四章 羊の逆襲

1 最後への一歩

 フェリスにとってのブルーパブの仕事は、生活費を得るためのものでしかない。

 スタッフや客を通して人脈ができる、商品知識がつく、美味しいものが食べられるといった、飲食業に就くことでの旨味はほとんどなかった。

 もともと、広く浅い人付き合いが苦手だっただけに、よく今まで保っていたと思う。

 辞めることをルイに伝えたその日、フェリスはすぐ実行に移すつもりでいた。時間をあけるほど、決心もうやむやにしてしまいそうだったから。


 最後の客を送り出し、店じまいをしながら、さりげなくダグの様子をうかがった。

 クラフトビール人気に気温の上昇が加わって、このところ店の賑わいは増している。店の算盤をはじいているダグの機嫌も、心なしかいいように見えた。

 ホール係の助っ人、ベサニーは二時間前に出て行ったきり戻ってこない。醸造所に戻ったようすもないから、直帰したようだった。

 話を切り出すには、このタイミングかと考える。

 かきいれ時に辞めることは難しい。先日の強盗騒ぎの共犯としてクビにされたスタッフの補充もできていない。いい顔をされないのは目に見えていた。

 それだけですむのか、不安もあった。

 働き始めた当初、甘いマスクにそえたダグの柔らかな態度は、かえってフェリスの警戒心をあおった。

 優しい言葉で接近してくる人間が、イニシアチブをとった途端に豹変するのを何度も経験したからだ。

 それでも、身体を売らなくても眠れる場所が得られる——。

 この魅力が大きかった。こんな条件のところは、ほかでは見つかりそうにない。自分に言い聞かせるようにして、ダグの下で働き続けた。

 サリーの元から離れ、再び、ひとりで生活の糧を得ようとしていたフェリスは、考える余裕をなくしていた。

 そんな弱みを見越してダグは、フェリスを雇い入れていた。

 そして、日が経つにつれ、本性を見せ始める。平均以上の報酬をチラつかせ、フェリスの身体をあてにした仕事をほのめかしてきた。

 意のままに動かないフェリスをクビにしなかったは、スタッフが減っては、パブが回らなくなるからだ。それだけホール係の定着率は悪かった。

 ただ、このあたりからダグは、不機嫌を隠さなくなった。

 感情的なダグに、辞めると言い出すのは気が重い。それだけに、気持ちに勢いがついている必要があった。

 辞めたい理由はほかにもある。

 統率者タイプなベサニーにも振り回されていた。

 ささいなことで機嫌が悪くなるのはまだしも、そのたびに口にしているハードキャンディを噛み砕く音が厭だった。品のない客を相手にするときはもちろん、指示された仕事の手順を間違えても、この音を聞かされる。

 ある意味、怒声をあげられた時より心臓がはねた。

 賑やかな店内であっても聞きつけてしまう、怒りのサイン。これに過剰反応してしまうのは、どうしようもなかった。

 住む部屋にしても、先に探したほうがいいのはわかっている。それでも、ルイが気持ちの支えとなっている今こそが、最適な時期に思えた。二、三週間なら安いモーテルですごす蓄えもあった。

 頑張る限界を超えると、動けなくなってしまう。

 言いたいことを伝えるのが苦手で、後ろ足で砂をかけるようなこともしてきた。けれど、今日こそは──。

 ダグとふたりきりの店内。

 フェリスは、調理場の床を洗い流しながら、ダグに切り出すタイミングをうかがう。


 自分のペースで話を進めないと、言いたいことが言えなくなってしまう。

 フェリスは自分から話しかけて主導権を持とうとしたが、先手をとられた。

「部屋に戻ったら、サイドテーブルの抽き出しに、これを入れておけ」

 差し出された小さな紙袋に、フェリスは眉を寄せた。いままでになかったものだ。中を覗き込もうとしてもダグはとめない。

 小さなガラス管——クラック・コカイン用のガラスパイプだった。

「なんだ? その顔は」

「クラックなんて強いやつを用意してるの……?」

「だったら、なんだ?」

 ダグは悪びれる様子もない。紙袋の中身がなんであるか知れば、拒否されることはわかっていた。そこをあえて従わせることに、ダグの思惑がある。

「それに、クスリは手伝わないって話だった。約束が違う」

「売れと言ってるわけじゃない。そもそも口答えできると思ってるのか?」

 ストリートで生活していた頃、ストローや丸めた一ドル紙幣で、粉末コカインを吸引している人を見かけた。クラックより軽い粉末コカインでさえ、みんなボロボロになっていた。

 そんなものを扱う手伝いなんか、やりたくない。

 部屋でクスリが使われていることを見て見ぬふりで流してきた。眠れる部屋を失う心配をしなくていいなら、意のままに動く必要はない。

 しかし、従うのは当然とばかりに、ダグはガラスパイプを差し出してくる。受け取らずにいたら、きっと……

 逆らったときの反応が怖くて、手をのばそうとする。

 同時に、ルイの言葉が頭をよぎった。

 ──できるフリから始めた。

 触発されたように、サリーを思い出した。理不尽な客から罵られると、背中を伸ばして言い返していた。

 ——イエスと答えさせるのに、大声で怖がらせるしか能がないの? 

 最初の一歩が、大きく感じられるだけかもしれない。

「や、やらない」

 やっと出した拒否の声は小さく、震えていた。

 それでも、ダグの恫喝が返ってきた。

「おれに逆らって、このままですむと思ってないよな?」

 額に青筋を張ったダグに迫られる。

 これまでなら、なにも言い返せなかった。しかし、

「いますぐ辞める。今週の給金もいらない」

 新しいスタッフの目処がつくまでは働くつもりだった。給金が消えるのもきつい。

 しかし、自分をないがしろにしたままでいるのも苦しかった。

「勝手なことができる立場じゃないと言ってんだ!」

 急に辞められることではなく、指示通りに動かないことに怒っている。ダグにとって、下の人間に指示した言葉は絶対だった。

「勝手じゃない。仕事内容は最初に決めてた!」

 声を出しはじめると、言葉が続いた。

「部屋の掃除と備品の整理だけでいいって、お互いに納得した。ルールを破ったのは、そっち!」

「細かい屁理屈をコネるな! また立ちんぼうに戻りたいか!?」

「かまわない! クスリを手伝うよりマシ!」

 ダグに逆らっていることが自分でも信じられなかった。

 従順になることが、傷を最小限にする方法だった。しかし、小さい傷でも重なれば致命傷になる。これ以上はというときまで眠っていては、死んだも同然になってしまう。

 殴り返すのは無理でも、逃げ出せるぐらいにはなりたい。

 膝が震えていたが、これを機に変われるのだだと、自分に言い聞かせた。

「メス犬が一人前言ってんじゃねえ! 人間らしい生活をさせてやってる恩を忘れんな‼︎  黙って持っていって、客を迎える準備しろ!」

「やらない‼︎」

 強引に持たされたガラスパイプをフェリスは投げ捨てた。床にぶつかって粉砕するガラスの音が響いた。

「てめえ……!」

 赤黒く顔を染めたダグが、憤激のまま腕を振り上げる。

 フェリスは瞳を閉じなかった。

 自分を守ろうと、丸まってしまいたくなる気持ちを抑え込む。ダグを見据え、拳が届かない距離をとっさにとった。

 ひとまずこの場から離れないと、力で言いなりにされてしまう。逃げ出すタイミングをつくろうとして、後ろ手で当たったものをつかもうとした。

 ぶつけてやるつもりが、つかみそこねた。

 金属製のものが落ちたらしい甲高い音を背景に、ダグが迫ってくる。

 焦る。目線をダグに合わせたまま探っていた利き手に、なにかが触れた。

 つかむ。拒否するように振り抜く。

 ダグは構うことなく突っ込んできていた。牽制のつもりで振ったのに、ダグの顔に当たった。衝撃を受けたガラス瓶が飛び散る。

「このアマぁ、やりやがったな!」

 フェリスが手にしていたのは、ビール瓶だった。

 ヒットしたのが額だったせいで、派手に出血している。流れる血で片方の視界をふさがれたダグが、鬼気迫る形相で詰め寄ってきた。

 防御しようと反射的に手を前に出す。同時に、ダグが体勢を崩した。

 フェリスが最初につかみ損ねたのが、金属製のオイルポットだったせいだ。床にこぼれた中身で、靴底を滑らせたダグが、フェリスに向かって倒れ込んでくる。

「──——!」

 巻き込まれまいと身をかわす。

 ダグが息を詰まらせたような声を放つ。前のめりになったまま倒れ込んだ。

 フェリスは肩で息をしながら距離をとった。体勢を整えなおす。

 調理場の外に出るには、倒れているダグの横を通らないといけない。

 外に逃げ出せるか、ダグが起き上がってくるのか。足先に力を込め、すぐに動けるようにに備えた。

 何も起こらない時間が過ぎた。

「…………」

 おかしい。

 ダグが、じっとしたまま動かなかった。

 一秒経つごとに不安が大きくなっていく。頭から倒れて、気絶したんだろうか。

 手が重かった。

 フェリスは、握っていたはずのビール瓶がなくなっていることに、やっと気付いた。手にしているのが、いつの間にかフライパンになっている。

 もう一度、倒れたままのダグに視線を戻した。

 まだ動く気配がない。

 恐る恐る、肩口にふれた。揺さぶってみる。反応はない。

 ダグの首筋へと、空いている手をのばした。脈を確かめやすい箇所にふれる。

 頭をハンマーで一撃されたようなショックきた。

 膨れあがっていた危惧が、現実になっていた。

 床と天井がぐにゃりと混じり合う感じがする。フライパンが手から滑り落ちた。震える脚が、自分の体重すら支えられなくなる。膝を折った姿勢から、そのまま床にへたりこんだ。

 静まり返ったキッチンに、自分の呼吸の音だけがうるさい。

 そのなかで、小さな物音を聞いた気がした。

 ぎょっとして周囲に視線を走らせる。何もない。自分がしでかしたことに、怯えているせいなのか。

 死ぬことへの漠然とした不安から、生きようとしてきた。けれど生きることは、身を削るような苦しみに耐え続けることだった。さらに、ここにきて取り返しのつかないことをしてしまった。

 最初の一歩のはずが、最後への一歩を踏み出してしまった。

 かつてない困難に、どうしていいかわからない。気力もつきた。解決をもとめるフェリスの視線が、調理場のなかをさまよう。

 サンドイッチナイフでとまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る