第5話

 最初の標的の潜伏先は、チェスケー・ブジェヨヴィツェ郊外にある診療所だった。


 そこから少し離れたところに車を停め、サラは夜道に繰り出す。いかに人通りの絶えた夜更けとはいえ、標的の目の前に四駆で乗り付けるわけにもいかないのだ。少しばかり歩くのはやむを得ない。


 それでも注意すべき防犯装置の類がどこにあるのか、モーガンが事前に調べ尽くしている時点で仕事は随分やりやすかった。何より足元が舗装路というだけで山登りよりは恵まれている。


 このあたりは旧市街周辺とは打って変わって、貯水池と広大な農園が織りなす田園風景が広がっているエリアだ。稠密ちゅうみつな中心市街地の喧騒を嫌って、この辺りの土地を虎視眈々と狙っている資産家も多い、というのは社会の裏側では有名な話だった。


 そのまま十分ほどは歩いただろうか。閑静な町の外れに近づいてきたところに、その診療所は佇んでいた。控えめに存在感を主張する銘板では心療内科が標榜されている。


 平屋建ての母屋と診療所を廊下で繋いだ、やや特異な構造の建物。ここに二人の戦争犯罪人が潜んでいるというが――しかし、いかにも町医者といった柔和な雰囲気の建物と、主権国家がプライドをかなぐり捨ててまで排除しようとする重犯罪者とは、どうしてもイメージが符合しなかった。


「モーガン、アルファブラヴォーは間違いなくここにいるんだな?」


 サラのボディカメラを通して同じ光景を見ているモーガンに問いかける。資料を漁っていたのか、答えが返るまでには若干間があった。


『資料では確かにそこになってます。実際に何日か監視して二人が住んでいるのは確認しましたし、間違いないはずですけど……』


「……なるほど、分かった」


 どちらにせよ入ってみれば答え合わせができる――と本気で考えられるほど楽天家ではないが、あまり時間をかけてもいられない。往々にして行動が長引くほど不確定要素は増えていくものだ。


 ホルスターから拳銃を抜く。警備会社と連動した防犯装置はモーガンが先んじて無力化しているはずだった。だから行動は大胆に、しかし標的に逃げられないよう慎重に。結局のところ臨機応変な対応が肝である。


 美しく剪定された庭木と花壇に彩られた前庭を抜け、母屋の勝手口に取り付く。鍵は古典的なシリンダー錠だ。マスターキーの用意はなくとも、多少の道具ですぐに開けられる。


『寝室は建物の東側奥です。この時間なら多分そこにいるはず――』


「言われなくても分かってる。それよりも“使用人”の手配をしておいてくれ」


『……もう呼ぶんですか? 多分二十分くらいで着きますけど、仕事中にかち合うと邪魔になりますよ』


「それまでには終わらせるさ。あまり長居したい場所でもないからな」


 言いつつ、鍵を破ったドアを慎重に押し開ける。この手の家にありがちなチェーンロックはかかっていなかった。どうやら正面の玄関から押し入らなかったのは正解だったようだ。


 整然と片付けられたキッチンを通過し、ダイニングから寝室へつながる廊下に出る。明かりは皆無に等しかったが、辛うじてカーテンの隙間から差し込む月明りと、事前に頭に叩き込んだ間取り図を頼りに歩を進めた。


 床の無垢材はそれなりに年季が入っているようで、足を乗せるたびに小さく軋む。


 耳をそばだてない限り聞こえない程度の音ではあるが、ここの標的の片方は元軍人だ。寸分の油断も許されないこの緊張感の中では、その小さな音ですら大きな雑音のように聞こえる。


 そんな雑音に気を引かれていたせいかもしれない。寝室の扉越しに漏れ聞こえてくる声にサラが気付いたのは、その扉を開け放つ直前のことだった。


「……さあ、もう夜も遅いわ。体に障ると大変だから、そろそろ眠りましょう」


「ごめんエリー、僕はもう少し起きておくよ。どうしても寝る気になれないんだ」


「ミロシュ……このところ毎日そう言ってるわよ。何かあったの?」


 ミロシュとエリー、すなわちエレノア。標的AとBの名で間違いない。どういう関係なのかは分からないが、二人は本当に一つ屋根の下に暮らしていたようだ。


 サラはドアノブを捻ろうとしていた左手を緩める。別にこの会話を最後まで聞こうと考えたわけではなく、単にこの流れならそのうち目を閉じてくれると期待したからだ。


「……毎晩夢に出るんだ、レティクルの向こうでたおれた人が。僕をなじる人もいれば、自分の家族を探している人もいる。そんな夢が毎晩毎晩毎晩……もう気が狂いそうなんだ」


「落ち着いてミロシュ。あなたは確かに多くの命を奪ったかもしれないし、中には民間の人が混ざっていたかもしれない。でも今のあなたは自分の過去と正面から向き合っているの。それは誰にでもできることじゃない。だから、あなたが自分を責め続ける必要はないのよ」


 茶番だな。


 口には出さずに悪態をつく。


 人を殺めた以上、罪の意識に苛まれるのは当たり前だ。サラとてそういう意識を抱きながらここにいるし、檻に入れられた人間でも多少は罪を自覚している。


 自分の罪を告解すれば赦されるという理屈が成り立つなら、世界は罪を罪とも思わない者たちで溢れ返ってしまう。


(まあ、私が言えたことでもないんだがな)


 手元の拳銃をグリップしなおす。ローディングインジケーターの張り出しが薬室に弾丸が送られていることを示していた。茶番はもうしばらく続きそうだが、この内容を延々と聞かされるのは精神衛生的によろしくない。


 そういうわけで、サラは大胆に行動することにした。


 レリーフの施されたアニグレの扉に体当たりを食らわせ、寝室に転がり込む。何の変哲もない生活空間といった部屋には、二台のベッドが据えられていた。二人の人間もそこにいる。


 ベッドの端に腰かけているミロシュと、彼を励ますよう肩に手を置いているエレノア。先に排除すべきなのは元軍人、ミロシュの方だ。訓練を受けた戦闘員であった以上、脅威度は当然エレノアより高い。


 力なく項垂れた頭に銃口を向けようとした瞬間、スローモーな動きで――そう見えただけで実際には相当速かったのだろうが――顔を上げたミロシュと目が合った。


 刹那を切り刻んだ一瞬のうちにミロシュはエンドテーブルに左手を伸ばす。その手にグリップエンドが覗いた瞬間、サラは死角になるクローゼットの陰に飛んだ。


 コンマ数秒前までサラの頭があった空間を鉛玉が切り裂く。


 構わず引き金を絞っていればミロシュは今頃死体に成り果てていただろうが、間違いなくこちらも深手を負っていただろう。状況把握の速さといい瞬発力といい、腐っても一人前以上の兵士ということか。


(最近の狙撃手は閉所戦闘CQBの訓練も受けるのか?)


 内心で嘆息するが頭は冴えている。そしてその冴えた頭で考えるに、木製のクローゼットの後ろは決して安全圏ではない。というより、武装している相手を制圧しない限り安全な場所などどこにもない。


 とりあえず彼には速やかに眠ってもらうべきだ。


「伏せてエリー! 銃声が止むまで頭を上げな――」


 彼の意識が女の方に向いたタイミングで半身を乗り出す。一瞬とはいえ注意を散らしていた分、男の反応は鈍い。サラが放った9㎜NATO弾は狙いを過たずその脳幹を貫いた。


 骸が倒れ、白いシーツに鮮血の染みが広がる。


 ミロシュ・スレザークは死んだ。侵略者から人々を救おうとした「ハルツィスクの死神」は、無辜の民を手にかけたという罪を背負って死んだ。どの新聞もこのことを伝えはしないだろうが。


 もう片方の標的に銃口を向ける。女はもはや抵抗しなかった。それどころか、悲鳴の一つすら上げようとしない。


「彼は……ようやく楽になれたのね」


 エレノアがゆらりと立ち上がる。彼女はサラの手に握られた凶器など気にも留めない様子で、隣のベッドに転んでいる亡骸の傍に腰かけた。


「悪く思うなよ。私だって来たくて来たわけじゃないんだ」


「分かっていますよ。私はそんな人たちを大勢診てきたんですもの。きっとあなたは、私たちの犯罪のことで誰かに頼まれたのでしょう?」


「……」


 軍隊上がりの男でさえ泡を食ったこの状況で、彼女の落ち着き方は異常だ。いや、落ち着いているというよりはむしろ諦観なのか、それとも時間稼ぎのつもりか。


 首筋に脂汗が滲む。“使用人”も来るのだ。早く引導を渡さねばならない。分かっている。分かってはいるが……彼女は最期に何を語るのだろうか。そのことに寸分の興味が湧いてしまった。


 そんな心情を知ってか知らずか、彼女はぽつりと口を開く。


「真実を知る者がいなくなる前に、あなたにはいくつか話しておかなければなりませんね」


「説教は御免だ。お前たちの犯罪のことはすべて知ってる」


「いいえ、あなたは聞かなければなりません。何も知らないままこの先を生きていくなんて、あなたの本望ではないはずよ」


 そう言い置いて彼女は言葉を紡ぎ始める。いかにも町医者然とした柔らかな雰囲気からは想像できないほど、エレノアは肝の太い女性だった。


「あなたが与えられた情報には真実が欠けているわ。彼が殺めたのは民間人であっても非戦闘員ではなかった。分離主義を吹き込まれたテロリストだったの。だからこそ彼は上官に言われるまま撃ち続けてきた。けれど、その証拠も終戦の混乱とともに失われてしまった。だから今日、彼はここで処刑されたのよ」


「そのことをなぜお前が知っている?」


「私が勤めていた後方の施設には、そういう民兵も度々担ぎ込まれてきていたの。大抵は証拠が十分じゃなかったから、治療が終わり次第解放されていたけれど……。あとは彼から聞いた話でもあるわ」


「奴が嘘をついていなかったと断言できるのか? 後方まで流れて来る情報はいつも不確かだ。お前の思い違いかも――」


「もし私の情報が間違いでも、ミロシュの受けた命令は確かなことよ。彼はそんな嘘をつく人間じゃない」


 語り終えたエレノアがふっと息を吐く。


 どうやら依頼の核心は隠されていたらしい。事前に探り当てられなかった情報が、現場にはそこかしこに転がっている。彼女の独白が真実であろうとなかろうと、この分では依頼主が隠している情報は山のようにありそうだ。


 だからといって、今更仕事を放り出すわけにもいかないのだが。


「……あの男はともかく、お前はなぜ殺した? 重傷の兵士を薬殺したと聞いているが」


「私は……クー・ド・グラスのつもりだったの。あなたも聞いたことくらいあるでしょう?」


「“情けの一撃coup de grâce”か」


「そう。あなたの言う通り彼らは皆重傷――いいえ、致命傷と言うべき傷を負っていた。腕を失い、脚を失い、眼を失っていた。生きているのが不思議なくらい出血している人もいたわ」


 まさに地獄だった、とエレノアは目を伏せる。肩は小刻みに震えていた。その地獄を思い返しているのか、それとも目前に迫った死に打ち震えているのか。


 そんな彼女に情が移り始めている自分に、サラは心の底から辟易した。死にゆく者と最後の会話を交わしたがるのは悪い癖だ。暗殺者は死神でもなければ天使でもない。赦しなど与えられようはずもないのだから。


「現代医学も魔法じゃない。救いようのない怪我人が、ただ苦しむためだけに生き永らえるくらいなら、いっそ殺してあげた方が楽になる……。私は本気でそう思ったの。エゴとしか言いようがないわよね」


「……お前の言う『真実』はこれでお終いか?」


「ええ、私が伝えられるのはこれだけ。そろそろ私もミロシュのところに行かないと」


 そう言って、彼女はベッドの遺体に手を差し伸べる。その手がそっと握りしめたのは、一度は闖入者に向けられたミロシュの拳銃グロックだった。


「愁嘆場を演じてしまいましたね、ごめんなさい。でも、最後に誰かとお話しができてよかったわ。彼には弱いところなんて見せられなかったから」


 エレノアは自らの喉元にグロックを突き付ける。いっそ狂気すら感じさせるような清々しい表情で彼女は微笑み――引き金を引いた。


 銃声とともに赤い飛沫が壁に散る。亡骸はまるで意識があるかのように、ミロシュの骸に寄り添って倒れた。自ら命を絶った者とは思えない穏やかな死に顔。数年間背負い続けてきた十字架から、彼女はようやく解放されたのだ。


 結局、最後にはサラだけが残されてしまった。とてつもなく後味の悪い空気の中に、たった一人だけ。


 いつも通りだな、と独り言ちて左腕の時計を確認する。


 案外時間をかけてしまったようで、モーガンと最後に会話してから二十分が経とうとしていた。こんな夜中にここを訪ねる者などそういないだろうが、そろそろおいとましなければならない。


 しかし、まだやらなければならないことはいくつか残っていた。


 拳銃に代わってナイフを握る。標的が完全に息絶えているか確かめるためだ。万が一まだ死に切れていなければ、最悪背中から撃たれるようなことになりかねない。


 うつ伏せに倒れたミロシュの心臓を背中から刺す。肉を抉る手応えが、柄と手袋越しにでもはっきり感じられた。だが急所を刺したにも関わらず出血は少ない。彼は確かに死んでいるようだ。


 ナイフを引き抜き、べったりと刃を濡らしている血糊を拭う。


 次はエレノア。できれば彼女の身体に余計な傷は付けたくなかったが、自分で射殺したわけではない以上ミロシュより怪しいともいえる。


 呼吸が無いことを確認してこの場から離れるということも考えたが、しかし詰めの甘さは後から厄介事をもたらしかねない。本来ならこの稼業に私情など持ち込むべきではないのだ。


 躊躇逡巡を振り切り、意を決して彼女の胸に刃を突き立てる。やはりと言うべきか、その身体は痙攣一つ起こすことはなかった。間違いなく死んでいる。


 少なくとも彼女は苦しむことなく逝けたらしい。そのことに対する安堵と一抹の罪悪感と、その他諸々の感情がない交ぜになった息を吐く。そして彼女の胸からそっとナイフを抜こうとしたその時――


「お取込み中失礼致します、サブノック様」


 背後からかけられた声にサラは瞬時に反応した。瞬間的に心拍数が上がり、心臓が早鐘を打つ。クイックドロウした拳銃の照準器サイトが捉えていたのは、こともあろうに少女だった。


 血生臭い殺人の現場にティーンエイジャーがいる。それ自体中々の異常事態だが、何よりも異彩を放っていたのはその服装だった。


 シックで実用的な黒いドレスの上に白いエプロンを身に着け、豊かな黒髪を白いレース――ホワイトブリムで押さえた、上品さを感じさせる仕着せ。いわゆるメイド服というものだ。


 衣装しかり銀の鈴のように透き通った声しかり、全体的に非現実的な雰囲気をその少女は纏っていた。


「わたくしでございますサブノック様。ご用命とのことで馳せ参じました」


「シュネーか……。すまない、少し気を散らしていた」


 サラは拳銃を下げ、シュネーと呼ばれた少女は「滅相もないことです」と軽く頭を下げた。彼女の後ろには数人の黒服が控えていて、各々が何やら掃除道具らしきものを携えている。この集団こそ凄惨な現場の後始末を一手に担っている“使用人”の一行だ。


 死体の回収から証拠隠滅まで、仕事を終えた後のことは基本的に彼女らに任せておけばいい。使用人たちの手にかかれば、そこで起きた事件はすべてなかったことになる。これもグローリアが殺し屋コントラクターたちに提供しているサービスの一つだった。


 流石に山奥まで出張させるのはこの少女に悪い気がして、この前の仕事では使わなかったのだが。


「いつもながら見事なお手並み、感服いたしました。ご遺体の検分も含めてわたくし共が始末を致しますので、後のことはお任せください」


 横たわる二人分の死体を見つめながら、黒髪の少女は言う。その切れ長の目元には一切の動揺がない。モーガンと大して変わらない歳だと聞いているが、彼女は随分と大人びて見えた。


「二人とも丁重に弔ってやってほしい。他のことはまあ……いつも通り君に任せる」


「承知いたしました。今宵のお勤めはこれでお済みになられましたか?」


「いや、まだもう一人残っている」


「左様でございますか。ではそちらもお掃除させていただきますので、終わり次第お呼び立てください」


「ご武運を」と一礼して、シュネーは死体の方に向き直る。同時に控えていた黒服たちもせわしく作業を始めた。後は任せておけば大丈夫だろう。


 今度こそナイフを手元に戻し、懐から取り出した布切れで血を拭い去る。無反射処理が施された刃に毀れは見当たらないが、一度は血にまみれてしまった。きちんと手入れをしておかなければすぐに錆び付いてしまう。


 面倒事が一つ増えたな、とサラは小さく溜め息を吐いた。


   §

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