六章 あらわれたもの
1 甘い匂いには裏がある
アパートの部屋の鍵を挿すとき、フェリスはしばし躊躇した。
しかし、新たな行動をおこすには疲れすぎていた。まずは休まないと、何もできそうにない。部屋に入った。
店のユニフォームを入れた紙袋を隅に置くと、ソファーに吸い寄せられた。
座ると、もう動けない。小さなソファーに、ぐったりと身体をゆだねた。
シャワーを使う気力がない。何か食べておくようルイから言われたが、食欲もわかない。気持ちだけが落ち着かず、あてどなく、うろうろしていた。
こうなる原因はわかっていた。わかっていながらも、とるべき行動がおこせない。疲れているだけではなかった。
怖いのだ。
サリーのもとに身を寄せる前、二度ばかり逮捕されたことがある。
ボディチェックで男の警官に無遠慮に触れられた。ささいなことで怒鳴り声をあげられ、わざと大きな物音をたてられ、そのたびに身体がすくんだ。
あからさまな侮蔑の視線もあった。
声や物音だけでなく、精神的にも威圧された。
市民をまもる警官といっても、まもる対象となる市民は、自分たちで選んでいる。家畜でも、もう少し丁寧に扱ってもらえるじゃないかと思った。
警察に行くというのは、その只中に戻ることだった。
なかにはルイのような警官もいるだろう。けれど、宝くじを引き当てるようなものだ。
そんななかで自分の正当性を、正当防衛を主張する自信がなかった。
圧倒的な体力差がある相手に、〝正しく〟反撃することは難しい。及ばない力を補おうと、過剰な防衛になるのは当然といえる。
そんな当たり前をわかってくれない警官がいる。
暴力にさらされた力のない人間が、どんな反応をするのか。自然な反射的行動を無視して、点数稼ぎをしようとする警官が相手でも、納得させられるのか──。
できないと知っているサリーが、代わって前に出てくれた。
ルイも、サリーのやり方を受け入れていた。
だから、これが正解なのだと思った。
ふたりの言う通りにしていたら大丈夫。そう思おうとした。
ふいに疑問がわいた。これだけ警官に苦手意識があるのに、なぜ初めて会ったルイに協力できたのだろう。
強盗から助けてほしい一心から……だけではない気がする。
この警官なら頼って大丈夫と感じたのだ。
この感覚は、保護者がいない子ども時代を過ごして身についたものだった。守ってくれそうな相手をかぎわける、狡猾な特技といえるかもしれない。
けれど、いまのままルイに頼るということは……
フェリスは、もう一度考えることにした。キッチンから水を汲んでくる。
ソファに戻るなり、一気に飲み干してしまった。喉が渇いていたことにも気付いていなかった。
グラスを小さなローテーブルに置き、一息ついたところでビクリとさせられた。
ドアブザーだった。
静かな部屋に響いた、無機質な音に身構える。
日付はとっくに変わっている。こんな時刻に、ブザーを鳴らすのは誰なのか。
フェリスは、すぐに出ようとしなかった。ドアを凝視する。
「遅くにゴメン。あたしよ。ベサニーだけど、開けてくれない?」
かろうじて誰かなのかは聞き取れた。知っている人間の声でほっとする。しかし、
なぜ、この部屋を知っているのか?
店の同僚に話した覚えはなかった。ダグ以外は、誰も知らないはずなのに……。
「いるんでしょ、フェリス。開けてくれないの?」
疑問文で訊いてはいても、ベサニーが言うなら「開けろ」ということだ。
フェリスは仕方なくドアへと向かった。
ぐずぐずしていたら、機嫌を損ねてしまう。騒がれて近所迷惑になるようなことは避けたかった。
ドアを開けると、ハードキャンディーの甘い香りが、まず入ってきた。
続けてミリタリーキャンバスのバッグを肩にかけた女性が、するりと身体を滑り込ませてくる。
「とんでもないことになったよねえ」
勝手に部屋にはいったベサニーは、ソファーにバックを置き、さっさと座ってしまった。
もう相手をするしかない。フェリスはソファーのそばに、所在なさげに立った。
「店に戻ったら警官が来ててさ。ダグが殺されたって」
視界が狭くなった気がした。
「そ、そう……ベサニーは戻ってきてたんだ」
いつものように話そうとするが、ベサニーの視線に動悸が早鐘を打つ。フェリスは動揺を悟られまいと、キッチンに逃げ込もうとした。
「コーヒー淹れてくる」
「いらない。座って。話があるの」
狭いソファーの端により、フェリスがすわるスペースをあけた。
フェリスはやむなく隣に座る。甘い匂いが強くなった。
「傲慢な男だったから、恨みを買ってたんだろうけど、殺すことはないよね」
それからフェリスに向き直って訊いた。
「ダグがそんなに憎かったの?」
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