4「セアラ」と「ジェン」

 サリーが分署の外の空気を吸えたのは、留置所に戻されて、さらに一時間後だった。

 けたたましいクラクションを鳴らしながら通り過ぎる車。スーツ男がタバコの吸い殻を路肩に投げ捨て、軒下にすわっている老人が昼間から紙袋を傾けている。

 いつもどおりの光景をながめ、自由になった実感にしばしひたる。自分から入ったとはいえ、外に出るのは気分がよかった。

 見送りのつもりか、分署の外までコーサックがついてきた。

「待たせて悪かったな」

「そのわりには楽しそうな顔してるよね」

「誤認逮捕せずにすんで、ほっとしてるんだ」

 答えつつ、ジャケットの胸ポケットから手帳を取り出した。

「弁護士センセイ……えっと……ウェン弁護士からメッセージを預かってる。『クリスタル・ダイナー』で待っているそうだ」

「クリスタル……」

 どこかで聞いたことのある屋号だ。記憶を探るうち、がっしりした短躯にエプロンを付けた男の姿が目に浮かんだ。しかし、

「店の名前、間違ってない?」

「ウエストサイズは年相応になったが、聞き間違えるほど、もうろくはしていない。知らない店なのか?」

「ううん、知ってるけど……」

 どんなに忙しくても週二回のジム通いを欠かさないウェンが、庶民ダイナーに座っている姿が想像できなかった。

 とはいえ仕事でなら、イスとテーブルがある手近な場所として利用することもあるだろう。コーヒーも悪くなかった店だし。

「ついでにランチをしてこい。待たせたび代だ」

 折り畳んだ紙幣を差し出してきた。

 サリーは遠慮しなかった。

「ありがと」

 受けとってバッグの中へ。

 待ち疲れて、体力をすでに使い果たしていた。断る言葉をつむぎ出すより、素直に受け取ったほうが短くてすむ。

 釈放を待たされた理由も考えなかった。


 サリーは、クリスタル・ダイナーに入ってすぐ、窓際の席に目的の人物を見つけた。

 ウェンに小さく手を振る。相手もすぐに気付いて、片手を小さくあげてきた。

 やや細身の身体を包んでいるのは、ダークトーンでベーシックなスカートスーツ。メガネはすっきりしたリムレス。弁護士らしいシンプルでかっちりとした装いが、ダイナーのほかの客から浮いている。

 容姿だけを見ていると、ベットの中で発揮してくるSっ気は想像し難い。法廷でもあの調子かと想像すると、反対尋問を受ける相手が気の毒に思える。

 いまの彼女の獲物は、さしずめ自分というところか。

 地味なスーツに不釣り合いな熱さの視線が、ビジネスの場で見せるものとは別物になっていた。

 腹を据える。この方法が一番なのだ。

 ジェニファー・ウェンが期待の目で見てくるということは、こちらも仕事の成果を期待していいだろう。

 サリーは、対面するイスに座ろうとした。が、ウェンは自分の隣のイスを指した。

「こっち側に座って」

 予想できたリクエストだが、

「隣に?」

 わざとあからさまな警戒を見せてやった。差し出す報酬が容易な印象を与えると、つり上げられるキケンがある。

「いきなりの早朝呼び出しに応えて、準備も急いで整えた。安い特別手当でしょ?」

「ジェニファー・ウェン弁護士ともあろうひとが、ずいぶん細かい報酬を要求すること。で、見込みは?」

「正当防衛を客観的に証明できる証拠は乏しいけど、殺人とする物証もない。殺されたダグ・デービスさんが、真っ白というわけではなかったことも材料にできる。あと、担当刑事がこちらに協力的だったのも、運がよかった」

「じゃあ、ウェン弁護士に確かめておきたいんだけど」

「ジェン」

「……は?」

「ふたりでいるときは『ジェン』で呼んでくれるんでしょ?『セアラ』」

 サリーは、しらけた仏頂面を返事の代わりにした。

「ジェン」は、報酬を差し出す時間になってからだ。

 それから、ひとの本名を勝手にパブリックスペースで出すなと言ったはず。営業時間外で付き合う気はない。が——

「訊きたいこと、もういいの?」と弁護士が焚きつける。

 サリーのほうが折れた。

「フェリスを襲った女が、早いタイミングで出てくる可能性は? ジェン」

 もう、やけくそだ。名前を呼ぶ声に甘さも加えてやった。

 リムレスの眼鏡越しに見える目が、満足げに細められた。

「それについては──」一転して、感情をよませない表情になった。

「襲った女は、ベサニー・クラーク。クラークのトートバッグから、注射器が見つかった。他の所持品──ドラッグだけど、過剰摂取に見せかける意図があったとも考えられる。例えばウォーレスさんの前職の印象から、死因が過失と判断されることを狙って、とか。

 この線でいけば、第二級殺人で起訴できる。加えて余罪もある。保釈金の額を考えても、簡単に自由を得られるとは考えにくい──」

 ジェニファーに表情が戻った。

「あくまで、現時点での話ね。こんな感じでいい?」

「わかった。ありがと」

 サリーはうなずくと、背もたれに身体をあずけた。安堵の息がもれた。

 あとはルイに任せておけばいいか──。

 気が緩んで気付くのが遅れた。顔の横で動く気配に隣を見る。ジェニファーが窓の外に向かって、片手をあげていた。

 サリーの直感が緊急事態を察知する。

 弁護士の視線の先を確かめる。慌てて席を立とうとした。

 できなかった。

 隣に座っているジェニファーに腕をからめとられ、イスに縫い付けられた。

 こいつも共犯か!

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