4 静かな子羊は臆病か?

 フェリスが落としたダンベルは床に落ち、ベサニーにダメージを与えることはできなかった。

 それでも注意を引いたことで流れが変わった。死角から聞こえた重い音のほうに、ベサニーが思わず目をやった。

 こちらを視野の外にしたタイミングで、ルイは左足を振り上げた。

 膝裏をベサニーの首に引っかける。引き離しながら警棒を奪い返す。ベサニーの大腿部を打って振り払い、身体の自由を取り戻した。

 痛みに顔を歪め、うずくまったベサニーの腕をとる。背中側に回し、肩関節を極める。床に伏臥させ、背中を膝で押さえつけた。

 骨折させたり窒息させたりしないよう、体重のかけ方に気を遣いながら体勢を維持する。痛みで荒くなる呼吸を先に整えようとした。

「これ、使える⁉︎」

 察しがいいフェリスが差し出したのは、トレーニングチューブだった。ダンベルやプッシュアップバーとともに、適当に置いていたものだ。

「うん、ありがと。それもいいけど、本物の手錠が腰の後ろにあるの。出してくれる?」

 フェリスの手がシャツの裾をあげた。

 もう片方のフェリスの手が、腰に伸びる──

 その動きに気を取られたルイに、隙ができた。

 極められていた肩が緩み、わずかな自由を得たベサニーが、肩と膝を支点にして、腰を捻るように跳ね上げた。

 脇腹のダメージで、ルイの身体に踏ん張りがきかない。あっさり転がされた。

 激憤をこめたベサニーの視線が、一連の計画を狂わせた張本人を射抜く。

「フェリス、あんただけは──‼︎」

 掴まれていた腕は、倒れてなお放さないルイに引っ張られている。関節の可動域を無視する無理な力が加わり、ベサニーの肩に激烈な痛みが走る。それすら無視して警官を蹴りつけ、ルイの腕から自由になった。

 目に入ったダンベルをすかさず拾い上げる。

 原初的な武器として両手で保持し、遠心力を利用してフェリスに殴りかかった。

 金属と火薬の破裂音が響いた。

 その場にいる者の鼓膜を破りそうな音に、ベサニーの勢いも止まる。聞き覚えのある音だからだ。

「ダンベルを捨てて両手を上げろ! 膝をつけ!」

 尻餅をついた状態でハンドガンを照準したルイが警告を出す。ポイントを維持する姿勢がつらくて脂汗が流れたが、おくびにも出さなかった。


「次は威嚇ですませない」

 ルイの低い声に、ベサニーがダンベルを捨てた。

「これで、あたしをねじ伏せたと思わないで」

 フェリスに向かっての台詞だった。両手を肩より上にあげているものの、膝は折らない。立ったまま、フェリスを見下ろすように続けた。

「あんたは逆らえない。あたしが鉄格子の内側にいたとしても、付き従うしかない」

 含みをもたせた言い方に、フェリスは正面から言い返した。

「弱みを握っているから?」

「フェリス! 話さなくていい──」

「そんな脅しは、きかない!」

 ルイの声をかき消すように重ねた。

「自分の罪を隠すつもりは……もう、な、ないから」

 フェリスはいったん言葉を切った。声が震えてしまう。ひとつ大きく呼吸した。

「ダグを殺したのは、あたし。事情はいろいろあるけど──」

「フェリス、相手のペースにのらないで」

「大丈夫。わかってるから、ルイ」

 下手な発言が、あとで不利になる可能性を心配をしている。それでも、

「ベサニー。あなたが目の前にいる、いまのうちに話しておきたい」

 ルイが何かを言いかけたものの、口を結んだ。

 こちらの意志を大切にしてくれているのだとフェリスは感じる。背中を押してもらった気分。そのせいか、言いたいことがスムーズに出てきた。

「殺した事実には違いないから、行くべきところに行く。あたしも鉄格子の中に入る。そのかわり、あなたの言いなりにはなる必要はなくなる」

「言うだけなら簡単だよね。檻の中がどんなものかも知らないで」

 冷笑のかたちを口元でつくっているものの、ベサニーにいつもの余裕がなくなっている。

「今度こそ、逃げない。逆らって酷い目に遭ってきたから、怖くないわけじゃない。刑務所には刑務所の危険があるし。けど、捕まっていなくても、このままなら自由じゃない」

 発砲音で誰かが通報したらしい。パトロールカーのサイレン音が近付いてきた。

 ベサニーは顎を引き、従順なはずの子羊を睨みつけた。

「宣告猶予(執行猶予)でも期待してるんでしょ。あんたに、そんな度胸があるわけがない。しょせん、ひとりじゃ何もできない、臆病な子羊なんだよ!」

 フェリスは自分を鼓舞するように顔を上げた。

「すべの羊にツノがないわけじゃない! 何もできないわけじゃない‼︎」

 ベサニーのまなじりが吊り上がった。

「あたしに向かって生意気な口を叩くなぁッ!」

 向けられている銃口を無視して、フェリスへと殴りかかる。

 ルイの人差し指が拳銃のトリガーを絞るより早く、ドアが壊れる勢いで開かれた。

「NYPD!」

「動くな、両手をあげろ!」

 警告をハーモナイズさせて突入してきた制服警官の一人が、銃口をベサニーに照準する。もう一人がベサニーの後ろに回り、フェリスから引き剥がして遠ざけた。

 フェリスは初めて、ベサニーと同じ目線の高さにいる。

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