標的の声までは知らないが、状況から考えてこの男が標的Cで間違いないだろう。


「貴様どこの所属だ? 警察……いや保安情報庁BISか?」


 太い木の幹にでも隠れて窺っていたのだろうか。不意を突かれるのは今夜二度目だ。サラは砂の上に拳銃P226を放りながら、次の行動に考えを巡らす。


 街中のチンピラならいざ知らず、戦闘と自己防衛のプロがホールドアップの後で取る選択肢は二つに一つ。すなわち拘束して当局に引き渡すか、その場で射殺するか。この状況なら十中八九後者だろう。


 至近距離であれば多少は対応しやすかったかもしれない。しかし声の出どころは手を伸ばして届く距離ではなさそうだ。迂闊に距離を詰めないのはさすが熟練者といったところか。同時に、それは明確な殺意の表れでもある。


 いずれにせよ“使用人”に自分の死体を掃除させるのは御免蒙りたい。バックアップのP229で早撃ちでも試してみるか、などと考えていると、不意に無線が電波を拾った。


『すみません、サラさん。カメラも目視でもちょうど死角でした』


 モーガンだった。無論こちらから応答はできない。少し離れた場所からこちらを見ている彼も分かっているようで、返事をせずとも話は先に進んだ。


『標的Cは10メートル後方、武装はグロック26とナイフ。スリーカウントでこちらから撃ちます。3――』


 2――


 モーガンは躊躇いもなく「撃つ」と言った。しかし、年端もいかない少年に銃を撃たせるのはさすがに心やましい。だからこれは奥の手、苦肉の策だった。


 1――


 何も話さないサラに痺れを切らしたのか、砂を踏みしめる足音が近付く。好都合だ。近ければその分対処しやすくなる。


 ――0


 カウントが途切れるのと同時に、地面の砂が小さくぜた。モーガンが撃った.300ウィンチェスター・マグナム。頭を直接撃ち抜くのではなく、牽制のためわざと足元に撃ち込んだのだろう。


(そうだモーガン、お前はそれでいい)


 着弾からわずかに遅れて減音された銃声が響き、グスタフの意識が一瞬だけ明後日の方向に向く。


 自身の武装では対処できないと分かっていても、反射的に狙撃手の位置を確かめようとしたのだ。これが歩兵のさがというものだろう。


 タクティカルベルトに手を伸ばしながら身を翻す。ようやく男の姿が視界に入った。髪はすでにロマンスグレーだが、銃とナイフを構えるその腕は太い。傷痕が残る武骨な顔面と鋭い眼光は、幾多の修羅場を潜ってきた経験を雄弁に物語っていた。


 男が二、三度引き金を引く。しかしその対応は完全に後手で、銃口の先にはただ凪の水面みなもがあるだけだ。彼我の距離は思いの外詰まっていて、銃より刃の間合いだった。


 半分抜きかけたセカンダリをホルスターに押し戻し、代わりにナイフを掴む。見た目は細身だが信頼できる逸品だ。


 泡を食いながらも正確に追ってくる射線から体を外し、一挙に間合いを詰める。右手で握りこまれた拳銃を掴んで手首を極め、恐るべき殺傷力を秘める金属とポリマーの塊を払い落す。これで得物は対等だ。あとは技量が試される。


「貴様……木っ端役人の回し者がッ!」


 ハンマーグリップで振りかざされるコンバットナイフを受け流し、左側面に入り身する。そのまま絡め取るようにして左腕も極め、大ぶりなナイフを弾き飛ばして武装解除――したところまではよかったが、さすがに彼もやられっぱなしではない。


 フリーだった右腕の肘打ちが、サラの脇腹を掠める。さすがにクリーンヒットすると内臓にきそうだ。本当はこのまま喉笛と頸動脈に一撃入れるつもりだったが、そう簡単には死んでくれないらしい。


 だが体格差を考えるとこのまま手を放すのは間違いなく悪手だ。全盛期を過ぎているとはいえ、筋骨隆々の男と正面から殴り合うのは骨が折れる。文字通りの意味で。


 気合を入れ直し、サラはグスタフの足を刈って背中から地面に叩きつけた。100キロ近くはあろうかという巨体だ。受け身を取れたとしても衝撃はそのまま凶器となる。


 ぐぅっ、とくぐもった呻き声が上がる。後頭部をしたたかに打ち付けた男は、すでに意識朦朧という風にかぶりを振っていた。


「俺が……何をしたと言うんだ……!」


「戦争犯罪だそうだ。政治屋に命を預けたのは間違いだったな」


 全体重をかけるようにして厚い胸板にナイフを突き立てる。刃は鍛え上げられた胸筋を貫き、肋骨の隙間を正確にすり抜けた。その先にあるのは心臓だ。


 完全に意識が途絶えるまでの数秒間、グスタフはもはや断末魔の一つも上げなかった。というより上げられなかったというのが正確か。悪足掻きの定番である噛みつきバイティングを防ぐため、彼の顎と口はサラが押さえ込んでいたのだから。


 全身の筋繊維が弛緩し、やがて呼吸が止まる。確認するまでもなくグスタフ・アードラーは死んだのだ。


 ようやく緊張感が和らいでいく。今夜の狩りもこれで幕切れだ。


 深く息を吸ってみると、脇腹がズキズキと鈍い痛みを訴えていることに気が付いた。軽く掠っただけだと思っていた肘打ちは、どうやら少しばかり芯を捉えていたらしい。この分では一週間は痣が消えなさそうだ。


『これで依頼は完了ですね、お疲れさまでした。運転、できそうですか?』


 欠伸あくびを噛み殺したような声でモーガンが言う。いつの間にか腕時計の針は天辺でぴたりと重なっていた。良い子はとっくに寝静まっている時間だ。


「ああ、問題ない。お前は帰りに拾ったほうがいいか?」


『いえ、歩いて戻れる距離です。多分僕の方が先に着いてるかと』


「分かった。私は“使用人”に引き継いでから戻る」


 了解です、という返事を聞いて通信を切る。結局どこにいたのかは聞きそびれたが、弾痕の向きと「歩いて帰れる」距離であることを考えると、おそらく旧市街の尖塔にでも陣取っていたのだろう。


 アドレナリンの分泌が切れると急に疲れが込み上げてきた。シュネーたちが到着するまで車で休んでいようか、という不届きな考えが頭をよぎるが、しかしこの死体を部外者が発見すればことだ。


 もうしばらくは、嫌でもこの死体に寄り添うことになりそうだった。


   §


「申し訳ございません、サブノック様。この度はわたくし共の不手際でこのようなご迷惑を……」


 開口一番、シュネーはそう言って頭を下げた。サラが心当たりを見出せずにいると、メイド服の少女は懐から一台のスマートフォンを取り出す。男物のケースに収められているということは、恐らくミロシュ・スレザークの物だろう。


「貴方様が先ほどの現場を立ち去られた後、お亡くなりになられた方の携帯電話に着信がございました。モーガン……いえ、シラフジ様にお伺いしたところ、発信者が今晩の最後の標的と同じ名前とのことでしたので」


「ああ、なるほど……」


 履歴を見ると、確かにグスタフGustavアードラーAdlerの名前で着信が入っていた。律儀にも電話帳に登録されているところから見て、二人は定期的に連絡を取っていたのだろう。そして知己ちきが突然音信不通になったことで事態を察し、逃走を図ったということか。


 何のことはない。この男がこちらの存在に気付けたのは、超自然的な直感の類ではなかったわけだ。つまらないことで齟齬が生じてしまった。


「迅速にご連絡を差し上げられなかったわたくしの責任でございます。心よりお詫びを」


「何も君がそこまで気にすることじゃない。想定外なんてそう珍しくもないことだ」


 深々と腰を折るシュネーをサラは慌ててフォローする。まだ若いとはいえ、彼女も経験豊富なグローリアの使用人だ。彼女にできないことであれば、他の誰にもできなかっただろう。


「事態をひっかき回さないようにモーガンに連絡を入れたのはいい判断だ。おかげで、私も整理された情報を手に入れることができた。君は最善の対応をしたと思う」


「……もったいないお言葉でございます」


 少女はようやく頭を上げる。端正な顔には相変わらず表情がなく、感情を窺い知ることができない。せっかく素材は良いのだから、もう少し感情を表に出せば男受けもするだろうに。


「それじゃあ、とりあえず私はうちに戻るよ」


「はい。ごゆるりとお休みくださいませ。……それと、こちらはお返しいたします」


 そう言って、シュネーはサラがほうった拳銃とグスタフに突き刺さしたままだったナイフを差し出してくる。慎ましやかなメイド服に身を包んだ少女が、物騒極まりない武器を持っている。とても非現実的な光景だ。


 極東の方では喜ばれそうな絵面だな……などと考える自分が想像以上に疲れていることに、サラはようやく気が付いた。


   §

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