第3話

「これでいい……のか……?」


 エンターキーを叩き、上書きして保存し、そしてメッセージに添付する。

 有象無象の会社員ならば当たり前にできることだが、サラがこの手順をマスターするには少々時間を要した。


 子供の頃からキーボードとマウスの作業が苦手だった――というより、パソコンに触る機会そのものが皆無に等しかったのだ。大学生になるまで液晶といえば実家のテレビ以外触ったことすらなかったのだから、機械音痴もむべなるかなといった具合である。


「くっ……うぅぅぅ……はぁ……」


 液晶から顔を上げ、天井に向かって思い切り伸びをする。かなりの部分を端折った報告書とはいえ、やはり仕上げるには半日近くかかってしまった。


「お疲れ様です、店長」


 言いつつ、モーガンが紅茶のカップを差し出してくる。仕事が終わるタイミングを事前に知っていたかのような完璧なタイミングだった。カップに口をつけて喉を潤すと、幾分か疲れも和らぐ。


 芳醇な果実のような香りに、独特だが上品さを感じさせる甘み。これはダージリンだろうか――などとぼんやり物思うサラの隣に、モーガンが椅子を引き寄せた。


「最近日が落ちるのもちょっと早くなってきましたよね。気温はまだ全然ですけど」


 ギリギリのところで床に着かない両足をぶらつかせながら、少年はそんなことを言い出す。つられて窓の外に視線を投げると、街には夜のとばりが降り始めていた。向かいのブティックはもう店仕舞いを始めている。


「もうそんな時間か。ろくに営業できてない気がするんだが」

「まあお客さんもほぼ入りませんでしたからね。ほぼ休みの日と同じでしたよ」


 店長は随分忙しそうでしたけど、と言い添える声を聞きながら、サラはラップトップに視線を戻す。文明の知恵が詰まった半導体の塊には、すべての元凶たるWebページが開かれていた。


 見出しに躍るのはgloriaグローリアの文字を象った意匠。

 いわゆるディープウェブに存在することを感じさせない作りこまれたページは、世界中の殺し屋コントラクター依頼人クライアントとが形作るコミュニティ――そう言って良いのなら“組合”のものだ。


 その主な役割は世界中から暗殺の依頼を取りまとめ、所属する仕事人に斡旋すること。今やこの組織に籍を置かない殺し屋など存在しないというのは、地下経済に属する者たちの間では有名な噂だった。


 しかし同時に、成果報告を催促してラムダ銃砲店の営業を妨害した黒幕でもある。


「しばらく連中には黙っていてもらいたいものだな。こうも急かされると店のほうが立ち行かん」


「まあ無理でしょうね。戦争も終わったばっかりですから」


 モーガンが自分の紅茶にミルクを入れながら言う。


 彼の言う戦争というのは、数か月前まで東欧で続いていた「特別軍事作戦」のことだろう。最終的にNATOと敵対陣営の代理戦争という様相を呈した戦闘は、世界大戦に発展する一歩手前でようやく妥結を見た。


 とはいえ対立の再燃に繋がりかねない火種はまだくすぶり続けていて、各国は火消しに躍起になっているという。そんな中で政府が直接手を下すことをためらう事案はグローリアに持ち込まれ、特に腕の立つ者に依頼として分配されている。


 その結果、ここ最近サラのもとには次々と依頼が入っていた。それも断らせる気を欠片も感じさせない機密事項を含む依頼が。


「でも、これ以上休業の日が増えたらいい加減立ち行かないですね。報酬で補填するにしても、税金とかいろいろ面倒ですし……」


 ミルクティーをちまちまと啜りながら話すモーガンの顔には、不本意という文字が貼り付いている。


 元々モーガンはこの稼業に対して良い感情を持っていなかった。決して豊かではないが真っ当な手段で食い扶持を稼げる店の経営に、人殺しで稼いだ金が入って来るのが気に食わないのかもしれない。


 その気持ちをなるべく汲んでやりたいとサラは常々思っているが、しかし店の収支は右肩下がりなのだ。帳簿付けを手伝っているモーガンもそのことはよく分かっているはずで、だからこそ言葉に出して非難することはしないのだろう。


 サラは軽く息を吐く。本当なら店の経営が傾いているのは店主の責任なのだから、非難されて然るべきだ。それでも、いじらしいことにモーガンは店主のことを気遣っている。そのことが逆にサラの心を締め付けていた。


(いっそなじってくれたほうが気が楽なんだがな……)


 そんな風に自嘲していると、不意にドアベルの音色が店内に響いた。


 見れば、若い女が店に入ってきている。スレンダーな身体を純白のスーツに包んだ、長い栗色の髪の女。上品に年を重ねた紳士淑女が大半のこの店の客としては、明らかに異質な存在だった。


「申し訳ございませんお客様、本日は閉店の時間でして――」


「構うなモーガン、そいつは客じゃない」


 接客モードに入ったモーガンを引き留める。怪訝な顔で振り返る少年をよそに、サラは女に向けて語りかけた。


「こんなところまで何の用だ、レーヴァン。お前に売る銃は残ってないぞ」


「サラ、遠路遥々プラハから来た親友にかける言葉がそれか? もっと他に言うことがあんだろ」


「生憎店はもう閉じるんだ。接客はまた今度にしてくれ」


「出ていけ」とジェスチャーで示すが、女――レーヴァンは諦める素振りを見せない。それどころか、つかつかとカウンターのサラに歩み寄ってくる始末だった。


「少年、少し失礼するよ」


 目を白黒させながら成り行きを見守るモーガンに声をかけ、彼女はカウンターを挟んでサラの向かい側に腰を下ろす。閉店間際に押しかけてきたにしては、あまりにも余裕に満ちた態度。面の皮の千枚張りとはこういう人間のことをいうのだろう。


「いい店だとは思うが、まともに経営できてんのか? さっきの態度じゃ客も逃げるだろ」


「それなりに上手くやってるよ。今日もお前の部下に出す報告書で無事に一日潰せた」


「そいつは悪かったな。帰ったら少し叱っといてやるよ」


「できれば私の手でシメてやりたいところだが……。それで、グローリアのボスが直々に何の用だ? まさか世間話に来たわけじゃないんだろう?」


「えっ……」とモーガンが声を漏らす。彼がこの女に会うのは初めてだということに、サラは今になって気が付いた。


 グローリアのボス、という言葉に偽りはない。モーガンの目にはやたら馴れ馴れしい客としか映らないであろうこの女こそ、世界の地下経済を掌握する巨大ネットワークの中心にある存在だ。


 そんな彼女はサラのことをいたく気に入っているらしく、親友を自称して憚らない。しかしサラからしてみれば、とても友人とは言えない間柄だった。


 そもそも「レーヴァンraven」という呼び方自体、渡り鳥のように世界中を駆け巡る彼女のあだ名でしかないのだ。少なくとも、本名すら知れない相手を「親友」と呼べる図太さなどサラは持ち合わせていない。


 そのことをどうモーガンに説明するか――と逡巡して、結局諦める。

 何だかんだ多忙な彼女がわざわざ店を訪ねてきたということは、恐らく急ぎの仕事でも持ってきたのだろう。自己紹介させる時間も惜しいはずだ。


「モーガン、今日のところはもういい。後のことは私がやるから先に休んでおけ」


「は、はぁ……」


 曖昧に頷いて、モーガンは二階の住宅スペースへと消えていく。すっかり日が落ちて明かりも足りなくなってきた店内には、女二人だけが残された。


「このところ休業続きで店の方も危ういんだ。また面倒事を持ち込んでくれるなよ」


「ほら見ろ、やっぱり上手く行ってないんじゃねぇか」


「誰かさんがやたら断りにくい依頼ばかり回すおかげでな。それで、次の依頼はどこからだ? この流れだとクレムリンか? それともホワイトハウスか?」


「分かってる、分かってるさ。だがグローリアの上客はいつでも政府の連中なんだ。腕が立って口も堅い奴にしか頼めないんだよ」


 見え透いた世辞だな、とサラは吐き捨てる。

 どうせ今回もその手の仕事を持ってきたのだろう。また店を閉めるか、あるいは寝不足に苦しみながら仕事をこなすかの選択をしなければならない。


「とまあそういう話だから、またアンタを指名したいんだが……任されてくれるか?」


「今回は事前の情報開示はしないんだな。先に機密を話して断れなくするのがお前らの常套手段じゃなかったのか」


「話した後に断る奴が出てきやがったからな、やり方を変えることにした。お前も請けた後でやめるなんて言い出すのはなしにしてくれよ?」


 ちっ、と小さな舌打ちが聞こえた。やはり巨大な組織の長というのは気苦労が多いのだろう。それとも、こうして苦労をアピールするのも交渉術の一つなのか。


「余計に悪辣な気がするがな。まあいい、どうせ他に当てもないんだろう?」


「……恩に着るよ、サラ」


 心なしか安堵したような表情で、レーヴァンはバッグを漁り始める。男性的な口調ではあるが、小脇に抱えていたバッグは普通の女性が好むようなオフィスカジュアルだ。やがて、彼女は一つのUSBメモリを取り出した。


依頼者クライアントはチェコ政府だ。詳しい情報はこのメモリに入ってる」


「……お前、私がパソコン使えないこと忘れてないか?」


「あの少年に任せればいいだろ。アンタの電子機器担当WSOだと聞いたぞ?」


「一応訊いておくが、誰から聞いた?」


「誰からも何も、結構な噂になってんだぞ。……ま、そりゃ噂にもなるよな。まさかアンタが――」


 そこで言葉を切って、レーヴァンははしばみ色の瞳に下卑た笑みを浮かべる。


「アンタが実はショタコンだったなんて、衝撃のカミングアウトどころの話じゃないからな」


「出ていけ」


 モーガンを下がらせたのはやはり正解だった。何も知らないあの少年には、後でこの女がいかに小賢しい毒婦であるかを嫌というほど聞かせてやろう。


 サラはそう心に決め、USBメモリをポケットに突っ込んだ。


   §

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